『フロイトの脱出』

デヴィッド・コーエン著 『フロイトの脱出』





一九四七年七月、「誠実なナチ党員」だった元空軍将校アントン・ザウアーヴァルトは法廷に立っていた。戦争の終わる三ヶ月前、ザウアーヴァルトはウィーンではぐれた妻を探し歩きまわったことがあった。その数ヵ月後、今度はあるアメリカ陸軍の将校がザウアーヴァルトを探し歩いた。このアメリカ軍将校の名はハリー・フロイト。ジークムント・フロイトの甥である。「ハリーはザウアーヴァルトが自分の家族を襲って、一九一九年に祖父の助けでスタートした国際精神分析出版局の業務を壊滅させたと信じていた」。

ザウアーヴァルトの妻マリアンネは、夫の危機に絶望的な手紙を書くことになる。この人ならば「ハリー・フロイトによって作り出された恐ろしい逆境からザウアーヴァルトを救ってくれるのではないか」、そう願って手紙を出した相手はフロイト未亡人マルタであった。そしてついにフロイトの娘アンナから手紙が届く。そこにはこうあった。「ザウアーヴァルトがフロイト家に危害を加えたとして訴えられるのは間違っている」。


ナチス政権が誕生すると、ヒトラーの生誕の地でありドイツの隣国であるオーストリアに影響が波及するのは時間の問題だと考えられたが、フロイトは周囲からの再三の勧めにも関わらずウィーンを離れることを拒み続けた。オーストリアがドイツに併合されてもその頑なな意思は変らなかった。しかし最愛の娘アンナがゲユタポに連行されるという事態が起こり、ようやく亡命を決断する。しかしこの決定は手遅れになっていてもおかしくはなかった。フロイトのイギリスへの亡命が成功したのはマリー・ボナパルトやアーネスト・ジョーンズといった愛弟子たちの尽力や、フロイトと交流の深いアメリカ大使ウィリアム・ブリットなどによる外交的圧力がなくてはならなかった。しかしそれだけでは足りなかったはずであった。フロイトの亡命は、オーストリア内部の協力者なくしては実現しなかっただろう。その一人がナチスの将校ザウアーヴァルトであった。

と、このあたりはフロイトの伝記的事実に興味を持ったことのある人ならばある程度は知っていることだろう。最近読んだ本では『フロイト最後の日記』でも解説・注をつけたモルナールも触れていた。
しかしコーエンはこれまでのフロイト研究におけるザウアーヴァルトへの言及はまだ充分ではないと感じたようだ。そして書かれたのが本書である。


結論からいうと本書の扱いは要注意という印象であった。
原著には注が一つも付されておらず、訳者の高砂美樹が「心理学史研究者としての仕事柄、引用元が明記されていないものには不安を覚えるため」、詳細な訳注を付けている。この訳注によると本書にはしばしば事実誤認やケアレスミスが散見され、そればかりでなく引用も正確さとは程遠いものが多いようだ。また「解説」の妙木浩之も「著者のどちらかというとラフな書き方から、やや情報が間違っているのではないかという面もあるが」としている。このようなことから、本書を学術書として考えると厳しく評価せざるをえないだろう。

しかし(あるいはそれゆえに、なのか)コーエンは未だ多くの資料が未公開状態にある秘密主義のフロイト家のみならず、フロイト研究者に対してもかなり挑発的な書き方をしていて、高く評価されているフロイトの伝記の著者のピーター・ゲイについても嫌味っぽい記述が見られる。

フロイト家の日常生活』という本には、フロイト家の家政婦を長く務めた女性の面白い(面白すぎる?)エピソードが満載である。ゲイは『フロイト家の日常生活』について「裏付けのない回想であり、無条件で信頼できる証拠資料ではない」としているが、コーエンは本書においてこの本を無条件に信頼してしまっているかのようだ。そしてさらにコーエンは、ゲイの『フロイト』からの引用の際に原文にはない一文を挿入してまでいるのである(p.136 注130)。このあたりのコーエンの「失策」はなんともフロイト的のようにも思えてしまう。


では学術書としての信頼性は今一つとなると、読物としてはどうなのか。
本書のタイトルを見るとフロイトの最晩年に焦点が合わせられているようだが、実際にはかなり広くフロイトの伝記及び学説にまで手を伸ばしている。正直に言ってこのあたりはあまり説得力を感じなかったせいもあり、亡命の経緯に的を絞るべきだったのではないかという感じであった。

歴史に埋もれてしまいそうな出来事を発掘し、少々俗っぽく大袈裟になるのを恐れずにエンターテイメント風の読物にしてしまう本というのには警戒心も抱くべきなのだろうが、個人的には嫌いではないジャンルでもある。
直接に言及しているが、ナチ党員でもあり決して聖人ではなく、生臭い部分も持つザウアーヴァルトをコーエンが『シンドラーのリスト』のシンドラーと重ねているのは明らかだ。フロイトその人に接し、フロイトの著作を読むことでこの傑出した人物を逃さなくてはと思うようになるが、一方でナチに反旗を翻すのではない。
ただその真意はどこにあったのかというのはあまり掘り下げられてはおらず、あくまでフロイト中心に語られているために、少々消化不良にも思える。


第1章で描かれている、冒頭に書いたようなエピソードはすぐにでも映画にしたくなるようなもので、書きようによっては同じ素材をもう少し魅力的な本にすることもできたのだろうになあと考えると、なんとももったいない。
フロイトの亡命にまつわる様々な出来事には興味を惹かれるものがあったのだが、期待が高すぎたせいかか少々拍子抜けしてしまったという印象は否めなかった。



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佐藤太郎(仮)

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