『伊藤野枝と代準介』

矢野寛治著 『伊藤野枝と代準介』





実業家の代準介は頭山満と親しかったこともあって右派とみなされがちであるが、義理の姪っ子にあたり、大杉栄と共に殺害されることになる伊藤野枝を物心両面から支え続けた人物でもあった。

著者は代準介の曾孫の夫であり(その結婚式には伊藤、大杉の四女ルイズも出席したそうである)、とりわけ代の評価についてはいささか身内贔屓的に思える部分もなくはないが、また同時に身内ならではの興味深い逸話もある。本書では伊藤と代と共に大杉も主役の一人としていいだろうが、その「人だらし」ぶりで代をはじめ周囲から好感をもたれていた様子も、直接の証言などで記されている。


大杉は長女に、「僕等があんまり世間から悪魔! 悪魔! と罵られたものだから、つい其の気になって、悪魔の子なら魔子だと云うので魔子と名づけて了った」のだが、これには代とその妻キチは「将来この子が困るだろうと、翻意の手紙を書いている」そうだ。結局魔子という名がとおってしまったことは大杉の破天荒さとともにその「魅力」もうかがわせるところでもあろう。

大杉は『日本脱出記』に、当時大杉についていた尾行のこんな証言を書いている。
「魔子ちゃんにはとてもかないませんよ。パパさんいる? と聞くと、うんうんというでしょう。でもおかしいと思って、こんどはパパさんいないの? と聞くと、やっぱりうんうんというんです。おやと思いながら、またパパさん居る? と聞くと、やっぱりまたうんと言うんです。そしてこんどはまたパパさんいないの? いるの? と聞くと、うんうんと二つうなずいて逃げて行ってしまうんです。そんな風でとうとう十日ばかりの間はどっちともはっきりしませんでした」。

牧歌的とも思える微笑んでしまいたくなる話であるが、これから間もなく大杉がどのような運命を辿ったかを考えると、それだけにむしろ背筋が凍るような思いにもなる。


関東大震災後に伊藤と大杉が大杉の甥の橘宗一と共に虐殺されると、代は博多から上京する。この時点ではまだ殺されたのが宗一だとはわからなかったため、孫同然に可愛がっていた魔子が殺されたのではないかと不安にかられていた。
代はなぜ大杉と伊藤ばかりか幼い子まで、それも特高ではなく憲兵が手をかけたのかと激しく憤った。しかし世論は実行犯とされた甘粕らに同情的であった。代が三人の遺体を引き取ることになるが、頭山など右翼と人脈のある代でなければこれも可能であったかはわからない。さらにその後、追い討ちをかけるように大杉らの遺骨は盗まれることとなる。

魔子ら遺児は代ら伊藤の近親者がとりあえず引き取ることになる。無戸籍だった遺児たちはこの時に改名され、戸籍上で魔子は眞子となる。

十二月に大杉、伊藤、橘宗一の葬儀が自由連合派労働団体と無政府主義思想団体の共催で行われる際、葬儀の司会をする岩佐作太郎は「この葬儀にぜひ眞子を連れて上京してほしいというお願いのために」福岡へとやって来る。これについて著者はこう書いている。「眞子は日本中のアナキストや社会主義者たちのアイドルであり、希望の星であり、幼きジャンヌ・ダルクだった」(p.196)。

この著者の記述を裏づけるようなエピソードがさらにある。古田大次郎、和田久太郎らは復讐のため虐殺に責任のある戒厳司令官福田雅太郎らの暗殺を試みる。これらは未遂に終わり、古田、和田は死刑判決を受ける。刑が確定すると岩佐から代のもとに、執行が迫っている両者が「一目眞(魔)子に会いたし」と願っていることが伝えられる。

代は「牟田及落穂」にこう記している。「死刑囚古田、和田両氏生前眞子へ一目逢いたいと面会の都合申入れければ、迎(え)の為なりと。予、考えうるに、事態の全面論ずるの要なし、今日死の定まれる人の希望を容るるは、人情の忍びざる処なりと、予、決意し、同伴上京したり」。
魔子と面会かなった古田は、「少しも暗き風なく言語爽快、其風格は英雄又は大哲人に比すべく、死の迫れる事関知せざるが如し。眞子に向かい身体と勉強に注意を与えらる」という様子だったそうだ(p.199)。

魔子に対して特別な感情を抱くことに対して、左翼のくせに血統かよと嫌味を言うのは簡単だ。しかしこれは、アナキスト、社会主義者らが魔子という希望にすがりたくなるほどの絶望感を味わっていたことの表れとすることもできるだろう。渡辺一夫の『狂気について』にあったように、後に振り返ると関東大震災後の朝鮮人虐殺や大杉、伊藤、宗一の殺害、そして「実行犯」に非常に甘い判決しか下されなかったことは、その後の日本という国家の歩みの予言であったかのような出来事であったのだが、多くの人はそう感じとることはできなかった。しかしその矢面に立たされた恰好になった左翼の中にはそれが見えていたところもあっただろう。


本書には魔子の写真もいくつか収録されていて、有名なものもあるが、初めて見たものもあった(まだ事件の余韻冷めやらぬ時期に、尋常小学校に通う著者の義母と手をつないで写っている可愛らしい姿など)。
とりわけ印象深いのが、三人の遺骨を前にくやしさをにじませるようにぐっと唇を噛み締めている魔子の姿だ。ケネディ家を真の意味で神話化したのは、ジョン・F・ケネディの葬儀の際のまだ幼いケネディ・ジュニアの敬礼する姿かもしれないが、当時の左翼もこの魔子の姿に同じものを見出していたのかもしれない。


それにしても、子に親は選べないのであるが、「魔子」という名前のみならず親がこのような形で命を落としたばかりか、「希望の星」とまで考えられてしまうというのは、当人からするとどれほどのプッレッシャーがあったことかとも思ってしまう。

眞子はその後殺された宗一の母であり大杉の末の妹でもある橘アヤメのもとに引き取られ、継いで大杉の弟の勇に育てられる。横浜紅蘭女学院(現在の横浜雙葉)を卒業すると博多に戻り、代は九州日報に就職させ、そこの記者と結婚し四人の子どもをもうける。しかし眞子は博多人形師のもとに走ることになる。この不倫が発覚した際には代の妻であるキチは仏壇のもとに連れて行き、夫の位牌を持って「おじいちゃんの代わりに、これで叩こうかね」と怒ったのだという(p.204)。

眞子は昭和43年に51歳で亡くなっているが、当人にとってその生涯はどのようなものだったのだろうかということをあらためて考えてしまった。




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佐藤太郎(仮)

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