『ナチズムと私の生活』

カール・レーヴィット著 『ナチズムと私の生活 ――仙台からの告発』




カール・レーヴィットはフライブルク大学でハイデガーに師事し、ハイデガーがマールブルク大学へ移るとその後を追うほどの関係であり、ハイデガーの子どもの子守をするなど私生活においても親しい関係だった。しかしナチスが政権を握るとユダヤ系であったレーヴィットはドイツを追われイタリアへ、さらに九鬼周造の斡旋により東北大学へと逃れる。そして日本がドイツとの同盟を深めていくなか、アメリカへと渡ることになる。

この論文はレーヴィットがアメリカに渡る直前の1940年に募集されたた懸賞に応募するために書かれたものだが、この時は日の目をみることなく、その死後にこの原稿が発見され本書が出版されることになる。

ハイデガーの師であったフッサールはユダヤ人であったし、またレーヴィットやハイデガーの愛人でもあったハンナ・アーレントをはじめハイデガーの周囲にはユダヤ人が多かったが、ハイデガーはナチスに入党し、そればかりかフッサールやユダヤ人の弟子たちの苦境に手を差し伸べるどころか冷酷な仕打ちをしたことはよく知られている。

本書はまずはあの時代のドイツに生まれたユダヤ系知識人の苦難の記録として読める。またそれだけではなく、ハイデガーのナチス加担が政治的にナイーヴな哲学者の世迷い事などではなく、哲学的必然であったことを、ハイデガーの哲学を知り尽くした弟子の立場から告発したものでもある。このような見方は現在では珍しいものではないが(最近ハイデガーの残したノートに直筆で反ユダヤ主義的な書き込みがあったことがわかったが、それを聞いても驚く人はあまりいないだろう)、公表されることはなかったとはいえ1940年の時点でそれを喝破していたことに注目できよう。


ハイデガーは1921年の時点でレーヴィットにこんな手紙を書いている。
「ぼくは、しなければならないこと、自分が必要だと思うこと、ただこれだけをします。そして、これを自分にできるしかたでやります。自分の哲学上の仕事を万人の今日にとっての文化的諸課題に向けてととのえる、ということはしません。ぼくには、キルケゴールの傾向もない。ぼくは、自分の『これこれである』ことと、精神的な・そもそも事実としての・出自とにもとづいて、仕事をするのです。この事実性とともに実存が怒り狂っています」。

レーヴィットは「ここからハイデガーのヒトラーの運動への将来の加担を見とおす人にはだれにでも、歴史的実存のこの最初期の定式化のうちに政治的決断との後年の結びつきの基礎がもう置かれていることがわかるであろう」としている。

「実存の諸カテゴリー(「自分自身へ決意する」、「無の前で自立している」、「運命を欲する」、「身をまかせる」)を勢いよく空転させてドイツ的実存の全般的運動のなかに移し入れ、いまや政治的基盤の上で破壊するのには、まだなかば宗教的で世俗から分離された境涯から抜け出して、「各人独自の」現存在とその<他ではありえないこと>とを、独自の「ドイツ的現存在」とその歴史的運命とへ応用しさえすればよいのである。そういうわけだから、ハイデガーの実存論哲学にカール・シュミットにおいて一つの政治的「決断主義」(Dezisionismus)――これは、各人独自の現存在の「全体でありえること」(Ganzseinkonnen)をそのつど独自の国家の「全体性」(Totalitat)へ譲渡するものである――が照応しているのは、偶然ではない」(p.51)。

ハイデガーが1920年代のドイツの学生に独特の熱心な受容のされ方をしたのは第一次大戦の経験が強く影響しているとされることが多いが、レーヴィットも軍に志願し、負傷して捕虜になるという経験を持つ。
レーヴィットは1923年にニーチェに関する論文で博士学位を取る。
「はじめて『ツアラトゥストラ』を読んでから二七年たったこんにちでも、ドイツ精神の歴史を――かりに終わらせることにでもなったら――ほかならぬこの人で終わらせることしかできまい、――ドイツ革命のおかげで〔かれの説いた〕「危険をおかして生きる」ことの危険性が洞察できているとしても。ニーチェは、ドイツの反理性別名ドイツ精神の摘要であり、いつまでもそうである。深淵がかれを良心のないその告知者から分けている」と、依然としてニーチェを高く評価する。しかし「それでもかれは、自分では歩まなかった道をかれらに切り開いてやったのである」とその危うさを、この時になって痛感している。他ならぬレーヴィットが、戦時中に日記に「航行スルコトハ必要ナリ、生クルコトハ必要ナシ」というモットーを書きつけていた。
「回り道をいくつも通ってではあるがしかしまっすぐに、ニーチェからゲッベルスの勇ましいきまり文句へ通じていることを、否認することはできない」のである(p.10)。

だからこそレーヴィットはハイデガーに魅了され、またその危険性を他よりも比較的早い段階で洞察することができたのであろう。


また本書は次のように書き出されている

「一九三三年のドイツ革命は、〔第一次〕世界大戦の勃発とともに始まった。一九三三年以来ドイツで起こっていることは、すべて、この負けた戦争を勝利に変えようとする試みである。第三帝国は、ビスマルクの帝国が二倍の力を得たものであり、「ヒトラー体制」は、「ヴィルヘルム二世体制」が昂じたものであって、ヴァイマル共和国は、両者にはさまれた幕間劇にすぎなかったのである」。

「一九三三年以来ドイツで起こっていることは、すべて、この負けた戦争を勝利に変えようとする試みである」というのは、第二次大戦後の日本の右派の心情に置き換えることができるだろう。レーヴィットの日本との関わりということを抜きにしても、日本ではこのことも念頭に読まれるべきであろう。

ヴェルサイユ条約は第一次大戦後のドイツの復興を遅れさせヒトラー登場の露払いを務めることになったのだが、日本の右派が憎悪をたぎらせる「戦後民主主義」によって日本が復興を果たすどころか繁栄までしたことを思うと、「戦後民主主義」への呪詛が行動の動機となっているような人物が行政の長にいる日本の現在の政治状況のグロテスクさというものも一層際立つことになるのだが。


なおレーヴィットは1958年に講義のために久々に日本を訪れており、当時の思い出を通訳を務めた訳者の秋間実氏が「訳者のことば」でふり返っている。レーヴィットは休憩中に「どういうつながりであったかは忘れたが、氏が日本語で「紅茶、緑茶、番茶、煎茶、焙じ茶、粗茶、……」と列挙したのがおかしくて」、「そこに居合わせた者すべて大笑いした」という一幕があったそうだ。

プロフィール

Author:佐藤太郎(仮)
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