『言語学の戦後』

『言語学の戦後』
田中克彦氏への安田敏朗氏と土屋礼子氏によるインタビューと
資料の論文が3編。




僕からすると理数系の人というのは
頭がいい、悪いという以前に脳の構造が違うのではないかと思えてしまう。
ならば文系の人ならそんなことはないのか、というとそんなこともなく
やっぱり脳の構造が根本的に違うのでは、と思えてきてしまう人たちがいる。
それが言語学者だ。

ようするに僕は語学がたいして出来ないということなんだけど。
未だに英語すらまともに読めんし、大学の時のフランス語も
お情けで単位もらったありさまで。

ただ言語学というものに興味がないのかというとそういうこともない。
ということで本書を手にとってみた。
まぁ言語学プロパーの人からすると田中氏には
いろいろ言いたいことあるのかもしれないけど
僕はそういうこととは無関係ありませんので。

鈴木孝夫氏との対談も前に読んでいて、
「あとがき」にもあるように重複するところもありましたが
また視点を変えてのところもあってそれはそれで。

個人的に引き寄せられるところといえば
差別語の研究のくだりかなぁ。

元来言語には差別するために生まれてきたという思われるような動機がある。差別というものは「社会性」の最大の因子だから。(p.90)

だけど「言葉だけいじたって差別はなくならない」ってみんなが言うものでね。でもね、これは僕は嘘だと思う。それならね、言葉の役割は全然ないんだよ、人間にとって、どうでもいい問題かといえばそうじゃない。言語が差別を作り出すという観点を持ってないと、言語学者が参加できなきなっちゃうんだよ。(p.92)

鈴木氏との対談をすでに読んだと書いたが
なぜまた本書を手にしたかというと聞き手の一人が
安田敏朗氏だったから。氏の本はいろいろ教えられ、考えさせられるところがあった。

僕は日本語を母語としているので、
好もうと好むまいと、そこからある種の規定を受けてしまうことは避けられない。
一方でそこで「日本語」あるいは「国語」との関係を見誤ると、
それこそ「美しい日本語」だのから「日本人のあるべき姿」などへとつながってしまう。
(そこらへんの話題も最後にちょこっと出てくる。)
差別語というのはある意味これとパラレルな関係なのかもしれない。
もちろんこういうことに問題意識を持って取り組む
言語学者や日本語学者というものは少数派なのだけど。
本書の資料として併録されている論文も広い意味でそこらへんを扱ったもの。

ただまぁ

だけど村山さんは、ドイツ語がほんとに得意だった。母音の発音がよくてね。口の形が舞台発音の写真のようだった。(p.63)

だとか、ドイツで出会ったシャイモニ氏について

かれは当時森鴎外の研究だったよね。シャイモニもそろそろ年だけど。それで、かれ、日本語学だけど漢文はもちろん、モンゴル語だってずいぶん読めるんだよ。必ず三つの専門の試験に通らなければいけない。向こうの博士論文ってのは。でもシャイモニは別格だ。アイヌ語までやっていたから。(p.71)

こういうとこ読むとやっぱり言語学者というのはやはり恐るべしでありまして。

最後に印象にのこったとこ。引用だけ。

学問ってのは被告で、いつもね、裁かれる意識がないと駄目なんだよね。そういう意識がまるでないじゃないか、今は。(p.54)



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