『ブルージャスミン』

ウディ・アレン監督 『ブルージャスミン』

思いっきりネタバレしていますので未見の方はご注意を。





本作はテネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』を下敷きにしていることで久しぶりに読んでから見に行ったのだが、想像していた以上に設定をそのまま使っていた。

冒頭で、経済的に行き詰った姉が妹を頼って訪ねてくるが妹は留守であったというのはそのままであるし、『欲望という名の電車』では最後にブランチは完全に狂気に陥り医者に運ばれていくが、ジャスミンも神経症的というよりは狂気に限りなく近づくという結末を迎える。その他にブランチ/ジャスミンの夫が自殺をしてる点、姉妹間での「階級差」、妹の粗暴な夫/恋人、ブランチ/ジャスミンが嘘によって追い詰められていくなどいくつもの類似点がある。とはいっても『ブルージャスミン』は『欲望という名の電車』のリメイクではないので、むしろここでは差異に注目すべきなのかもしれない。

『欲望という名の電車』と『ブルージャスミン』の大きな差異の一つが「息子」の存在である。
ブランチは若くして結婚するが、夫の同性愛行為を目撃しそれをあてこすり、自殺へと追い込んでしまう。当然ながら二人の間に子どもはいない。その後ブランチは手当たり次第に男と寝るようになり、ついには教え子(ブランチは教師である)と寝たことが発覚、最早故郷にいられなくなってしまう。この過程で実家の邸宅を失うほどの浪費をしており、つましい生活をしている(少なくともブランチにはそう映っている)妹夫婦の元に身を寄せることになる。

『ブルージャスミン』では、姉妹には血のつながりがないことになっており、おそらくジャスミンは多少の罪悪感を抱きつつも自分の「遺伝子」に優越感を持ってもいたのだろう。離婚暦のある富豪と結婚し、夫と前妻との間にできていた息子を引き取って育て、贅沢な生活を謳歌していた。夫の仕事に疑念が浮かばないわけではなかったがそれを表に出すことはなかった。しかし夫の浮気癖に不満がつのり、夫からフランス人留学生と「本気」で恋に落ちていると告白されると逆上してFBIに密告し、夫は逮捕され獄中で自殺をすることになる。

ジャスミンは夫の莫大な資産のみが目当てで結婚生活を送っていたのかというと、そうではないだろう。夫は留学生との関係を告白した際にジャスミンを金銭的に困らせることはしないと言っている。この時点でジャスミンは夫が危ない橋を渡っている(というかすでに橋が崩壊しかかっている)ことを確信し、その証拠も握っていたのだから(そうでなければFBIに何を通報できただろうか)、カネにこだわるのであらばここで慰謝料をたんまりもらってさっさと離婚するほうが得策であったはずだ。また夫が逮捕された直後、ジャスミンは大学を辞めて家を出て行こうとする息子ダニーを必死に思い止まらせようともする。血のつながっていない息子だが、カネの切れ目が縁の切れ目ではなかったのである。

ウディ・アレンはここで絶妙の設定を導入している。胡散臭い金融屋が莫大な財産を得るという設定なら、普通は嫌味きわまりないステレオタイプ化された成金的人物像にしたくなることだろう。確かに成金趣味的なところはあるが、同時に夫は息子に、自分はただ運がよかっただけなのだ、貧しい人たちと富を分かち合わねばならないと教える。そして零落したジャスミンも、その肥満体から経済的豊かさとは無縁であることが容易に想像がつく甥っ子たちにその教えを繰り返す。

つまり、現在のアメリカに少なからず見られるひたすら税金を払いたくないと主張する大富豪や、貧しい人たちを徹底的に見下すような連中とは一線を画す、「ノブレス・オブリージュ」を説く夫婦であったとされている。


ダニーはそのまま物語から退場するかに見えて、終盤に思わぬ形で(かなり強引に)再登場する。ジャスミンのダニーへの執着、それは「母性」の発露というよりは虚栄心の表れであろう。つまりジャスミンは、ただ単にカネを手にするだけでは飽き足らない人物なのである。成金と見下されるのではなく、高貴なる者の責務をわきまえた人物であると見られたがっていると考えるべきだろう。そのような人物であることを証明してくれる望みの綱が、ダニーという存在であったのではないか。

ジャスミンはパーティで出会った外交官にして政界進出の野心を抱いているドワイトと出会う。『欲望という名の電車』でブランチは、自分が苦境を抜け出すには結婚しかないと妹の夫の友人に接近するが、その嘘から破滅の坂道をさらに転がり落ちることになる。『ブルージャスミン』でもジャスミンはドワイトを離すまいと嘘を重ね、破滅する。ただジャスミンの行動は異様だ。たとえその場を嘘でとりつくろえたとしても、ドワイトが政界に進出するとなればジャスミンの過去が暴かれるのは確実である。ブランチの嘘は「夫」を得ようとする損得勘定から出たものでもある。ではジャスミンはどうだろうか。まともに考えるならドワイトが政界に進出しようと考えるような人物であることがわかった時点で、「損得勘定」を働かせて他の男を捜すべきだろう。ブランチは年齢的に自分が追い込まれているという感覚もあって嘘を重ねるが、ジャスミンには現在でも男を惹き付ける魅力があることを自覚させられる出来事が頻出していることを考えると、ドワイトにこだわる必要はなかったはずだ。ジャスミンがまともな思考力を失ってしまったのは追い詰められた焦りや狂気のせいというよりも、「高貴」な自分にはドワイトのような人物こそがふさわしいのだという思いに捉われてしまったことの結果のようにも思える。ジャスミンの精神が崩壊へと向かうのは、ドワイトとの破局もさることながらダニーとの完全な決裂のせいともとれる。息子との関係の決定的な破綻は、ジャスミンの「高貴」さの否定でもある。

ブランチとジャスミンとの差異はここにも見られる。『欲望という名の電車』ではブランチは妹の夫の友人に目をつける。『ブルージャスミン』では妹の恋人が自分の友人をジャスミンに近づけようとするが、ジャスミンは一顧だにしない。ブランチは安定的な収入を得ている夫を見つけようとするが、ジャスミンにはそれだけでは足りないのである。

ジャスミンは妹の元夫、現恋人を完全に見下している。ウディ・アレンはここで金持ちの責務を説くジャスミンの実態とはこのようなものなのだということを暴いている。ジャスミンは「遺伝」的に恵まれている自分は「劣等」な妹とは違うのだという思いを抱いているかのようだ。ロウアー・ミドルの生活に染まるなど「高貴」な自分にはあってはならない、という感覚なのだろう。


「階級」の越境者が罰せられるといえば『グレート・ギャツビー』を思い浮かべてしまう。作者のフィッツジェラルド、あるいは語り手のニックは滑稽にして「偉大」なるギャツビーに好感を抱き、アメリカン・ドリームの欺瞞を暴いている。『ブルージャスミン』ではウディ・アレンはそのような「越境者」に共感を寄せることはなく、虚飾をはいでいく。

『欲望という名の電車』のデュボア家はおそらくはもともとはそれなりに裕福であったのだろうが、ジャスミンたちは親の遺産を期待できるような家庭ではなかったのだろう。ここでもウディ・アレンは『欲望という名の電車』から設定をズラし、ジャスミンを成り上がりから零落した存在としている。一方でブランチは高校の教師という職を持つ女性であるが、ジャスミンは大学在学中に夫と出会い仕事はおろか学業を終えてすらいない。このあたりも絶妙である。

ヘミングウェイはフィッツジェラルドについて、金持ちを金持ちであるというだけで特別な存在だと考えてしまうような奴だという嫌味を書いたことがある。フィッツジェラルドはそれに反発したが、彼の中に、とりわけ若かりし頃は、「金持ち」にロマンティシズムを憶えてしまう傾向があったことは否定できないであろう。しかしここには、必ずしも「金持ち」を理想化するのみならず、分析するという側面もあった。生まれたその瞬間から一度としてカネの心配をしたことがなく、周囲の人間がかしずくのをごく当たり前のことだとして育った人間は、金銭面に不安を抱え、蔑まれたことがある、あるいは蔑まれるのではないかという恐怖心を抱いたことがある人間とは異なる性質を身につけていくものだろう(フィッツジェラルド家は名家といってもいい家系であったが、スコットは幼い時に父の失業を経験している)。「本物の金持ち」は、それがいいことか悪いことかはさておいて、世の中の大半の人間とは異なる「特別」な存在になる。

ジャスミンが憧れたのはまさにこの「特別」な存在に自分がなることだったのだろう。そのためには、単に生活するカネに不自由しないだけでは十分ではない。

ブランチは最後に妹の夫に陵辱され、完全に狂気に陥る。ジャスミンも陵辱の危機にみまわれるが、この直後に不安を感じつつも出会いを求めてパーティに参加することを決め、ドワイトと出会う。読者/観客はブランチの痛ましい姿にある程度の同情を禁じえないのだが、ジャスミンを憐れむことはあっても同情は寄せにくいだろう。

ではウディ・アレンは本物の「高貴」な存在を信じていて、インチキ(phony)であるジャスミンを断罪しようとしているのだろうか。ポロの趣味を持つ金持ちが登場するが、あるいはこれが「本物」の金持ちなのかもしれない。ではウディ・アレンはこのような人物を理想化して描いているのかといえば、そうではない。むしろこう言っているかのようだ。「金持ちなんてのはさ、所詮はこんな連中なんだよね」。都合のいいときには利用するだけ利用して、いざとなるとそ知らぬ顔で逃げおおせる。ギャツビーが見捨てられ、打ち捨てられたように、身の程知らずの越境者であるジャスミンも悲惨な道を歩むより他ない。地道な労働を行う妹とそのような労働を忌避する姉とを対照させるが、前者を称揚する階級闘争的視点というよりは、徹底的に辛辣であろうとしている。
ウディ・アレンの中にはフィッツジェラルド的葛藤は存在しないのだろう。アメリカン・ドリームの欺瞞など騒ぎ立てるまでもなく自明なことなのだ。ノブレス・オブリージュがそうであるように。

『ブルージャスミン』は近年のウディ・アレン作品にはなかった辛辣さがある。ヘミングウェイやフィッツジェラルドが登場した『ミッドナイト・イン・パリ』あたりと比べるとその差は歴然としている。俳優ウディ・アレン、あるいはそのアルター・エゴも登場しない。セックスの回数を一方は多すぎると、もう一方は少なすぎると気に病んで夫婦で精神分析にかかるような滑稽味はなく、ジャスミンはひたすら抗鬱剤と精神安定剤に頼ることになる。ここにウディ・アレン的人物が登場する余地はなく、その凍ていついた世界を冷酷に、そして見事に描いているのが『ブルージャスミン』なのであろう。




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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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