『シュテファン・ツヴァイク』

河原忠彦著  『シュテファン・ツヴァイク  ヨーロッパ統一幻想を生きた伝記作家』




シュテファン・ツヴァイクは多数の紡績工場を経営する資産家を父に、全ヨーロッパに拡がる大銀行を持つ家の娘を母に持つという、非常に裕福な家庭に生まれる。父は世俗的な同化ユダヤ人であり、シュテファンも自分がユダヤ人であるという意識は希薄であった。当時のウィーンはハプスブルグ帝国内での民族対立のあおりからユダヤ人の人口が増加することになる。ウィーンはそのようなユダヤ人にとって比較的生活しやすい環境にあった。謹厳実直なタイプの父はドイツ語の他に英仏語を流暢に使いこなし、社交的であった母はイタリアで育ったこともありイタリア語が堪能だった。このような環境でコスモポリタンとしての意識が養われていったのも当然のことであろう。一方で子育ては当時の慣習にならったもの、つまり現在の価値観からするとかなり厳しいもので、シュテファンは恨みに思っていたようだ。

複数の言葉を身につけることがごく当たり前であったことからも想像がつくとおり、ツヴァイクはユダヤ人であるというよりは「ヨーロッパ人」であるという意識が強かった。ヨーロッパ文化に深く触れ、伝記作家という一面はその遺産の継承者であることを示している。また創作を行うと同時にフランス語などからの翻訳者でもあったこともその意識を強めたことだろう。


1914年の春、ツヴァイクは滞在していたベルギーで戦争への準備が始まったことを滑稽に思い、これはドイツ軍の侵入に備えていると弁護した友人に「それはナンセンスだ、もしドイツ軍がベルギーに侵入したら、きみたちは僕を街頭の柱に首つりにかけてもいいよ」とまで語っていた。
しかしツヴァイクはまもなく現実を目の当たりにすることになる。大戦が始まると、各国の文化人の多くが愛国主義にとらわれた。ツヴァイック自身もこの空気と無縁であったとすることはできないが、それでもファナティカルな領域にまでは足を突っ込むことはなかった。そしてロマン・ロランらの平和運動に共鳴し、協力するようになる。ツヴァイクはロランがイデオロギーにとらわれていないことを高く評価し、レーニンから「封印列車」に同乗するよう求められたもののそれを断ったロランの姿勢はツヴァイクを感じ入らせた。

ツヴァイクは第一次大戦を経験しても、ニヒリズムにとらわれた人々と違いヨーロッパの理想、コスモポリタンとしての信念が揺らぐことはなかった。
元来ツヴァイクはヒューマニストとはいっても非政治的人間であった。第一次大戦後もデモや示威行動に対しては嫌悪を示し、ペンクラブの会議などもできるだけ避けていた。ロランが左傾化していき、ソ連の擁護者となっていったことをツヴァイクは嘆き、やがてその友情は終わりを告げることになる。

それだけに1930年のナチスが躍進したドイツの選挙を肯定的に評価したことはかなり異様にも映る。ツヴァイクは「青年」の「高等政治」に対する「反抗」に好意的で、これは「不決断」からくる長引く外交政策への警告なのだとし、「賛同の挨拶」を送った。
これに憤激したのがトーマス・マンの長男で、いち早く亡命したクラウス・マンだった。当時26歳だったクラウスは『転回点』という著書で当時の雰囲気をこうふり返っている。「極端に走る青年に対し、何事も分かってやる、進んで受け入れてやるといった態度も、たしかに存在します。けれども、青年の言うことが必ずしもすべて未来を志向するとは限りません。私はそう明言しますが、こう述べている私自身が青年です。私と同世代の者――それにもっと若い者――の大部分が、『前進』のためにとっておくべき飛躍を実際が『後退』のためと決めたのです。われわれはそれをいかなる事情があろうと是認することは許されません、絶対に許されません』。

時代認識としてはクラウスの方が圧倒的に正しかったのであるが、ツヴァイクのこの反応は、第一次大戦を目前にしながらその可能性を鼻で笑い飛ばしたように、あまりに「ヨーロッパ」というものを信じていたためなのかもしれない。

しかしそのツヴァイクをもってしても、「政治的無関心」に似つかわしくないほど「急速に、また明確に、宿命的なことの成行きを彼は予想した」。
ナチスは権力を掌握すると、ツヴァイクの本は焚書されることになる。それでもツヴァイクは完全に絶望にかられたわけではない。むしろ彼はヨーロッパの理想によってナチスに打ち勝つことができるとまだ信じてもいた。「憎しみに対して憎しみで応ずる」のではなく、「敵の挑発に応じて、同じように反応する」対抗手段はとろうとしなかった。
1933年5月にクラウス宛ての手紙にこう書いている。「攻撃的な戦法は私の性に合わない。闘争することは他の人々にもできることだ。事実彼らはこれを実証した。われわれとしてはどこか彼らの弱い領域で彼らに勝利せねばならない。……こんなわけで、芸術的に文句のない形式でわれわれの精神的英雄の肖像を示さなければなないのだ」。

そしてツヴァイクはエラスムスの「平和愛好、理性、寛容、自由、融和」といったヒューマニスト的立場を批判的に考察した『ロッテルダムのエラスムスの勝利と悲劇』を書く。エラスムスは「深い思想というよりは広い思想の持主」だった。ヨーロッパ全体からの伝統を継承する知のネットワーク、「ただこのネットワークは当時のヒューマニストたちの圏内を出なかった。民衆とは無縁であった。「人文主義にとって民衆は存在しえなかった……」のである」。エラスムスは「もっぱら理性の力だけに頼った啓蒙家として、彼は人間の非合理な情熱、憎悪や暴力へ走る衝動といったものを何ひとつ知ろうとしなかった」。

1934年に、一時オーストリアに帰国していたツヴァイクは、武器保管疑惑という名目で家宅捜索を受ける。オーストリアのファシズム化はすでに進行しており、この侮辱を経験しイギリスへの亡命を決意する。

1935年にツヴァイクはブラジルを訪問した。政府などから大歓迎されたことに感激し、「この国では民族差別も蔑視もまったくないことを繰り返し強調」したが、「実際にはブラジルは当時、法にのとった独裁国家であって、ファシスト的思考が好んで受け入れられていたのだが、この点はツヴァイクは無視していたようである」。そしてこのような政治音痴ぶりは後に暗い影を投げかけることになる。

第二次大戦が勃発しドイツが次々と勝利を収めると、ツヴァイクはドイツ軍がイギリスに侵攻してくる危機感を憶える。仮にイギリスがナチスの手におちれば、あるいはイギリスにファシズム政権が誕生したとしたら、アメリカも安泰とはいえないだろう。そしてツヴァイクは1940年、再びブラジルを訪れここで亡命生活を送ることになる。

1942年2月、ツヴァイク夫妻は自殺をする。その原因として、狂騒的なリオのカーニヴァルが繰り広げられている中、新聞でシンガポール陥落の記事を読み絶望にかられたためだとされることが多い。しかしあらゆる自殺がそうであるように、その原因を一つの原因に帰することはできないだろう。その新聞にはまた、ドイツの潜水艦によってブラジルの貨物船が沈められたことも報道されており、ブラジルにまでナチスの手が伸びると感じたのかもしれない。故郷を追われた亡命生活の辛さは相当に堪えていたし、またブラジルの政権に好意的だったことからブラジルの進歩的作家からの批判にさらされたことも孤独をつのらせる出来事だった。前妻は独立心旺盛だったが、再婚した喘息を病む若い妻はツヴァイクに依存し、これもまた精神的負担になったことだろう。その夫婦関係もうまくはいっていなかったとすればなおさらである。


「一九四一年のツヴァイクにとっては、世界の平和な同胞意識および文化と高度の叡智のヨーロッパ的統合は彼の夢見た遠い過去の美しいヴィジョンにすぎなかった」。
そのツヴァイクが魅入られたのが、モンテーニュの『エッセイ』であった。「モンテーニュの全作品のうちにツヴァイクが見出した唯一不動の主張・公式は、「この世でもっとも偉大なことは自己の独立を知ることである」であった。独立は孤立ではない。生きるためには外部とのつき合いも必要だが、自分を「貸し与える」だけで自分を引き渡してはならない」。『エッセイ』第三章にはこうある。「魂の自由を大切にして正当な理由がなければ(正当な理由は健全な判断ではわずかしかない)、これを抵当に入れてはならない」。

ツヴァイクは「自己の独立」という公式をこう要約した。「――虚栄と高慢からの離脱。自分を鼻にかけない。恐怖や迷信からの脱却。主義・主張や党派からの自由。習慣に縛られぬこと(習慣は物事の真相をかくすから)。野望やいかなる類の欲望からの自由(名誉欲は何の役にも立たぬ贋金)。家族や環境からの自由。狂信に陥らないこと。運命に縛られないこと。そして最後に、死から自由であること。生は他人の意思次第だが、死はわれわれ自身の意思次第なのであって、「自発的な死はもっとも美しい」――と述べている」(p.242)。


ツヴァイクはあまりに「時代の子」であったのかもしれない。ヨーロッパの伝統的知への広範な知識。そしてそこからくる理想主義は、「現実」への感性をにぶらせたのかもしれない。第一次大戦、そしてナチスの勃興への反応は遅れた。第一次大戦を経ても彼より若い知識人が陥りがちであったニヒリズムにおぼれることはなく、またイデオロギーも拒否し、ヨーロッパの理想は死んではいないのだという希望を抱き続けることはできた。しかしもはやファシズム、ナチズムが猛威をふるう世界に希望を見出すことはできず、「他人の意思」に左右されない「自発的な死」を選ぶ。

ツヴァイクはある時期までは広く読まれていたにも関わらず、その後彼への関心は急速に薄れていったとされる。いつであろうとも、人を魅了するのは反時代的な、挑発的な口吻であろう。ツヴァイクの政治的姿勢は現在から見ても穏当にして中庸な部分が多いが、そのような人物が魅力的に映ることは少ない。忘れられたからといって、もう読まれる価値がないのかというと、もちろんそうではないだろう。むしろツヴァイクの「夢見た遠い過去の美しいヴィジョン」、「世界の平和な同胞意識および文化と高度の叡智のヨーロッパ的統合」は、その限界を含めて新たに見つめ直すことが求められてもいよう。


本書は『ロッテルダムのエラスムスの勝利と悲劇』を頂点と評価して「伝記作家」ツヴァイクに焦点をあてたもので、網羅的な伝記ではない。入門編としては十分だろうが、例えばツヴァイクはフロイトとの交際も有名であるが、本書にはフロイトは登場しないことなどは物足りなくも思う。
なぜこの本を手にしたのかというと、ウェス・アンダーソン監督の『グランド・ブダペスト・ホテル』がツヴァイクからインスピレーションを受けているということを知ったためであるが、これによってツヴァイクへの関心が高まるかどうかはわからないが、新たに伝記が書かれるか翻訳されることがあるとうれしいのだが。




ツヴァイクは死を覚悟して自伝も完成させているが、こちらは特殊な状況で書かれたものだけに事実関係などには少々注意が必要なようだが、やはりツヴァイクについて考えるには必読書なだけに、これを機に文庫化とかされるといいのだが。






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