『グリニッチヴィレッジの青春』

スージー・ロトロ著 『グリニッチヴィレッジの青春』




デイヴ・ヴァン・ロンクの回想『グリニッチ・ヴィレッジにフォークが響いていた頃』を読み、それを原案としたコーエン兄弟の『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』を観て、そういえばこちらをまだ読んでいなかったということで。

スージー・ロトロって誰? と訊かれたら、ボブ・ディランの元恋人でセカンド・アルバムの『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』のジャケット写真でディランと腕を組んでいるあの女性という説明をしてしまうことだろう。そのように言われ続けるのはあまり心穏やかになれることではないだろうし、実際長らく口は重かったのだが、スコセッシの『ノー・ディレクション・ホーム』などでインタビューに答えたあたりから吹っ切れてきて、本書の出版に至ったようだ。


『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』のジャケ写では二人ともすごく寒そうであるが、実際にひどく寒かったそうだ。室内で写真のセッションをしていたがそのまま外でも撮ることになり、ディランはイメージを優先させて薄手のスエードのジャケットのまま、ロトロもそれほど長くは外にいないだろうと思ってニューヨークの冬向きではないコートをはおっただけだった。

他にも兄貴分であったデイヴ・ヴァン・ロンクとの交遊をはじめとする当時のフォークシーンの雰囲気もよく知ることができる。またディランとの関係が終わりかけていた時期に二人であるパーティーに出たが、当然ひどい感じになってしまう、おまけに財布をなくしてしまってがっくし……というところでロネッツのヴォーカルのロニー・スペクターから財布を見つけたよ、という電話があったり、友だちと家にいると電話が鳴り、その友だちが電話に出ると、イギリス人のジョージ・ハリソンとかいう人から、なんてエピソードもある。

もちろんディランのプライヴェートな部分でのエピソードも数多くある。「ディラン」というのは偽名らしいという噂が広がり始めても、恋人にすら本名を明かさず、ロトロは徴兵カードをふと目にして初めてディランの本名を知ったのであった。ディランの両親と初めて会って食事をした際には、ロトロはディランの両親がなんと普通な感じの人たちかという印象を受けるのだが、これこそがディランが抹消したかったことなのだろう。

キューバ危機のときにはディランは手紙に「狂人たちは今度はほんとうにやらかす気でいる」と書き、「避けることのできない死を受け入れる覚悟」をし、望みは「放射能に苦しまずに即死すること」だけだとしていた。
またトリュフォーの『ピアニストを撃て』は二人とも気に入ったが、アラン・レネの『去年マリエンバードで』には困惑し、「ボブは映画館を出るとき、ラストシーンでカメラがゆっくり退き、門の上の「マリエンバード精神病院」という看板を映せばよかったのにと言った。/彼の説によれば「そうすれば、映画は救われた」のだった」といったあたりのエピソードも、いろいろと時代を映している。


本書はロトロの生い立ちからディランと別れ自分の道を見つけていく1966年までが語られているのだが、意外なことにといっては失礼だが、ディランの登場しないところにも面白い部分が多かった。

両親は共にイタリア系であり左翼であった。それだけにサッコ・ヴァンゼッティ事件は二重の意味で衝撃であり、これによって二人の政治信念は確固たるものになった。スージーは「赤いおむつの子」(共産主義者の家庭に生まれた子どもを当時はこう呼んだそうだ)として育つことになる。方やスターリニズム、方やマッカーシズムという時代に思春期を送った。スターリニズムや教条主義的左翼に疑問をおぼえても、批判は反共勢力を利することになるのではないかという不安を抱え、また赤狩りが猛威をふるう1950年代のアメリカで共産主義者の家庭で育つことはこれもまた不安を抱えたものとなる。さらにイタリア系ということでの差別も存在していた。

ロトロは倫理文化協会の政治研究の講座で、もの静かでハンサムでまじめな男の子と知り合う。彼は政治一般について非常に詳しく、そんな人に関心をもたれてうれしかったものの、いざ二人きりになるときまり悪くてあまり話をすることはできなかった。後になって、その男の子の父親はアメリカ共産党のトップであり、当時獄中にいたのだということがわかる。「だれも彼の家族の話をしなかった」。

1958年にはキャンプ・キンダーランドに指導員見習いとして参加する(指導員見習いになるには15歳以上でなくてはならなかったが、14歳だったロトロは年齢を偽って参加した)。
キャンプ・キンダーランドは「社会主義を信奉するユダヤ系アメリカ人が主催する夏季キャンプだったが、社会主義の信条にしたがってすべての人に門戸を開いていた」。
ロトロはここではイタリア系だからといって差別を受けることもなく、また参加している子どもたちは皆左翼の家庭で育っているという同じ背景をもっていたことから自然にふるまうことができた。当時の写真も収録されているが、ロトロとその友だちがおどけて写っているのが可愛らしい。

父親はニューヨーク・タイムズにイラストが採用されたこともある画家であったが、美術教師になるよりも労働者として組合の結成に尽力するなど労働者としての道を選ぶ。母も政治信念を共有していたが、父が亡くなるとやや精神的に不安定にもなっていく。母は最初の結婚でも夫を事故で早くに亡くし、死別は二度目のことであったし、経済的不安や成長する二人の娘との関係にも頭を悩ませてもいたのだろう。ロトロ自身も母や姉との関係や、学業を続けるべきかどうかといった葛藤を抱えることになる。
このあたりの生い立ちや青春というのは、ディランとの関係云々というのを置いておいてもなかなかに面白いし、小説や映画の題材にも使えそうに思えてくる。


ロトロは公民権運動に積極的に関わり、またキューバ革命後にキューバへの渡航が禁止されたのに抗議するためにキューバに渡ってもおり、ここでカストロと思わぬ形で出会ったり、チェ・ゲバラとの面会も果たしている。このキューバ行きには後の「シカゴ・セブン」の一人であり「のちにイッピーとして知られるようになったジェリー・ルービンも、おなじ旅行に参加していて、訪問する工場や学校や機関で詳細な質問をした。ジェリーはもの静かで熱心で、いつも細かくてきっちりした字でメモをとっていた」。どうもこの頃の雰囲気は後に知られるようになったものとは大分異なるものであったようだが、「合衆国にもどったあと、何かが、あるいはだれかが彼を解放した。そしてLSDを体験したあと自由になって、アビー・ホフマンと話ができるようになり、その結果、イッピー党が誕生した」。


ロトロの政治性はディランに影響を与えたという見方もあるが、本書を読む限りではバリバリの左翼であるというよりは「リベラル」といった感じなのかなあという印象も受けた。ディランはウディ・ガスリーから強い影響を受け、またガスリーの盟友でもあったピート・シーガーらから新世代の左翼的フォークのソングライター、シンガーとして大きな期待を集めるが、これに背を向けることになる。ディランがエレクリック・ギターを持ったのは様々な意味で象徴的な出来事であった。本書でもこのあたりについても触れられているが、親の世代の左翼との心理的に微妙な関係という点でも、二人には共通項があり、わかりあえたという点もあったのかもしれない。ロトロの母や姉はディランをひどく嫌っていたことにも繰り返し言及があるが、これも単に娘/妹にふさわしくないように思えたという一般論以上の背景があったのかもとも思えてしまう。


ロトロは2011年に肺ガンのため亡くなっている。本書には喫煙に関するエピソードもある。「一九六四年、公衆衛生局長が公式見解として紙巻たばこの危険を指摘した。わたしはたばこをやめるときが来たと判断した。実際は、完全にやめるまでに、それから五、六年かかった」。
ここからちょっと面白いエピソードにもつながっていくのだが、やや唐突に喫煙のエピソードが始まったようにも思えなくもない。いつ肺ガンと診断されたのかはわからないが、あるいは執筆中のことだったのかもしれない。


Suze Rotolo: Of Dylan, New York and Artは本書出版時のインタビュー。
Remembering Suze Rotolo, Dylan's 'Freewheeling' Museは亡くなった後の上のインタビューを再編集されたもの。
Suze Rotolo, Dylan's Cover Girl, Has Diedは訃報を伝えたもの。

『ボブ・ディラン自伝』もパラパラと読み返してみたが、ロトロの母との確執などにも触れてあり、本書と読み比べてみるのもいいかもしれない。ところでVol 2はいったいいつ……。




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佐藤太郎(仮)

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