『MONKEY vol.3』

『MONKEY vol.3』



特集の「こわい絵本」では一番好きなのはI・A・アイルランドの「幽霊譚のためのエンディング」かなあ。I・A・アイルランドって誰?ということについては柴田元幸さんが「れにくさ」第4号で「I.A.Irelandとは何者か」を書いておられます。

ジョン・クラッセンがインタビューで語っているcreepy(不気味)なものへの志向は、絵本というものの本質とまでしていいのかはわからないが、魅力の一端なのだと思う。

クラッセンって常にキャップですよね、なぜかは詮索しないが……







「柴田元幸(ひとまずの)最終講義  二十一世紀のアメリカ小説」は、二十世紀半ばから二十一世紀初頭までのアメリカ小説の流れを追うとともに、柴田元幸個人がどんな小説に心惹かれているかについてもよくわかるものになっている。

第二次大戦後、まずは「他者」であった黒人やユダヤ系といったマイノリティによる文学の隆盛があり、続いて主に白人男性によって担われたポストモダンの流行がある。そして今度はネイティブ・アメリカンやアジア系、チカーノ、そしてマイノリティの中のマイノリティともいうべき女性作家に勢いがあるなど、多様なマイノリティ文学の盛り返しが起こるが、これはポストモダンなど存在しなかったかのようなリアリズムの形を取るものが多かった。この中で逆説的に最大の「他者」として発見されたのは、プア・ホワイトを描いたレイモンド・カーヴァーに象徴されるようなのような白人男性でもあった。このリアリズム重視の流れはアメリカ文学に長く留まっていたが、ポール・オースターやスティ-ヴン・ミルハウザーのような「そういう流れなど知るかという顔をして独自の書き方をしている人」を積極的に紹介してきたのが翻訳家柴田元幸であったのはご存知の通り。そしてここにきて、「ニュー・ニューゴシック」とすることもできる作家たちが次々に登場してきている。

「ニュー・ニューゴシックは、まずはジャンルの自由な混淆をすぐに目につく特徴とし、話は往々にして荒唐無稽で、いってみれば子供の妄想をそのまま膨らませたような奔放さに貫かれています。現実と幻想が真ん中に壁のある「二極」ではなく、たがいにゆるやかにつながっているという印象を受けます」。

66年に書かれた、「現代の古典」になっているジョイス・キャロル・オーツの「どこへ行くの、どこへ行ってたの」のような、「表層的で嘘に染まった昼の世界」と「深層=真相を開示する闇の世界」といった二分法とは明らかに異質なこの「ニュー・ニューゴシック」の代表格として、ケリー・リンクとブライアン・エヴンソンがあげられている。

ここでは触れらていないが、村上春樹のアメリカでの受容もこういった流れを頭に入れておくと理解しやすいだろうし、またその村上が日本にカーヴァーを紹介したばかりか全集まで訳してしまうほど入れ込んだというのも興味深いところでもある。


あと、デイヴィッド・パンターの現代ゴシック論からの引用があり、その注でパンターが「ゴシック的本質をもっとも極端に明かしている現代小説」としてブレット・イーストン・エリスの『アメリカン・サイコ』を挙げているとして、こう続けている。「たしかにあの、ウォール街に寄生するヤッピーを主人公とし、後半に至ってどんどん話の辻褄が合わなくなっていく、ニューヨークという街がもっぱらヤッピーとホームレスからのみ成り立っているように思える小説は、すべての現実をホームレスが見る夢と考えれば腑に落ちます」。

『アメリカン・サイコ』という小説は幻想というか妄想を描いたものである可能性はジョン・サザーランドの『現代小説38の謎』でも論じられていたし、個人的にもそう考えるべきだと思うのだけれど、こういう読み方ってどこまで一般的になっているのだろうか。




「立ち会ってみたい瞬間」は過去のある瞬間をのぞけるとしたらいつがいいかという「猿からの質問」。

柴田はホーソーンとメルヴィルが初めて直接顔を合わせてじっくり話しこんだピクニックをあげている。この体験はメルヴィルに『白鯨』を全面的に書き直させるきっかけとなったと考えられている。

内田樹は1944年ドイツ占領下のパリで、ピカソ作、カミュ演出の「尻尾をつかまれた欲望」が上演された夜をあげている。この公演には役者としてサルトル、ボーヴォワールなどが出演、また客席にはバタイユ、ラカンなど錚々たる(というか相当にアクの強い)面々が揃っていた。
上演後に製作を担当したミシェル・レリスの家でピカソとカミュを囲んだ一同の伝説的写真が残されている。カミュはレジスタンスの精神的拠点となっていた雑誌『闘争〔コンバ〕』の匿名の主筆であったが、サルトルでさえこのことを知らなかったし、ラカンはゲシュタポ本部に出入りしていたため対独協力者という嫌疑をかけられていた。このように、この時各々誰がレジスタンスで誰が対独協力者であったのかまったくわからない状態であり、「極限的にソフィスティケイトされた腹の探り合い」が展開されていたのかもしれない。
これってそのまま小説、戯曲、映画と何にでも使えそうな出来事だが、すでにあるのだろうか。胃がキリキリするような心理戦を誰かに描いてほしくなる。

スティーヴ・エリクソンは2017年1月19日のオバマ政権最後の日に、ジェファーソン、リンカーン、オバマが顔を合わせる瞬間を幻視するという、そのまま小説にできそうなエリクソンらしいものになっている。全ての人間の平等を謳う独立宣言の中心的起草者でありながらジェファーソンは奴隷を所有し続けるばかりか、奴隷である女性との間に子どもを作っていたという事実に着想を得て書かれた『Xのアーチ』は柴田元幸訳だけれど、このことを意識してたりしたのだろうか。
またエリクソンによるガルシア=マルケス追悼文も収録されている。




デイヴィッド・ピースの「龍之介のあと、龍之介のまえ――」は、芥川龍之介の伝記的事実とその作品とを合わせた小説。正直にいうとピースの作品はあまり好みではなかったのだけれど、この作品はこれまで読んだなかで一番好き。長篇小説として完成するまでにはまだ時間がかかるのかもしれないが、これは非常に楽しみ。




サンフランシスコの書店、文芸誌事情についても興味深い。
シティ・ライツ書店のヘッド・バイヤー、ポール・ヤマザキはインタビューでここ三年間の売り上げは過去最高と語っている。「よそで売れなくてもシティ・ライツで売れる本」というのがしっかりと確立しているのも大きいのだろうが、またLitquake(文学と地震の合成語)のようなイベントにも積極的に関わっている。「バーとかコインランドリーとか、いろんなところで朗読会やパフォーマンスをやって文学を街に引っ張りだした。昔はビートというムーブメントがあったけれど、”we are all in this together”(みんなで一緒にやってるんだ)という感覚は昔より強いんじゃないかな」とヤマザキは語っている。

シティ・ライツはビート・ジェネレーションの作家たちを送り出した出版社でもあり、猥褻としてギンズバーグの『吠える』を売ったとしてシゲヨシ・ムラオが逮捕されたように、日系人が大きな役割を果たしてきた書店、出版社でもある。

サンフランシスコにはまたいくつかの注目の文芸誌が出ているところでもあるが、その中のひとつ『ズィズィヴァ』の編集部への取材もある。ゾウムシの一種という不思議なこの雑誌の名前は、「決定版」や「最高のもの」を指す「The Last Word」の文字通りの意味、辞書に載っている最後の言葉から取られたそうである。

ローラ・コーガンはこの雑誌の読者について、「リスクを承知で読んでくれる、ハズれを恐れない読者。私たちはもちろんビッグネームも載せるけれど、不等に評価の低い作家や、まだ一度も活字になったことのない作家も載せます」と語っている。『ズィズィヴァ』は1988年春に、村上春樹作品の翻訳を始めて掲載したアメリカの雑誌でもある。

25年前のような誰もがカーヴァーみたいに書こうとしていた時期とは違うかという質問に、オスカー・ヴィラロンは「いまは誰もがデイヴ・エガーズみたいに書こうとしてるんじゃないかな(笑)」と答えている。エガーズは『驚くべき天才の胸もはりさけんばかりの奮闘記』がベストセラーになり、その金で『マクスウィーニーズ』などのイキのいい雑誌を立ち上げた「文学的英雄」であるが、エガーズを日本でたとえると誰かというのはちょっと思いつかないような人物。まあいろんな意味で真似したくなる人だというのはよくわかる。

『ズィズィヴァ』の編集スタッフは二人だけで、雑誌やTシャツの発送からイベントの企画、ブログの更新まで全て二人で行っているそうだ。
文芸フェスを主催するLitquakeとシェアしているオフィスはさぞ乱雑なのかというと、写真を見ると整頓されていてオシャレな感じ。ついでに余計なことを書くとコーガンさんもオシャレ美人という感じで、外見的には親近感がわいてしまうヴィラロンさんは落ち着いて仕事ができるのだろうかと心配になってしまう。





「英語圏最大の文芸誌」である『グランタ』の元編集長ジョン・フリーマンはインタビューで、「雑誌を作るのは、お金を失う良い方法です(笑)」と語っている。「だから本物の企業は手を出さないので、英米では裕福な個人のサポートを受けるか、NPOとして作るかのどちらかです」としている。『グランタ』も一人の人物がずっと支えているそうだ。

フリーマンのインタビュー集であるHow To Read a Novelistからポール・オースターとシリ・ハストヴェット夫妻の部分が訳出されている。この本はフィリップ・ロス、トニ・モリソンなどの大御所にラシュディ、デリーロ、パワーズといった中堅からエガーズのような若手まで、さらにオリハン・パムク、村上春樹、莫言といった英語圏以外の作家も取り上げていているが、翻訳は出ないのだろうか。




村上春樹の連載は「オリジナリティーについて」。
ビートルズやビーチボーイズを初めて聴いた体験からオリジナリティとは何かという考察を始め、なぜ自分は日本の批評家などからこれほど嫌われているのかという、さらに嫌われそうなことへと展開し、デビュー作の『風の歌を聴け』をめぐる思い出から自身の小説を書く姿勢を明らかにしていっている。

わざわざ店に訪ねてきて、「あれくらいのものでよければ、おれだって書ける」と言い放った高校の同級生は今頃どういう気分なのかなあと考えてみたのだが、当時とあんまり気分は変っていなさそうな感じが。

ここで村上はロバート・ハリスの『アフォリズム』からポーランドの詩人ズビグニェフ・ヘルベルトの「源泉にたどり着くには流れに逆らって泳がなくてはならない。流れに乗って下っていくのはゴミだけだ」という言葉を引用している。なかなかかっこいいのだが、村上春樹がどういうきっかけでこの本を手にしたのだろうかということのほうが気にならなくもなかったりもした。
 



と、ダラダラと思いつくままに書いてしまったが、今号も盛りだくさんの楽しさでありました。


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佐藤太郎(仮)

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