『9・30 世界を震撼させた日』

倉沢愛子著 『9・30 世界を震撼させた日  インドネシア政変の真相と波紋』





1965年9月30日深夜から翌朝にかけて、ウントゥン中佐率いる大統領親衛隊が7人の陸軍将校の家を襲い、6人の将校と居合わせた中尉1人をその場で殺害、または拉致後に殺害した。ウントゥン中佐は放送局を占拠すると革命評議会と名乗り、スカルノ大統領を将軍たちの陰謀から守るために行ったという声明を出した。しかしスハルト少将率いる陸軍戦略予備軍司令部はすぐさま鎮圧し、これはインドネシア共産党(PKI)によって演出されたものだったと発表した。

本書はこの「9・30事件」と呼ばれるクーデター未遂から、「はうようにすすめられたクーデター」とも言われる「3・11政変」、これと前後して起こった犠牲者は少なくとも50万人、一説には100万から200万人ともされる大虐殺、そして各国がこれらの事件にいかに関わり、反応したかが扱われている。


インドネシアは1945年8月17日に独立を宣言した。日本の敗戦により日本による軍政からの解放と、連合国が再上陸してくるまでの間隙をぬってのことだった。インドネシアを植民地支配していたオランダがこれをすんなりと認めるはずはなく、武力闘争が繰り広げられる。1949年に「不完全」な独立が認められたが、完全な独立を求めるインドネシア側と、協力的な政権の樹立や分割を試みるオランダとの争いは以降も続くことになる。さらには当初は仲介にあたっていたアメリカも、豊富な天然資源の存在や東アジアに共産主義が広がることへの警戒から直接介入してくるようになる。CIAは様々な工作を行い、反乱軍の飛行機を撃墜するとその戦闘機は台湾製で、パイロットはアメリカ人であったということまで起こっている。

スカルノ自身は共産主義者ではなく反植民地主義のナショナリストであったが、容共的であり、中国との関係を深めていく。マレーシア問題をめぐってはイギリスとも深く対立するが、しかし非同盟諸国の中では中心的な役割を果たすことはできなかった。

日本とスカルノとの関係は良好で、アメリカはある外交文書で日本はスカルノの「催眠術」にかかっているとまでしていた。日本軍政下でスカルノは対日協力者であり、また戦後も第3夫人を日本から迎えるなど(ご存知の通りこれがあのデヴィ夫人である)、経済面のみならず心理的にも近しい関係にあった。

「9・30事件」勃発時、インドネシアは「中国ならびに一部の新興国、そして西側ではわずかに日本との関係が続いていた程度で、国際社会で大きく孤立していたのだった」。


「9・30事件」はPKIの犯行というのがインドネシアの「公式」の歴史とされ、国内ではそれに疑義を挟むことはできなかったが、国外では早くから疑問が呈されてもきた。いくつかの仮説はあるが、未だに決定的な真相にはたどりつけないでいる。

いくつかの説を紹介すると、まずやはりPKIによって起こされたものだとする説がある。スカルノが味方についてくれると期待してはねっかえりが起こしたとするものや、裏に中国が絡んでいたとするものもある。またスハルトが首謀者、あるいは計画を黙認してそれに乗っかったとする説。そしてCIAによって引き起こされた説などがある。

いずれにせよ、一つはっきりしているのは、スカルノは情勢判断を誤り真綿で首を絞められるように追い詰められていき、一方でスハルトはこれを巧みに(あるいは狡猾にといおうか)利用し、ついに実質的にスカルノからスハルトへと権力が移る「3・11政変」へと至ったのである。


このような混沌とした情勢からも明らかなように、インドネシアは「9・30事件」の以前から社会情勢には様々な緊張が存在していた。共産主義者と反共主義者、軍内部の勢力争い、民族問題、宗教問題など、地雷はいたるところに埋まっていたところに「9・30事件」が起こったのであった。

スハルト側はすぐにこれを政治利用することになる。共産主義者の危険性をメディアを使って煽り立てた。英雄とされた7人の犠牲者の遺体は拷問のうえ性器を切り取られ、その周囲では女性たちが裸踊りをしたという虚偽の情報も流され、このイメージは後に映画化された際にも利用された。

虐殺があそこまでの規模に膨れ上がったのにはいくつもの要因があった。共産主義者は危険であるという宣伝が繰り広げられ、「やらなければやられる」という危機感を実際に抱いた人々もいた。また共産主義者は神を信じないとされたことから宗教的な熱情もかり立てられ、農地改革をめぐって地主や有力者は反発や危機感を高めており、これを機に共産主義者を始末してしまおうという機運がかきたてられた。

一方で合理的には説明のつかない出来事も起こっていた。遺体から性器を切り取るといったことは虐殺した側が行ったことであったが、このような行為はイスラームの戒律に反するものである。また殺戮に赴く際に、「酔ったような気分になる」水を与えられることもあったという。
ある村では一か月以上にわたって一方的な殺戮が繰り広げられた。「ごく普通の村人にとって、人を殺すという行為は決して簡単なことではなかった」。
著者は「アルコジョ」と総称された殺害者から聞き取り調査を行っているが、その内容から浮かび上がってくるのは、「彼らが宗教的熱狂と人間的な葛藤との間で苦悩するすさまじい体験だった。殺害を実行するように命令された人たちは宗教的義務感から――少なくとも自分にはそう言い聞かせながら――手を血に染めた。初めての体験ののちにはだれもが目まい、吐き気をもよおし、なかには失神する者もいた。度胸をつけるためには犠牲者の血を吸うとよいという噂が出回り、彼らはそれを実行した。しかしこの行為は決してイスラーム的なものではない。イスラームは血をすすったり体の一部を切り取ったりすることを禁じている」。

9・30事件以前から「文化潮流」の差異や階級対立によって死傷者を出すほどの衝突が起こっており、これらが破局的に虐殺へと流れこんでいったとすることができるのだろうが、それだけでは説明のつかない異様な印象も受けてしまう。裏を返すと、説明可能な理由のみであったなら虐殺があれほどの規模になることはなかったということなのかもしれない。


ではこれほどの虐殺が国際的な関心をほとんど呼ばなかったのはどういたことだろうか。国外のメディアのいくつかは早い段階で虐殺の模様を伝えていたが、ほとんど黙殺された。インドネシアという国への関心の低さもあるだろうが、意図的な情報操作も行われていた。マレーシア問題でスカルノと対立を深めていたイギリスは外務省情報調査局の高官で「宣伝工作の専門家」、ノーマン・レッダウェイに10万ポンドの資金を持たせシンガポールに派遣した。レッダウェイは反スカルノ情報を新聞やBBCなどを使って発信させていた。

外交筋も当然虐殺を承知していたが、西側諸国はスカルノを排除するのみではあきたらず、この機に乗じて共産主義者を一掃したがった。アメリカは共産党員の名簿をインドネシア国軍に提供までしている。虐殺の実態を掴むと、むしろ国軍への支援を強化していたのである。安全保障問題担当大統領特別補佐官のロストウはこうジョンソン大統領に書いていた。「我々の政策は沈黙である」。
「役人は誰一人として公的にも個人的にも殺戮に対する懸念を表明した者はいなかった」。

また共産圏でも、スカルノと関係の深かった中国は虐殺を批判したものの、ソ連はなかなか反応せず、東ドイツのようにPKIは極左冒険主義に走ったということおありうると、冷淡な反応すらみられた。このような対応は中ソ論争によってもたらされたもので、スカルノが親北京ではなく親モスクワであれば中ソの対応は入れ替わっていたのかもしれない。

そしてスカルノと良好な関係であった日本も「催眠術」から醒め、西側各国の動きを見て流れに乗り遅れまいと、スカルノ以後の権益の確保にいそしむことになる。
スハルト政権の独裁の統治システムの中には、日本軍政下で導入されていたトナリグミ・アザジョウカイ(隣組・字常会)、つまり日本の隣組制度を模したものを再び導入していたことを考えると、日本の対応のグロテスクさというものがさらに浮き立つようでもある。

バリ島では人口の5パーセントに当たる約8万人が殺された。これはパーセンテージでみるとカンボジアで起こったポル・ポト政権下での虐殺に匹敵するものであるが、ポル・ポトを批判した国々はインドネシアでのこの虐殺の実態を知りつつ口をつぐんでいたのである。


著者は1972年にインドネシアに留学している。当時は全く気がつかなかったが、「加害者や被害者が仮面をかぶって多数存在していた」。被害者たちはさらなる迫害をおそれ、なにごともなかったかのように生活していた。また著者が親しくしていた研究者の中には共産主義者を査問する立場で主導権を握っていた人もいた。これらはスハルト政権の崩壊によってようやく明るみに出るようになってきた。

2004年に編纂された教科書では、9・30事件の呼称が「PKIの9月30日運動」から「PKI」が削除され、これまでの政府見解以外の解釈の記述がされるようになった。しかし翌年には国民教育大臣から検事総長に発禁が求められ、2007年にはこれらの教科書の流通が禁止され、回収される決定が下された。「変わりかけた歴史記述が、突然逆流現象でもとに戻ってしまったのだった」。2008年に改訂された国定歴史書では、「スハルト時代のものとほとんど大きな変化は見られなかった。独裁者は去っても歴史解釈は何も変らなかったのである」。

プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR