『複合戦争と総力戦の断層』

山室信一著 『複合戦争と総力戦の断層  日本にとってに第一次世界大戦』




三木清は『読書と人生』(1942年)において、第一次世界大戦について、「私は感受性の最も鋭い青年期にあのような大事件に会いながら、考えてみないとすぐには思い出せないほど戦争から直接に精神的影響を受けることが少なくてすんだのである。単に私のみなでなく多くの青年にとってそうではなかったかのかと思う」と振り返っているそうだ。「戦争のためにドイツ語の本が来なくなると日本の学問は衰える」というようなことを言って問題になった人もいたが、「たいていの学者は心中実際にそのように考えていたのではないかと思う。ともかく第一次世界大戦が直接の影響として感じられたのは、ドイツ語の本が手に入らないということぐらいであった。現在では全く想像もつかないようなことである」と続けている。

このような感覚は必ずしも同時代の人間のみならず、現在の日本人ともある程度共通するものかもしれない。ヨーロッパは第一次世界大戦によってその価値観を大きく変えることになったが、日本への影響は少なかったというような語り方がしばしばなされている。しかし第一次世界大戦と日本についてその程度の認識でいいのだろうか。本書は170ページほどの小著ながら、考察を深めるための様々な示唆を与えてくれる。


そもそも「第一次世界大戦」という呼称についてどうであろうか。
第二次世界大戦勃発以前を舞台にしたフィクションで、登場人物が「第一次世界大戦」と口にすると、「第二次世界大戦が起こって初めて第一次世界大戦は第一次になったのだからこれは誤りだ」とする人がいる。しかしそうとは言えないようだ。ドイツの進化生物学者のヘッケルは、1914年9月20日発行の『インディアナ・ポリス・スター』紙上で「First World War」という呼称を初めて用いている。さらに注目すべきは、同年8月に印刷されていた日本の出版物に、『世界大戦争』というものがある。「世界大戦」「世界戦争」という言葉は、「ヘッケルよりも早く八月の段階でヨーロッパ以外の地で呼び始めていた」のであった(p.18)。

もともとヘッケルは文脈的には「初めての」世界大戦になるかもしれないという予感のもとに「First」という言葉を用いたようだが、イギリスの批評家レピントンは1920年9月に「「世界の歴史は戦争の歴史であった」ことを忘れないためという意図を込めて」、『The Firest World War, 1914-1918』という本を刊行している。さらにイギリスの日刊紙『タイムズ』も、やはり同年に「戦後処理の不完全さから再び世界を巻き込む戦争が起こるのではないかという不安」から、「第一次世界大戦」という言葉を使っている。さらに著者は、この戦争を「第二次を前提とした第一次世界大戦と規定したのも日本人が初めてではなかったか」と推定している。1919年12月に印刷された『新青年』創刊号から、「樋口麗陽が「第二次世界大戦」という角書きを冠した小説」の連載を始めているのである。この号にはさらに『次の戦争』という特集も組まれているが、来る戦争で日本が戦うことになる仮想敵とされているのはアメリカであった。樋口は1919年秋の執筆時に、「「第二次世界大戦」勃発の必然性を想定し、まさにそれが日米戦争になるとみていたのである」(p.28)。


第一次世界大戦への日本の参戦については、教科書的には元老井上馨が「天佑」と歓迎したことや、日英同盟を結んでいたイギリスからの要請があったためとされている。この両面があったにせよ、「天佑」とする考えと要請によって受動的に参戦したことには距離がある。「果たして井上馨は手放しで参戦を支持したのであろうか」。

第一次世界大戦が勃発すると、加藤高明外相はイギリスの参戦により連合国の勝利、ないし優勢は必至と考えた。そして「山東半島におけるドイツ軍の存在が日本への軍事的脅威であるとともに青島から中国中部にかけて日本が経済進出する際の障害となっているとみていたため、対独参戦こそ軍事的脅威と経済的障害を一挙に取り除く好機になると考えた」(p.33)。
閣僚の一部、山県有朋ら元老に中には早期の参戦に懐疑的な声もあったが、三国干渉への「復讐戦」として閣内の意見は一致する。加藤高明といえば後に「護憲三派内閣」の首相として普通選挙法を成立させるとともに治安維持法も通すことになるが、この時に積極的参戦論を押し通したことなども合わせて考えるべき人物なのだろう。

イギリスは日本の参戦を望んでいたのかというと、かなりの揺れがみられる。親独的傾向の強い日本がドイツ側に立って参戦することを恐れ、友軍にとどめておきたかった。一方でドイツの中国での権益はイギリスかフランスが引き継ぎたくもあり、日本がからんでくるとやっかいなことになる。また日本が参戦すると中国が内乱に陥る可能性もありこれは避けなくてはならず、中国との貿易が滞るのもまずい。

このようなこともあり、参戦を依頼しながらも、「予想以上に積極的で強硬な日本の姿勢に警戒感をもち、さらに自治領として重要な戦力を提供するはずのオーストラリアなどが日本の参戦に対して強い危惧を示し」、北京在住のイギリス公使や香港総督が「日本の参戦に断固反対」したこともあって日本への武装ドイツ商船撃破依頼を撤回することになる。イギリスはアメリカに太平洋の中立化を要請し、アメリカはイギリスとドイツに太平洋中立化を提案することになる。

日本としては「可能な限りイギリスの制約を受けることなく中国や太平洋で軍事行動を取ることをめざ」すことになるが、これは「同床異夢という以上に相互不信が萌していたのである」(p.43)。

井上馨はこの戦争を中国での権益拡張の「絶好の好機」と考えていたが、アメリカに対抗するためにも日英同盟よりも日露協商を強化するべきだと考えていた。一方加藤高明は「日英同盟に全幅の信頼を置いており、アメリカの中国に対する発言権の高まりについての警戒感は希薄であった。しかし、中国問題についてのアメリカの意向は無視できない状況がすでに生まれていたのである」(p.47)。

日英には隙間風が吹き、アメリカとの関係も悪化していくことなる。日本の参戦問題以後、「日本にとって中国問題とはアメリカとの外交戦と表裏一体のものとなり、常に両国の動向に配慮しながら対応することが不可欠の要件となったのである」(p.72)。


外交面から見ても第一次世界大戦は日本にとって大きな転換点となったが、軍事面での特徴についてもすでに後の出来事を暗示するかのようなことがあった。
日本は中立除外地域について中国との合意がないままに上陸作戦を開始する。日本軍は「輸送用の車両や馬、人員などをほとんど現地すなわち中立国である中国で強制的に集めること」を前提としていた。「ここには作戦を重視しながらも兵站すなわち軍隊や食料などの補給や輸送のことをほとんど無視するという日本陸軍の問題点が現れていた」(pp.74-75)。
後の南京虐殺についてもこの「現地徴用」方針の影響がいわれているし、また南方戦線で自国の兵士に他に前例がないほどの餓死者を出すことになるが、すでにこの時に陸軍の兵站軽視の体質は出来上がっていたようである。当然ながら中国の官民から強い反発があるが、これは感情面の問題だけでなく国際法に違反する行為でもあった。中国の中立を侵犯したとしてドイツはこれに抗議している。さらに日本は山東鉄道を接収したが、これは中国とドイツの合弁会社であったとしてもドイツ軍がいない以上中国の保護下に置かれるべきものであり、中国政府はこれを国際法違反だと非難した。日置益駐華公使は中立地域での接収を控えるよう加藤外相に進言し、参謀本部もこれを受け入れ現地軍に指示したが、現地軍はこれを無視して占領を続けたのであった。
このあたりの国際法を平然と無視することや現地軍の暴走も、すでにこの時点に始まっていたのである。


本書ではさらに、「シベリア戦争」も大きく取り上げている。
もともとはボルシェヴィキを懐柔したドイツ軍がシベリア鉄道を使って「北満州」や朝鮮、さらには日本本土にまで侵攻することを警戒しての軍事行動であり、革命政権を転覆させることを目的としていたのではなかった。その後革命思想が出兵した兵士に影響力を持ったり、また朝鮮独立運動に浸透していったことで「赤禍南漸」防止が唱えられるが、あくまでこれは「他の連合国が撤兵した後にも出兵を続けるための理由づけとして強調されたものであって、原因と結果を混同することはできない」(p.116)。

シベリアでは四つの連鎖する出兵が行われた。この地に傀儡政権を立て、東清鉄道全部と北樺太の石油という「二大利源」を獲得するとこと、朝鮮の安定統治、さらに中国においての対米優位の確立などが目的であり、北樺太の石油・石炭などの資源獲得は「次なる戦争形態への対応」という面も持っていた。
しかしこれらの目的は領土保全と内政不干渉を遵守するという出兵宣言とは正反対のものであるため公にされることはなかった。当初は東漸するドイツ・オーストリア軍捕虜の迫害からチェコスロヴァキア軍を救援することだけが表明されたが、「敵」はもちろんドイツ・オーストリア軍ではなかった。また目的を達成したら速やかに撤兵するとしていたが、これも守られることはなかった。このため、「こうして宣言における理由づけと本来の目的が異なっていたがゆえに、出兵した兵士にとっても誰と何のために戦うのかという理由が全く不明の「無名の師」とならざるをえなかったのである」(p.118)。そしてこのような日本の行動はさらにアメリカとの関係を悪化させていくことにもなる。

シベリア出兵は第一次世界大戦の日本参戦の延長のようにも思える。アメリカは日本が傀儡政権の樹立などを目指していることを警戒し、共同で出兵することにする。日本にも出兵への慎重論はあったが、アメリカを巻き込むことでこれを納得させた。しかしこの共同行動によって日米は連携を深めるどころか、相互不信をますますつのらせることになる。これは第一次世界大戦での中国における日英関係のそれを繰り返しているかのようだ。

シベリア出兵とその後の行動によって中国での対日感情はさらに悪化していく。そして日本の目的も変質し続け、「不逞鮮人」討伐のためとして朝鮮独立運動家、そしてロシア人にも過酷な弾圧を行うことになる。この地域で高まった反日感情は、後の「ノモンハン事件や終戦時の満州国や朝鮮への侵攻、戦後のシベリア抑留や北方領土問題にも大きくその影を落としていった」(p.154)。
また「パルチザン」との戦いは敵の姿が見えないもので、19年2月には田中支隊394名が全滅するという事態も起こり、「過激派の手に帰する村落は焼棄すべし」という命令が出ることになる。このような「全住民を想定敵とみなして戦わざるをえないシベリア戦争の性格」は日中戦争とも重なるものがあるだろう。

パルチザンが日本軍の捕虜を全員殺害し市街を焼き払ったとされた「尼港事件」は、日本側の生存者がいなかったため真相は不明な点が多かったが、「ボルシェヴィキ=過激派の残虐性を示すものとしてセンセーショナル」に報道された。メデイアを駆使した宣伝もあって反ソ・反共世論が高まり、メーデーでは8時間労働とともにシベリア撤兵の要求もあがっていたが、「「残虐なるボルシェヴィキ憎し」の国民感情が醸成されていった」。これは25年の治安維持法の成立においてソ連への警戒心も影響したこととも関係してくるだろう。


シベリア戦争はその目的も理解されにくかったことから、兵士たちにの間には「厭戦気分が漂って上官への抗命、脱営、脱走などの軍紀の乱れが大きな問題」となった。またソヴィエト軍への同調まで広がり始めたため、早期撤兵を求める声も出ていた。しかし原内閣は、政友会の支持母体の財界の意向を無視できなかった。財界では大戦景気の過剰資本の投資先としてシベリアへの関心が高まっており、財界からはシベリアでの貿易拡大と保護を求める嘆願書が提出されてもいた。
また「こうした財界の意向の他、確たる成果が得られなかったことや田中支隊全滅や尼港事件などの「惨害」を煽ったことによって反ソ・反共感情が国民の間に広がったために撤兵の機会を逸することになった」(p.152)。


シベリア戦争について、「国際法学者・外交史家であった信夫淳平は、こうした多大な犠牲と戦費を支払って得たものは、ただ「涜武の汚名と露人の反感のみである。我国は列強と共々に兵を西比利亜に派駐せしめながら、結局は我国独り露国民の反感を買うの愚に陥った」とし、「わが覇道主義の最も露骨なる表現であった」としているという。

シベリア出兵を決定した寺内正毅は、加藤高明の青島占領や対華二十一カ条について「全中国人の恨みを買っただけ」と評し、一方その加藤はシベリア出兵について「何一ひとつ国家に利益をもたらすことのなかった外交上稀に見る失敗の歴史である」と評したそうである。


三木清はヨーロッパで戦争の傷跡を直接目にするまで、第一次世界大戦がいかなるものであったのかについて真剣に向き合うことがなかった。これは三木一人のことではなく、多くの日本人に共通のことであったのだろう。第一次世界大戦への日本の参戦の経緯やその戦い方は、日本のその後の約30年の予告のようにも思えてしまう。それだけに、第一次世界大戦を遠いヨーロッパの出来事という視点から脱し、さらに向き合っていかねばならないテーマなのであろう。


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佐藤太郎(仮)

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