『アクト・オブ・キリング』

『アクト・オブ・キリング』



1965年、インドネシアでは9・30事件が起こる(これについては本作で字幕監修も務めている倉沢愛子氏の『9・30 世界を震撼させた日』に詳しい)。これと連動して「共産主義者」たちへの大虐殺が発生する。正確な死者の数は未だに不明で、100万とも200万人以上ともされる。

その虐殺を実行した「プレマン(ヤクザ)」のアンワルらが、約40年後に自らの行為を再現する映画を撮影する過程に密着したのが本作である。

『アクト・オブ・キリング』を、「正しい」ドキュメンタリーであるかというと躊躇してしまう。
アンワルらは当初は「無邪気」にも映るほど虐殺を正しいことだと信じきり、滑稽にも思える再現映画に取組んでいたのが、次第に自らの残酷な行為と向き合わざるをえなくなって罪の意識が芽生えてくる……と要約することはできない。この作品はそのような印象を与えるために編集されているのであり、取材の時系列順に映像を使わなければならないという制限を加えたならば大分違った印象になったであろうことが推測される。

一番わかりやすいのは、当初白髪であったアンワルの髪が急に黒くなり、その後に白髪を染めようかと話す映像が出てくる。撮影順とは入れ替えられた編集がなされているのである。その他にも、アンワルの側近であり再現映画ではなぜか女装して女役を演じるヘルマンが途中選挙に出るという一幕があるが、この時彼は髪を切っている。しかしその後登場するヘルマンは相変わらず長髪である。ヘルマンが選挙に出たのは一体いつなのだろうか。
そして最大の問題は、本作のクライマックスともいえる、アンワルが虐殺と向き合うことで嘔吐を繰り返す場面である。この直前ではアンワルの髪は黒く染めた色がやや抜け始め茶色がかっているが、嘔吐する場面では白い。冒頭近くでアンワルはハリガネで絞め殺した方法を再現するが、髪の感じはこの時に近いようにも見える。嘔吐したのがいつなのかは作中では示されないが、少なくともその前のインタビュー時の直後ではないことは確かだ。

ここで注意しなければならないのは、監督は観客をミスリードしようとしてこのような作為を行ったのではないだろうということだ。髪の黒くなったアンワルを登場させる前に染めようか話す場面を入れたからといって流れが破綻するとは思えず、観客にあえてこれは時系列順に編集しているのではないということを印象づけようとしているかのようだ。

冒頭近くの再現場面で、アンワルは当初は撲殺していたがこれでは出血等がひどいものでハリガネで絞め殺すことにしたと語っている。ここで想起せざるをえないのがナチスドイツによるユダヤ人虐殺である。ナチスが「最終解決」を開始した当初は収容所のユダヤ人らを銃殺していた。しかしこれはナチス側に精神的動揺をもたらしてしまうため(銃殺の模様を視察したヒムラーがあまりの凄惨な光景にショックで失神してしまったというのは有名なエピソードである)、罪悪感を抱かせない方法としてガス室が編み出されていったのであった(もちろん「効率的」に大量殺害を行うという目的もあったが)。ハリガネでの絞殺は、プレマンたちにとってはガス室のように衝撃を和らげる方法だったのだろう。とはいうものの直接手を下していることには違いはない。
アンワルは興味深い話をしている。虐殺を行っていた時、この惨劇を忘れるために歌い踊り酒を飲み、ドラッグにまで手を出していたという。つまり、虐殺の実行犯たちは自分たちの行いが正しいことで何らうしろめたいことはないのだ、とは思っていなかったのである。そしてアンワルは悪夢にうなされていることを告白し、そればかりか再現映画にも悪夢のシーンを取り入れようとまでしている。

監督がより「劇的」にこの作品を仕上げたかったのなら、このような当初から罪悪感を抱いていたという告白はカットするか、もう少しボカした形にすることだろう。ふてぶてしくも自らの「信念」を疑わなかった人物が罪の意識に苛まれていくとしたほうが「効果的」だったはずだ。そして冒頭とエンディングでは、幻想的(といっていいものかどうか……)な虚構化された再現映画の映像が使われる。

では本作はいったい何についての映画になっているのだろうか。これは「物語」についての映画なのではないだろうか。アンワルらは映画館を根城にするプレマンだった。ハリガネを使った絞殺がマフィア映画にヒントを得ていたように、暴力的な(アメリカ)映画からその方法を学んだ。「共産主義者」たちは、アメリカ映画の禁止を訴えていた。1965年のインドネシアで起こっていたことは、「物語」と「物語」の闘争でもあったのである。プレマンたちは罪の意識から完全に逃れていたのではない。それを正当化するためには「物語」を必要としていた。「共産主義者」によって国が滅ぼされるという「物語」でも、あるいはギャングに憧れる「物語」でもいい。あの信じがたい惨劇を行うには「物語」の存在を抜きにはあり得なかったことだろう。

一方で、「物語」はただひたすら暴力へと人間を狩り立てるものではない。アンワルらが虐殺の再現によって殺される側の「物語」に触れ、自らの行為を見つめ直さざるをえなくなるように、「物語」には隠蔽や忘却に立ち向かう力も持っている。

再現映画撮影の途中で、アンワルと長らく会っていなかった同じ実行犯が登場する。この人物は共産主義者は残虐だったと宣伝されてきたが、残虐だったのは自分たちだ、真実を再現することによってこのことが暴露されると言う。では彼は自らの「罪」と向き合っているのだろうか。監督とのインタビューではむしろ開き直ったかのような態度で自己正当化に走っている。そして独裁政権下での経済的繁栄を象徴するかのような都会的なデパートで、家族と物質的享楽にひたっている映像が数度に渡って挿入される。
ここは人間という複雑怪奇な存在を理解し難いものとして描いているようで、人間とはこのような複雑怪奇な存在なのだということを描くという点ではステレオタイプ的演出にも映る。

この作品はアンワルらが「物語」によって虐殺へと走り、「物語」によって過去と向き合うように映るが、そのように「整理」しているのは監督なのである。あの異様な事件を起こすには「物語」が必要だったように、あの異様な事件を理解し解釈するためにも「物語」を必要としてしまっていることを告白せざるをえないのがこの作品なのであろう。


僕が本作においてもっともぎょっとさせられたのは、嬉々として虐殺を再現する人々の姿でもなければ、育ての親を殺されたのに映画製作に協力する隣人の姿でもない。エンドクレジットに山のように「登場」する「Anonymous(匿名)」としか表記されないスタッフたちである。

もともと中心的監督であるジョシュア・オッペンハイマーは虐殺を被害者側から描こうとしていたという。しかしインドネシアにおいては未だにこの虐殺の公式の歴史に対しての批判的検証はタブーに近く、その結果加害者側からアプローチするという方法を取らざるを得なかったのである。

作中にも描かれているように、インドネシアでは大規模な民兵組織が存在し、虐殺の実行者たちはその英雄として扱われている。そればかりか、「民主化」されたはずが大臣が虐殺再現映画の撮影現場に顔を出すように、この民兵組織は政権ともズブズブの関係であり続けている。このような状況では虐殺の被害者の関係者たちが声をあげることが非常に厳しいことは想像に難くない。「Anonymous」たちは何よりもそのことを「雄弁」に語っている。

「物語」という存在そのものが善であったり悪であったりするのではない。人間は善をなすときにも悪をなすときにも「物語」を必要とするし、またその「物語」を解釈するためにまた「物語」に誘惑され続ける。しかしそこには、「物語」からこぼれおちる存在が必ず生じてしまう。エンドクレジットでスクリーンを覆いつくすかのような「Anonymous」たちはそのことを観客に訴えかけているかのようであるが、またそのこぼれおちた存在を拾い上げるためには、新たな「物語」を求めなくてはならない。「物語」の持つ可能性と、そして危うさに向き合わざるを得なくなるのが、この作品の力なのだろう。




プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR