鴎外の恋人、エリス

六草いちか著 『鴎外の恋  舞姫エリスの真実』





森鴎外の「舞姫」は鴎外自身の体験が含まれているということはよく知られている。さらにはこのモデルとなった女性がドイツから帰国した鴎外を追って日本にまでやって来たことも。しかしいったいどこまでが実際の体験なのか、また「エリス」は何者なのかについては長らく意見が分かれていた。著者は本書によって「エリス」の実名を発見するとともに、作中で「エリス」とされたエリーゼの帰国後の姿も追っている。

著者は文学研究者でもなければ歴史家でもない。しかしその取った手法は極めてオーソドックスなものである。先行研究を調べ、おおまかなあたりをつけたうえで公文書など公開されているアーカイブを丹念にあたっていくというものだ。もちろん空振りの終わることも多く、地味な作業に延々と取組む著者の労力には頭が下がるのだが、一方で「本職」の研究者たちがなぜこれまで著者の発見にたどりつけなかったのかという気にもならなくもないというのも正直なところでもある。

著者がこのテーマに惹き付けられたのは偶然によるものであり(偶然であったからこそより惹き付けられたられたということもあろう)、また「墓地の彼女」をはじめとする多くの出会いによって調査は進展していく。しかし著者がこれまで数々の研究者が決定的な答えに辿りつけなかった中、そこに達することができたのは何よりも先入観から解放されていたためかもしれない。著者も「あたり」をつけたうえで調査をするのだが(そうでなくてはとても前には進めない)、しかし「専門家」ではないために頑なに自説に固執することはない。一方の研究者たちは、あらかじめ仮説を立てることによって、仮説に合った証拠以外は目に入らないということが生じてしまっていたのかもしれない。従って著者が行ったようなローラー作戦的しらみつぶし調査を怠ってしまったのかもしれない。

「エリス」がここまで謎となってしまったのにはある理由がある。それは鴎外の晩年に、写真や手紙など「エリス」関連の貴重な資料となるはずだったものは全て妻の求めによって焼かれてしまったためである。一方で、あの当時にドイツ人女性が鴎外森林太郎を求めてわざわざ日本にまでやって来るという強烈なエピソードだけに、鴎外の親族をはじめ数多くの人が「回想合戦」を繰り広げている。意図的に虚偽の「回想」をしたものだけでなく、単なる記憶違いや伝聞に頼ったことによって様々なバリエーションが生じてしまい、いくらでも解釈の余地があるようになってしまった。このために研究者が想像力の翼を広げすぎた結果視野が狭くなるという事態を招いたのかもしれない。


もちろん著者も推測に頼らざるを得ない部分もあり、その一つが鴎外の子どもたちの名前である。そのの凄まじさは有名だが、鴎外の長男於菟は、子どもの名前はいずれもドイツ語に由来するとしている。於菟はOtto、茉莉はMarie、杏奴はAnne、不律はFritz、類はLouisといった具合である。中でも杏奴は「呼びにくいと鴎外の妻しげが反対したにもかかわらず、かねてから付けたい名だったと鴎外が譲らず、しまいに妻に隠れて区役所に届けを出してしまったというから、この名への思い入れのほどが窺える」とある(p.288)。
ではなぜ鴎外はそれほどまでにこの名にこだわったのだろうか。それはもしかすると、再会を誓って帰国させたはずが二度と会うことが叶わなかったエリーゼへの断ちがたい思いからか、彼女にちなんだものだったせいのかもしれない。「「茉莉(まり)Marie」をエリーゼの母親「Marie」から採ったのなら、「杏奴(あんぬ)Anne」はまさしくスペルが一致する祖母の名「アンネAnnne」からだろう。いずれにせよエリーゼの面影を強く感じる」(p.288)。

この部分は推測という要素が強く根拠は弱い印象があるが、もし仮に著者の推測通りだとしたら……まあ、妻としては写真や手紙を焼かせるのも無理はないというところかもしれない。


また本書はアカデミックな論文としてではなく、行きつ戻りつ、時には脱線しつつといったあたりのエピソードも込みの読物として書かれている。その結果として、鴎外とエリーゼのみならず19世紀後半のドイツ人の暮らしや日本人留学生の姿というものも浮かび上がってくるようでもある。


六草いちか著 『それからのエリス  いま明らかになる鴎外「舞姫」の面影』




こちらは『鴎外の恋  舞姫エリスの真実』の続編で、「エリス」として描かれたエリーゼについてさらに調査を重ねたものである。著者はエリーゼの生没年を突き止め、さらにはエリーゼの血縁との接触にも成功し、ついには写真を手にすることまでできたのである。

エリーゼがなんと1953年に死去していたというのには驚かされると同時に奇妙な気分にもなってしまうが、考えてみれば森鴎外も1862年生まれ(1922年死去)なのだから、エリーゼと同じく83歳まで生きたとすればあの戦争を目にすることになったのである(このあたりは漱石も同様である)。1953年まで存命していたということがわかっていれば、可能ならば鴎外研究者やファンが大挙としてエリーゼのもとを訪れ話を聞こうとしたであろうと想像してしまうが、本書ではエリーゼの存在はかつては比較的知られており、そのような試みをした日本人がいたのではないかという推測も示されている。

鴎外がはるばる日本にまでやって来たエリーゼと一緒になるつもりがあったのかは見方は様々だろうが、著者はその気があったばかりか、日本までの旅費を出したのも鴎外だった可能性があるとしている。しかし鴎外が日本に帰国すると母はすでに縁談を進めており、鴎外はそれに抗うことはできなかった。この結婚は短期間で破綻することになり、鴎外は再婚まで長い時間をかける。そして鴎外が再婚した三年後にエリーゼも結婚するのである。はたして鴎外の再婚によって吹っ切れたということなのであろうか。

エリーゼの結婚相手はユダヤ人であった。幸か不幸か夫はナチス政権誕生の遥か前に死去するのであるが、ユダヤ人の夫をもっていたエリーゼはヒトラー支配下で、激しい空襲にさらされたベルリンにおいてどんな思いでいたのだろうか。


本書でも驚くことがいくつもあるのだが、唖然としてしまったのが森鴎外記念館についてである。ここは鴎外が留学中に住んだ下宿されていたのだが、実際の下宿先は入居者があったために借りることができなかった。ところが長らく観光客などには下宿先として説明されており、さらには研究者もそれに気付いて訂正することもなく、著者がようやくそれに気付いて訂正したということである。研究者からすると思ってもみないことで改めて調べてみる気にもならなかったのかもしれないが、灯台下暗しとはこのことかという感じであった。


エリーゼが帰国後も鴎外との間の連絡が完全に途絶えたわけではなく、また森家はある時期までドイツに謎の送金をしていた(エリーゼは鴎外の子を……というのも、完全にあり得ないとまですることはできないのかもしれない)。このあたりは謎として残されたままとなっており、エリーゼが出したいささか謎めいた夫の死亡広告のエピソードなどを読むと、もしかしてまだまだ続編がありうるのではないかという期待もしてしまう。


また鴎外の曾孫である森千里(男性だが「せんり」ではなく「ちさと」と読む)から連絡があったというエピソードもある。千里氏は於菟の四男の樊須(はんす!)の息子である。於菟のその他の子どもの名前はウィキペディア(こちら)にあるが、この一族のネーミングセンスはいやはや……。みんながみんな学者になっているところもすごいのだが、やはりこのインパクトには圧倒されてしまう。


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佐藤太郎(仮)

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