『女のいない男たち』

村上春樹著 『女のいない男たち』





村上春樹にしてはめずらしく、この短編集には「まえがき」がついている。村上は「自分の小説にまえがきやあとがきをつけるのがあまり好きではな」いにも関わらず、なぜ本書に「まえがき」をつけたのだろうか。

一つの理由は簡単だろう。この短編集は「文芸春秋」に連載されたものと「MONKEY」に収録されたものと書き下ろしからなるが、うち「文芸春秋」に掲載された二編にクレームがあった。そのクレームに対処したことが穏健に述べられているが、内心はかなり腹立たしかったことだろう。村上は前にもエッセイの中のある言葉にクレームがつけられた際、その言葉を削るのではなく伏字にすることでクレームの存在を示したことがあったが、異例の「まえがき」をあえてつけることであのクレームについての心境を間接的に表したかったのだろう。


しかしそれだけの理由なのだろうか。これならインタビューなどで触れるだけでもよさそうなものだ。これはまた別の意図をもって書かれている、そのように考えることもできる。「まえがき」には他にも執筆、及び雑誌掲載の経緯が書かれている。そればかりか執筆順と掲載順についても触れられており、熱心な読者は単行本収録順に、雑誌掲載順に、執筆順にと様々な読み方をしたくもなるだろう。このようにある種の「誘導」が見られるのだが(基本的に村上はこういったことには禁欲的なタイプの作家である)、それゆえに、この「まえがき」をどこまで文字通りに受け取るべきかとも思ってしまう。

「めずらしく」と書いたように、「まえがき」がつけられているのはこの作品が初めてではない。1985年刊行の『回転木馬のデッド・ヒート』にも、「はじめに・ 回転木馬のデッド・ヒート」というまえがき(のようなもの)がつけられている。「ここに収められた文章を小説と呼ぶことについて、僕にはいささかの抵抗がある」と書き出されるこの「はじめに・ 回転木馬のデッド・ヒート」では、『回転木馬のデッド・ヒート』は「原則的に事実に即している」としている。「僕」が様々な人から聞いた話を、「当人に迷惑が及ばないように細部をいろいろといじったから、まったくの事実とはいかないけれど、それでも話の大筋は事実である」としている。ではここに登場する「僕」は村上春樹だとしていいのだろうか。あくまで「僕」はこの「小説」(やはりこれは「小説」である)の「作者」ではあっても、村上春樹その人だとするべきではないだろう。つまり、「はじめに・ 回転木馬のデッド・ヒート」も短編集の内部の世界に組み込まれていると考えるべきだ。

その点『女のいない男たち」の「まえがき」は、「畏友・柴田元幸さん」の登場など、短編集の外部から作者村上春樹が書いているとすることもできる……というか、だいたいの人がそう考えるだろう。何せ「まえがき」の最後には「村上春樹」と署名もなされている。ただ、近年の村上が長編小説において過去の自作の語り直しを明らかに意図していることを思うと、「自分の身に実際に起こったわけではないし(……)身近にそんな実例を目にしたというわけでもない」とわざわざ書いていることは、『回転木馬のデッド・ヒート』の読者にとっては少々「臭う」気もしてしまう。「独立器官」の一人称の語り手の「僕」はあくまで記録者であり、主人公は別にいる。小説の手法としてはめずらしいものではないが、これは『回転木馬のデッド・ヒート』と同じ手法である。また「独立器官」の「僕」が、「関係者に迷惑をかけないために、名前や場所は少しずつ変えてあるが、出来事自体はほぼそのとおり、実際にあったことだ」としているのは『回転木馬のデッド・ヒート』と重なる。

「はじめに・ 回転木馬のデッド・ヒート」では「僕」が様々な人から話を聞いて感じたことという形で作品全体のモチーフを明かしている(もちろんこれが唯一の「正解」だということにはならない。作者に「正解」を決める権利などないし、そもそもこれ自体が作品の一部であるのだとすればなおさらである)。
そして本書では、「「女のいない男たち」と聞いて、多くの読者はアーネスト・ヘミングウェイの素晴らしい短編集を思い出されるだろう」と「村上春樹」は書いている。「でもヘミングウェイの本のこのタイトル“Men Without Women”を、高見浩氏は『男だけの世界』と訳されているい、僕の感覚としてもむしろ「女のいない男たち」よりは「女抜きの男たち」とでも訳した方が原題の感覚に近いような気がする。しかし本書の場合はより即物的に、文字通り「女のいない男たち」なのだ。いろんな事情で女性に去られてしまった男たち、あるは去られようとしている男たち」、としているが、ここも「文字通り」に受け取るべきなのだろうか。

村上作品に批判的な人の多くが不満に(というか不快に)感じることの一つが、男性主人公がセックスに不自由しないことである。とりたててハンサムでもなく、また社会的地位や経済力があるわけではなくとも、彼らはセックスの相手をいとも容易に見つける。「見つける」というよりは、どこからともなく現れてくるかのようだ。ここに女性とは都合よく男性の性欲を処理してくれるものなのだという男性中心的視線を感じ取ることは難しくない。ヘミングウェイはそのマッチョ的世界観で悪名高くもあるが(全体像を見渡すと実際にはそう簡単に片付けるべきではないのだが、とりあえずのイメージとして)、とりわけ『男だけの世界』にはタイトルからしてその雰囲気が濃厚に漂う。タイトルから連想されるヘミングウェイの作品とこちらでは意味合いが異なるとは述べているものの、その連想を働かせるようなことを書いているのはどういうことなのだろうか。

冒頭に収録されている「ドライブ・マイ・カー」は、車の運転について女性への偏見ともとられかねない言葉から始まっている。「独立器官」における「渡海」の女性についての「個人的意見」など、本作の多くをミソジニー的だとする読み方は充分に可能だ。
しかしこれらは「村上春樹」の言葉ではなく、あくまで「ドライブ・マイ・カー」の主人公「家福」や「渡海」によって考えられたものである。また「家福」が「そのような意見を誰かに語ったことはない。それは人前で口にするには不適切な話題であるように思えたからだ」と考えていることは、彼が自分のそのような考えが差別的である、あるいはそうとられかねないし、女性に対して差別的だと評価されることを望んでいないということを通して、彼の性格や抑制心や世間体への気遣いを表したものだろう。これらの主要登場人物がミソジニー的であるからといって、作品全体もミソジニーであるとするのは短絡的でもある。


『ねじまき鳥クロニクル』と『国境の南、太陽の西』はもともと同じ小説であったのが分裂して二つの作品となったというのは有名な話である。『女のいない男たち』は、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』と「双子」の作品なのかもしれない。

『多崎つくる』の感想にも書いたが、この作品は素材としては近年の村上が得意とする連作短編的であったことだろう。それを長編としてまとめたことによるいびつさは否めない。「まえがき」で『神の子どもたちはみな踊る』と『東京奇譚集』の連作短編をなぜ書くのかについて触れている。『神の子どもたちはみな踊る』や『東京奇譚集』は「一貫性や繋がり」があるとはいえ、それは緩やかなものである。『多崎つくる』をこれらの作品と比べると、連作短編という形を取った場合個々の作品があまりに密接に結びついてしまうというおそれがあったのかもしれない。それを避けるために『多崎つくる』を長編に仕上げた結果としてこぼれ落ちたものを、『女のいない男たち』で拾いあげたのだと考えると、かなり短いインターバルで発表されたことも納得がいく。


『多崎つくる』は一見極めて直接的な作品のように映る。「いかにも村上春樹」的なイメージにあふれ、また文学作品等への言及もまた「素直」なもののようにも見える。個人的には『多崎つくる』はそう直接的でもなければ「素直」でもなく、むしろ「反村上春樹的」作品であるとすら考えている。

「ドライブ・マイ・カー」ではチェーホフの『ヴァーニャ伯父さん』からのこれみよがしの引用があり、また「イエスタデイ」では母親の長話から逃れようと長風呂する場面は村上が訳した『フラニーとズーイ』を想起させるどころではなく、「サリンジャーの『フラニーとズーイ』の関西語訳なんてないでしょう?」なんてセリフまである(「『フラニーとズーイ』の関西語訳」は『翻訳夜話2』で村上自身がネタにしていたことでもある)。

この「わかりやすさ」を素直に受け取るべきなのだろうか。「イエスタデイ」は語り手の現在が物書きになっており、幼馴染の男女がセックスを最後まで行えず、それが二人の関係に影を差しているという設定はもろに『ノルウェイの森』と同じである。村上は自身の過去作の語り直しに入っていると書いたが、『多崎つくる』はまさに『ノルウェイの森』の語り直しであった(さらに付け加えるなら、『ノルウェイの森』の単行本にはこれまた異例の「あとがき」があることも本書との連想を働かせなくもない。なお「あとがき」は文庫版では削除されている)。『多崎つくる』は『ノルウェイの森』とは異質なものとして語りなおされたように、「イエスタデイ」がまとう雰囲気も『ノルウェイの森』とは異質である。不吉な影を漂わせつつも、暗い着地はしない。


本書の中で最も「村上春樹っぽい」作品は「木野」であろう。不気味な暴力、衝動的突発的なセックス、相次ぐ謎や神話的、記号的イメージの頻出は村上らしいものだ。高松が出てくるところは『海辺のカフカ』を、ホテルの窓から向かいのビルの中で働く人たちが見えるところは『羊をめぐる冒険』を思い出さずにはいられない。さらに主人公がバーを開き、マスターは無口で無愛想だが趣味の良さから贔屓の客がつき、そしてロールキャベツまで出すとくれば村上自身の過去まで浮かんでくる。

しかし「木野」には、必ずしもネガティブには描かれていないある女性のこんなセリフがある。「テレビってけっこう役に立つことを教えてくれる。馬鹿にできないわよ。暇ができたら、あなたももっとテレビを見るといい」。
「TVピープル」という作品や、『ねじまき鳥クロニクル』においてワタヤノボルがテレビで「活躍」するなど、テレビやテレビ的なるものは村上作品においては極めて否定的な記号をまとっている。それが「最も村上春樹っぽい」作品においてこのようなセリフが登場する。そして「まえがき」では、「木野」が収録作品の中で二本目に書き始めたが、「推敲に思いのほか時間がかかった」ために掲載順をずらしたとしている(そして単行本収録順はさらに後ろにズレてもいる)「これは僕にとっては仕上げるのがとてもむずかしい小説だった」のだそうだ。

ある人物はこう言う。「ここは僕ばかりではなく、きっと誰にとっても居心地のいい場所だったのでしょう」。
ここは「村上春樹的世界」との重なりと逸脱を示しているかのようでもある。「木野」の結末は「眠り」(『TVピープル』収録!)と似たものがあるが、「眠り」の主人公は女性であり、またその不安は不定形で抽象的なものだが、「木野」は具体的な出来事に適切に反応できなかったことが異世界に落ちる要因となっている。


「喪失」は村上作品を読むうえで初期からの重要なキーワードである。そして「喪失」を全面的に扱っている『女のいない男たち』はあまりに村上春樹的というよりも、村上春樹世界と重なり合いを持ちつつも、それを反転させたり、またはズラしてもいる。ここからもわかるように、過去作をふまえ、その語り直しではあるが、しかし焼き直しではなく、反転やズレを生じさせているのがこの短編集なのである

「ドライブ・マイ・カー」も「イエスタデイ」もビートルズの曲から取られているが、「イエスタデイ」は「作中で「僕」も指摘しているようにポール一人によるもので、「ドライブ・マイ・カー」も主としてポールが作っている。一方の「ノルウェイの森」がジョンの曲であることは、単なる偶然以上の意味を嗅ぎ取れなくもないのである。





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