『昨日の世界』

シュテファン・ツヴァイク著 『昨日の世界』





ツヴァイクはこの自伝を亡命生活の中、1940年ごろに書き上げたと見られる。その後42年に亡命先のブラジルで妻とともに自殺。『昨日の世界』は44年に出版された。

本書に収録されている遺書にはこう書かれている。「私自身のことばを話す世界が、私にとっては消滅したも同然となり、私の精神的故郷であるヨーロッパが、みずからを否定し去った(……)。友人みんなに挨拶を送ります! 友人たちが、長い夜の後になお曙光を目にすることができますように! 私は、この性急すぎる男は、お先にまいります」。


「はしがき」で、ツヴァイクはこの自伝を「少しのメモもなく」、「自分の著書一冊もなく」、「手記もなく」、「友の手紙もない」状況で書いたとしている。全ては記憶に頼るよりほかなかったのであり、事実関係には注意が必要だが、その分だけより心情を表すものとなっているとすることもできるかもしれない。そしてこれはツヴァイクにとって長い遺書であるとすることもできるが、また同時に、「ツヴァイクの自伝であるというよりも、ヨーロッパがみずから書きのこした遺書であり自伝と名づくべきもの」(「あとがき――訳者にかわって――」)でもある。


ツヴァイクはかつてあった「ヨーロッパ」をいたずらに理想化しているのではない。しかしツヴァイクの育った時代は、「十年経つごとにそれはただより良い十年間の予備段階だったと考え」てしまいたくなるほどの、安定と進歩を信ずることができたのであった。堅実に生きればより豊かになり、神話や迷信からは解き放たれていき、そしてツヴァイクのようなユダヤ人も差別されることはなくなり、ヨーロッパはその理想のもとに、いつの日にか国境線もなくなるかもしれないと、極端な理想主義者でなくともそのように感じられていた。「今日の世界」を、そして「明日の世界」を信じることができた時代だったのである。

コスモポリタンとしての楽観主義が初めて揺さぶられたのが第一次世界大戦であった。それに先立つ時代をツヴァイクはその実態よりも良く書いていているという印象もあるが、これは来るべき破局という結果を知ったうえでふり返った記憶のなせる業なのだろう。

ほとんど誰もが起こるとは思っていなかった(少なくともツヴァイクにはそう感じられていた)大戦が勃発すると、各国でファナティカルな愛国主義が一気に拡がっていった。これはツヴァイクのようなコスモポリタンにして平和主義者にとっては耐え難いことだった。しかしまた、ロマン・ロランをはじめとする平和主義者たちも立ち上がり、国を越えた連帯を模索するなど、ヨーロッパはその理想を完全に失ったのではなかった。

あまりに大きな犠牲を払ったが、「この戦争をもって戦争「というもの」一般が永久に終わったのであり、われわれの世界を荒廃に帰する野獣は訓致されたか、あるいは全く殺されたのだ」と「当時は全世界が信じた」のであった。

「平和の最初の日々ほど、多くの敬虔さがヨーロッパにみなぎったことはなかった。なぜならば、今やついに、長いあいだ約束されていた正義と友愛の王国を容れる余地が地上にあったからである。今でなければ永久に、われわれが夢見た一なるヨーロッパの機会はなかったのである。地獄はすでに過ぎ去った。そのあとで何がわれわれを脅かすことができたであろうか。別な世界が始まりつつあった。そしてわれわれは若かったゆえに、みずからにこう語り聞かせた。われわれが夢見た世界、より良く、より人間的な世界がわれわれの世界となるであろう、と」(pp.416-417)。

しかし、「われわれは愚かであった、ということを私は今知っている」。

ナチス政権が誕生し、その影響力はツヴァイクの母国オーストリアでも増していく。ユダヤ人であるツヴァイクはイギリスへと亡命するが、ナチスの猛威はますます強まっていく。ヨーロッパは完全に過去のものに、あの理想は「昨日の世界」となってしまった。最早「明日の世界」を信じることができなくなったツヴァイクに残されていたのは、殺されるのではなく自らの意思によってその生涯を閉じることのみだと思えたのだろう。


『ツヴァイク全集20』の「月報7」で、吉田正巳はツヴァイクの没後10年にあたる1952年にトーマス・マンが書いた文章を取り上げている。その冒頭でマンは「ツヴァイク自殺の報を受けとったとき、驚きと悲しみを味わうと同時に、正直いって、ツヴァイクがこういう行為をしたことについて、彼を「うらむ」気になった」としているそうだ。それは「「われわれ亡命者すべての共通の運命からの離脱」だと思われたし、さらには、嫌悪すべきナチの「巧妙な手」にひっかかって、その犠牲になったとしか考えられな」かったのである。

ツヴァイクと交遊の深かったフロイトには有名なエピソードがある。オーストリアがナチスドイツに併合され、フロイト家の人々も危機にさらされた。娘のアンナがいっそのこと自殺をしてしまってはどうかとほのめかすと、すでに齢80を越えているうえにガンに冒され身体はボロボロであったフロイトは、なぜそんなことをしなくてはならないのか、ナチスがそれを望んでいるからなのか、と言い返した。フロイトにとってウィーンを離れることは、ましてや自殺をすることは、ナチスに屈することでしかなかった。

おそらくはマンも同じ気持ちだったのだろう。ここで自ら命を絶てば、それこそナチスの思い通りのことではないか。「ツヴァイクが自殺した当時、マンは、いかなる意味でもナチの暴威に屈してはならぬと考え、いわば戦闘的ヒューマニズムの立場を守り抜こう」としていた。

現在からみると、ツヴァイクの絶望にかられての自殺よりも、フロイトの不敵な態度やマンの「戦闘的ヒューマニズム」の方が「魅力的」に映ることだろう。

「マンにいわせると、この消えてしまった「昨日の世界」は、一九一四年に、つまり第一次大戦勃発の年に、すでにその「最後の鐘」を打ち終わったのであって、第二次大戦で急にどうなったわけではないのだ」。
マンの冷徹な分析を前にすると、ツヴァイクが第一次大戦直後に感じた高揚はなんとも甘いものに思えてしまう。しかし、だからもうツヴァイクは忘れ去ってしまって構わない、「昨日の世界」の住人にすぎないのだろうか。マンはツヴァイクの訃報直後に抱いた感情について、「その後、この考えも変わったし、ツヴァイクの死をもっと同情的に見られるようになった」という。
「やがて、そのマンでさえも、心おとろえる思いを味わされるこの現代を、つまり、敵意と疎隔に満ちた「今日の世界」を、あのときツヴァイクが「生きぬこうとも思わなかったし、生きぬくこともできなかった」点を、十年たって考えると、マンには、もはやそれを鞭打つ気がなくなった」のかもしれない。

マンは、ツヴァイクとは「よいことをひろめる」ことだけが「彼の心にかかっている」としている。マンにとってツヴァイクは「気だてのやさしい、根っから善良な人物」であり、だからこそその「急進的な、つまり絶対の平和主義がわたくしを苦しめた時代もありました」とふり返っている。

理想というものが「昨日の世界」であることが、嘆くものではなくあまりにも当たり前のことのように思えてしまう現代だからこそ、もう一度ツヴァイクの希望と絶望について考えてみるべきなのかもしれない。
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佐藤太郎(仮)

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