『戦後思想家としての司馬遼太郎』

成田龍一著 『戦後思想家としての司馬遼太郎』




「プロローグ」に、司馬遼太郎が1991年に書いた「なぜ小説を書くのか」が取り上げられている。ここで司馬は、「栃木県佐野で迎えた「敗戦の日の実感」を記している――「なぜこんなばかな戦争をする国に生まれたのか」。日本の指導者の「愚かさ」について痛感するとともに、「むかしの日本人は、すこしはましだったのではないか」と続け、「だから、私の作品は、一九四五年八月の自分自身に対し、すこしずつ手紙を出してきたようなものだ」とみずからの問題意識を解説」しているのだそうだ。

本書を読むと司馬がある時期までの日本のマジョリティを象徴する存在であったということが様々な面から再確認できる。

司馬は1972年発表の「石鳥居の垢」で、「沖縄戦での日本軍による住民虐殺も「沖縄における特殊状況」であったとは、どうにも思えないと述べ」、「ある状況下におけるファナティシズム」について考察している。
また1962年発表の「軍神・西住戦車長」ではノモンハン事件について、「このきちがいじみた戦争のおかげで人間があまりに多く殺されすぎた。「軍神」だけがその死に特別な栄誉を与えられるのは、他の無名の死者への冒涜であろう」としている。
そして『竜馬がゆく』では、「司馬は吉田松陰と松下村塾の門下生らを「維新にける暴走派の諸才能」とし、長州藩の攘夷論者たちを維新の原動力としつつ、彼らのもつ過激さに批判を加える。『竜馬がゆく』をはじめ幕末を描く諸作品のなかで、「この時期の長州藩の異常過熱」「極端な過激主義」がくり返し指摘される」。また『世に棲む日日』では、「松陰以後、(長州藩の――註)暴走がはじまる」、「松陰がたとえ存在しなくても、歴史は動くし、幕末の騒乱は発生するし、また明治の統一国家は成立する」としている。
さらに『坂の上の雲』では乃木希典と伊地知幸介の「無能」ぶりを強調し、「「旅順の乃木をいまのままにしておいては日本は敗ける」という「ほとんど確実な予想」を児玉源太郎にもたせ」、「「日本存亡のかぎ」が、「もっとも愚劣でもっとも頑迷な二人(乃木と伊地知――註)の頭脳ににぎられている」と司馬は嘆く」のである。

このように司馬はファナティカルなものや無能な軍人を嫌悪している。しかしまた、国民国家の形成を称揚し、「健全なナショナリズム」の亢進にも務め、明治憲法をも批判的に捉えることはない。このあたりはある時期までの戦後日本の保守層の代表的な考えでもあったのだろう。

つまり司馬はまた、日本の保守層の限界を示す存在でもあろう。
司馬は「「現代というのは男が魅力を喪失した時代」と繰り返し述べ、「男の魅力」を「時代に探ろう」とする」。1962年には、「「女性に濃厚な興味」をもつが「面白さにかけては、同性の男という生きもののほうが、はるかに面白い」と述べる。「男性が野望に燃えたとき」に面白さを感じ、男性が「権力慾、栄達慾、求道慾、復讐慾、攻撃慾に燃えたとき」に、その行動は「きわめてダイナミック」になり、美しさも醜さも「いきいきと出てくる」として、時代小説を「一にも二にも男の魅力、悲しさ、おかしみをえがく小説」と規定した」。ここに男性中心主義を感じることができるが、実際に『燃えよ剣』における土方の周囲の「姉のまなざしを持つ女性は、「公」の場所で働く男性を補佐し支える女性であり、近代家族が作り出す性別役割分担に即応し男性にとり都合のよい女性」となっている。「また、司馬は「男色」を嫌悪する。近代社会は、夫婦菅家を単位とするがゆえに「男色」を排斥するが、『竜馬がゆく』では「男色」に言及し、「まったくこまった藩風」であり、「竜馬には、衆道の悪趣味など、毛ほどもない」などの記述」がなされている。

このあたりはもちろん世代的なすり込みも影響しているのだろうし、このようなジェンダー観やホモフォビアは司馬に限らず広く見られる近代の陥穽とでもいったものであろうが、司馬の中にそれを疑う視線はない。

1960年発表の「風の武士」では、「忍者」を「わざわざ「少数民族」と表現している」ように、「周縁」の存在に対し早くから関心を寄せていた。しかしそうであるにも関わらず、「国民国家」への批判的視線や自民族中心主義を疑う姿勢は極めて弱いものとなっている。

「『坂の上の雲』において、司馬の近代日本の歴史像の輪郭がはっきりさせられるとともに、歴史家たちと対決しながら、成功した「近代日本」の物語を紡ぎだす司馬の姿も浮上する。司馬には、「日本」「近代」とそれを作り上げた「ナショナリズム」への関心があり、「西洋」との緊張関係があった。この点を歴史像として描くことにより、『坂の上の雲』は「公的日本人」の形成過程が描き出されることとなった。ことばを換えれば、(a)国民国家の構成性はいうものの、「日本人」(民族)の実在性は疑われず、(b)国家形成の課題を成し遂げた十九世紀末―二十世紀初頭の「日本人」への賛辞を呈する。戦時の国家の暴走はこりごりであり、あらためて日本人(民族)の共同性を探り出そうとする戦中派として、一九六〇年代の司馬は再出発したといえよう」(pp.161-162)。

その結果、日本の植民地支配に対する批判的視線は非常に鈍ることとなり、右派お決まりの、当時の国際情勢を考えれば仕方がなかった、日本の統治は悪い面ばかりではなかったという立場に接近するどころか、そのものずばりの発言もしているのである。

司馬は豊臣秀吉の朝鮮侵略の無意味さを繰り返し述べ、朝鮮半島から日本への影響を進んで評価し、また国家神道への批判を行う。しかしまた、「植民地責任の回避」としか見えない発言もし、「植民地主義の加害者としての自覚が希薄である」ことも明らかである。例えば『街道をゆく 韓のくに紀行』にいて、「日帝」による支配の期間は「長い朝鮮史のなかでその期間はたかが三十余年間であるにすぎない。李朝五百年が、朝鮮の生産力と朝鮮人の心を停滞せしめた影響力のほうがはるかに深刻なように思う」と述べているという。これなどは典型的な居直りとするより他ないだろう。

また台湾についても、「私は日本人だからつい日本びいきになるが」と前置きしつつ、日本が「帝国大学を設け、教育機関を設け、水利工事をおこし、鉄道と郵便の制度を設けた」と、日本植民地時代の「遺産」を肯定的に評価している。『街道をゆく 台湾紀行』では台湾総督府土木局に勤めていたある人物を「顕彰」するのであるが、胎中千鶴は『植民地台湾を語るということ』において、司馬はこの人物が「昭和期の植民地官僚であることにはあまり言及せず」、「日本が本国の利益を優先し、住民の伝統的価値観や生活様式を軽視して経済開発を推し進めたこと」を欠落させていると批判しているという。


このように、ファナティカルな軍国主義を批判している良識的な人物と見られることもある司馬だが、一皮めくれば自民族中心主義に陥り、植民地支配などを等閑視するばかりか積極的に糊塗する姿も浮かび上がってくる。司馬が「ある時期までの日本のマジョリティを象徴する存在」と書いたが、それはこのような面も含めてのことである。

では日本のマジョリティを覆っていた「一皮」とは何かというと、それは戦争体験であったのだろう。司馬自身もアメリカないしソ連に殺されることを覚悟していた。そしてこれが神懸りや無能な軍人によってもたらされたということを嫌というほど思い知らされていた。このような体験が部分的には「良識的」と見えなくもない「皮」で日本を包ませていたのであろう。しかし戦争体験のない世代が日本の保守・右派層のマジョリティとなった「ある時期以降」になると、その「皮」はあっけなく破れ去り、暗澹たる惨状をさらしているというのが現状である。

司馬の古巣である産経新聞の現状を批判するために司馬を引き合いに出す人もいるが、むしろ種は司馬によって播かれていたとするべきかもしれない。もちろんこれは司馬のみに帰せられるものではなく、司馬が筑紫哲也のような「リベラル」な人物から好意的に評価されていたように、植民地支配や戦争責任への「リベラル」の「寛容」さもまた歴史修正主義の跋扈の芽を摘むことができなかった要因でもあろう。司馬の持つ「限界」よりもその「良識」に目にいってしまう状況が保守側、「リベラル」側双方の日本の植民地支配や戦争責任への意識を表すものになってしまっているのだろう。


本書の「プロローグ」に、司馬が亡くなった1996年はまた、丸山真男、大塚久雄、渥美清、藤子・F・不二雄が亡くなった年であることに触れられている。生まれた年こそ異なるものの、「みな戦後という時代を肯定的に考え、戦後に積極的な価値を与えるという共通点を有していた。彼らは、いずれも戦後が持つ理想に積極的にかかわり意欲的であった」。

冷戦が終わり、出口の見えない不況が深刻の度合いを深めていく1996年は、日本にとって「「戦後」の切れ目を印象づける」年なのであった。

プロフィール

Author:佐藤太郎(仮)
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