『HHhH(プラハ、1942年』

ローラン・ビネ著 『HHhH(プラハ、1942年』




「第三帝国でもっとも危険な男」「金髪の野獣」など数々の異名を持つラインハルト・ハイドリヒ。ユダヤ人問題の「最終解決」の発案、実行で中心的役割を果たした人物であり、チェコの総督を務めていた。亡命チェコ政府はハイドリヒ暗殺のためヤン・クビシュとヨゼフ・カブチークをパラシュートで降下させる。二人はチェコ国内のレジスタンスたちと協力し、ついにハイドリヒ殺害に成功するが、レジスタンスたちには過酷な運命が待ち受けていた……。


この実話は事件発生のわずか一年後にドイツから亡命していたフリッツ・ラングとベルトルト・ブレヒトによって『死刑執行人もまた死す』として映画化されたように、フィクション、ノンフィクションを合わせて膨大な数の作品を生んでいる。

語り手のフランス人である「僕」もまた、この暗殺劇を小説にしようとしている。本作はとりあえずは、「僕」がいかにこの小説を書くかの苦闘を小説化したものだとすることができる。思春期の頃に父からこの出来事についての話を聞き、書棚の本に手を伸ばしたこと。兵役でスロヴァキアでフランス語を教えたときに耳にした逸話。やがてこの事件を小説にしようと決意するが、資料を山のように集めても、いくらでも新たな資料が出てくる。さらには執筆中に同じテーマの作品が発表されたりと、落ち着かない出来事も起こる。しかし何よりも「僕」が苦しんでおるのは、「小説を書く」という行為そのものであるかのようだ。

「僕」が書こうとしているのはあくまで小説である。だからといって事実関係を無視し、実話にインスピレーションを得て自由に想像力を飛躍させるような類の小説が書きたいのではない。事実を基にしたフィクションであっても、史実からのズレが気になってしまう。ある挿話を徹底的に調べ上げ、資料的根拠に基づいて書いたにも関わらず、友人から創作したエピソードだと思われてしまったことは心外だった。しかし、当然ながら想像によってしか埋めることのできない部分もあり、「小説」にできることとは、あるいは小説の作者に求められる倫理はどのようなものなのだろうか。

実話を基にした小説というのは枚挙に暇がなく、当然ながらそこには倫理的問題が孕まれているのだが、とりわけあまりにも重いテーマを扱う場合に、「小説」に何ができるのか、何が許されるのかについて作者も、そして読者も向き合わなくてはならなくなる。

作者/語り手は当然ながら暗殺の実行者に対し強いシンパシーを抱いている。しかし二人の身に何が起きたのかは動かしようのない事実である。小説はその「事実」からの逸脱が許されるのであろうか。少なくとも「僕」はそれを否定する。

事実を積み重ねていくことによって、脱線とも思える細部や枝葉とも思える出来事を積み重ねていくことによって緊張感は高められていくが、暗殺の「事実」はそれを嘲笑うかのようにスラップスティック的な展開を見せる。それだけにまた、読者には二人の最後が胸に迫る。そして「僕」はせめて二人を救う試みとして、精一杯の場面を結末に持ってくる。これには「感動」してしまうのだが、では読者は一体何に「感動」してしまうのだろうか。「僕」の必死の努力にだろうか、ビネのストーリーテリングにだろうか。「感動」するということは、結局「事実」を消費してしまうだけのことなのではないのだろうか。


本書の原著は2010年刊行なので、執筆時には恐らくは観ていないと思うが、ビネはタランティーノの『イングロリアス・バスターズ』にどのような感想を持ったのだろうか、ということを考えてしまう。もちろん『イングロリアス・バスターズ』は完全な創作であるが、そのクライマックスには評価は分かれることだろう。フィクションだから許されるのか、あるいは歴史に対する、ナチスの犠牲者に対する傲慢な暴力なのだろうか。『イングロリアス・バスターズ』からはカタルシスが得られるが、そうであるからこそそこには危険性が含まれていることにも自覚的でなくてはならないだろう。

ビネはフランス人であり、またナチス関連の映画や映像資料も相当に収集していることを考えると、当然ながらゴダールとランズマンの間で繰り広げられたホロコーストの表象にまつわる論争も承知していることだろう。作中で言及がないのはむしろ意図的にはぶいたようにも思えてしまう。

このようにビネが、あるいは「僕」が抱く葛藤とその模様を虚実まじえて表現するというのは映画的想像力という面も持っている。とはいうものの、小説を書くことについての小説というのもまた、決して斬新なアイデアというわけではなく、むしろ前衛的な文学においては常套的テーマである。フランスを初め各国でベストセラーになっていることからもわかるように、本作は前衛小説ではない。読んでいて理解できないところに出くわすことはないし、読者を煙にまくような韜晦的な作品ではない。評論と小説との結合や、前衛作品に落とし込むほうがむしろたやすいことだったろう。誤解をおそれずにいえば、本作はエンターテイメントとして成立している。むろんそれゆえにまた新たな葛藤も生じるとすることもできるが、まさにこれも文学的葛藤であると同時に映画がしばし陥る葛藤でもあろう。そしてそのような葛藤をも取り込んで作品に昇華させていくことも、文学的であると同時に(あるいはそれよりもさらに)映画的であるとすることもできるのかもしれない。一方でもし本作を映画化しようとすると、よほど能力がある人が手がけない限り、鼻持ちならないかおそろしく退屈な作品になってしまう可能性が高いだろうとも思えるが、これも文学作品においても同様だろう。

歴史と小説との間を往還しながら、本作は肯定的な意味であくまで小説であり、文学的想像力と映画的想像力との間を往還しつつも、やはり優れて文学的作品なのである。


ビネが本作執筆中に刊行された同事件を扱った作品はリテルの『慈しみの女神たち』。まだ未読だが、こちらは逆に虚実入り混じった作品のよう。




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