『慈しみの女神たち』

ジョナサン・リテル著 『慈しみの女神たち』




ローラン・ビネの『HHhH』には本作への言及がある。「第三帝国でもっとも危険な男」「金髪の野獣」などの異名を持つラインハルト・ハイドリヒの暗殺を小説化するためにビネが膨大な資料を集めつつ悪戦苦闘していると、やはりナチスをテーマにし、そして膨大な資料を基にしフランス語で書かれた小説が刊行されてしまったのだ。ビネはその体験をも『HHhH』に取り込んでいる。
ということで読む順番は逆になってしまったが、『慈しみの女神たち』を手にしてみた。

『HHhH』の感想で『慈しみの女神たち』がラインハルト暗殺劇を描いているかのように書いてしまったが、『HHhH』と『慈しみの女神たち』で描かれているものはかなり違うものであった。
『HHhH』はラインハルト暗殺とその前後を徹底してリサーチして描こうとする模様を小説化したものだが、『慈しみの女神たち』は一つの事件を扱ったものではなく、1941年6月から45年4月末まで、つまりナチス・ドイツがソ連に侵攻しウクライナまで攻め入ってから敗戦するまでが主な舞台となっている。地理的にもキエフ、スターリングラード、パリ、アウシュヴィッツ、ベルリンなどを転々としていき、登場人物も虚実合わせて多数に及ぶ。

邦訳には詳細な訳注が付されているが、これを読むだけでもリテルがナチスやその関連事項にどれほどのリサーチをしたかというのが窺えるものとなっている。
とはいえ本作はあくまで小説であり、語り手は架空の人物である。その架空の人物が実在の人物と交際し会話してしまうというのには、当然倫理的な問いも生じることとなる。
史実に着想を得つつも、完全に創作と考えるべきもの、どうしてもやむを得ない部分を想像力で埋めることはあるものの、あくまで史実の範囲内に留まろうとするもの(『HHhH』はそれを極端なまでに突きつめようとした過程を小説にしたものである)など、歴史小説にはいくつかのパターンがある。『慈しみの女神たち』はその中間にあたるものだとしていいだろう。史実を渉猟し、それを小説として活かしつつも、また架空の人物も登場させる。しかし大きな枠としては史実を踏み外すことはない。

本作で語り手を務めるのはマックス・アウエという架空の人物である(モデルとなった人物はいるが)。アウエは法学博士号も持つインテリであるが、ナチス政権誕生後早い段階でSSに志願をしている。本作にも何人か登場するような、サディスティックな欲望にとりつかれた、暴力性を隠そうともしないような人物ではない。一方で小心なインテリが自己保身から時代の流れに同調しようとするのともやや異なる。ナチスのイデオロギーにどっぷりつかりながら、同時にテクノクラートとしての仕事もこなしていく。サディズムに徹し切れなかったゆえに左遷も経験するが、これによって「目が覚める」ことはなく、むしろスターリングラードでの戦いでの負傷から目覚めた後、より適合していくことになる。
収容所の囚人を労働力として使いつつ、皆殺しする、このような矛盾した、狂気としかいいようのない指示を的確にこなすにはどうしたらいいのかを、「現実的」に考える。きっちり9ヶ月で死にいたらしめるためにはどの程度の、どんな栄養価を含む食事を与えたらいいのか、そのようなことは可能であるのか、こういったことをアウエらは議論していく。ナチスがあれだけの規模の大量虐殺を行えたのは、まさにアウエのような人物がいたからであろう。
昼間は収容所で異常な光景を目にしつつ淡々と仕事を行い、夜帰宅すると家でカントやゲーテを読む。残虐性にとりつかれた人間よりも、ある意味ではこういった人物が実際にいたことのほうが衝撃は大きかったとすることもできよう。

アウエのような人物像からは、当然アイヒマンの姿が連想される。そして他ならぬアイヒマンは、本作後半での主要なキャラクターの一人となる。アウエとアイヒマンがカントの定言命法について議論をする箇所があるが、これは後にアイヒマン裁判において登場する話題である。リテルは当然そのことをふまえてアウエとアイヒマンにこのことについて話し合わせたのだろう(明らかにアーレントの『イェルサレムのアイヒマン』を意識している箇所がある)。

もし本作が荒唐無稽な物語であれば、これをフィクションであると誰もが受け流すことだろう。しかし、あたかも実際の手記を読んでいるかのごとくリアリティに溢れているこの作品から、「アイヒマンとはこのような人物だったのだ」という印象を受けてしまう人は少なからずいることだろう。

小説はあくまで小説なのであるが、史実に忠実である分これがあたかも「真実」であるかのように受け取られてしまうというのは、歴史小説にはらまれる倫理的問題である。
リテル自身この問題に無関心だったわけではないのだろう。「凡例」に、「ドイツ語で示されている親衛隊、国防軍の階級名については片仮名でドイツ語の読みを表記し(原著者の要望による)、必要に応じて相当する階級の日本語の名称を〔 〕に入れ、補った」とある。
リテルがドイツ語の読みにこだわったのは正確さを期するためと考えることもできるが、そもそも本作がフランス語で執筆されている、つまりドイツ人たちもフランス語で会話をしていることを思えば奇妙なこだわりにも思えてしまう。おそらくは、「正確さ」の問題よりも、翻訳において(ドイツ語で交わされた会話をフランス語で書くことは、原著からして「翻訳」という面を持っている)違和感を残そうとしたということなのかもしれない。邦訳も字面的には少々不恰好になっている観があるが、これによって読者は没頭をさえぎられ、このことによって本作の虚構性というのを改めて意識することともなろう。


このような倫理的問題については一般論としても僕自身としてもはっきりとした答えがあるわけではないのだが、本作で「ひっかかり」を覚えるのは、むしろ完全な虚構の部分かもしれない。

本作は二重のミステリーになっている。
冒頭で、すでに老年を迎えている語り手は読者に呼びかける。本書全体がこの人物の回想という形式になっている。非人道的行為を重ねながらも訴追を逃れたばかりか、戦後フランス人としてのうのうと生きのびたのはなぜなのか。さらにアウエにまつわるある殺人の疑惑。この二つが最後に溶け合うことになる。

戦争や虐殺が行われている中での殺人事件をめぐるミステリーといえば、日本では笠井潔の『哲学者の密室』や奥泉光の『グランド・ミステリー』、『神器』などがある。笠井や奥泉はこの状況自体を批評的に小説にしているのだが、『慈しみの女神たち』がこのような系譜の作品であるかというとそうではないだろう。

リテルは本作を「小説」としてドライヴさせるために、このような形式をとったのかもしれない。ただ、この「謎」に付随する同性愛や近親相姦という設定や、しばしば挿入される戦況などを反映したアウエの見る性的であったり暴力的であったりする夢は、俗流フロイト風味という印象もしてしまう。

誰がどこで書いていたのか失念してしまったが、ベルトルッチの『暗殺の森』について、ファシズムへの同調者を描くのにその動機を性的なドラウマ体験に帰している時点でお話にならないという批判を読んだ記憶がある。映画を持ち出せば、それこそヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』や、パゾリーニの『ソドムの市』をはじめ、ナチズム、ファシズムと性的倒錯とを関連づけたものは数多くある。これらは確かにナチズムやファシズムに惹かれる人々の心性を描いたものとしてはある種の真実を突いたものであることは間違いないのではあるが、アウエのようなインテリのテクノクラートを語り手にした本作の場合、このような設定を導入することによってむしろ凡庸な印象を強めることになってしまったのではないだろうか。
アウエをもっと「透明化」することによって、同調者である人物が内部から冷徹に観察するという手法を徹底したほうがより効果的であったようにも思えた。

また「訳者あとがき」によると、リテルは長年に渡って本作を断片的に書き続けていたが、大きな転機となったのがギリシャ悲劇の「オレステイア」三部作の構造を導入することを思い立ったことだという。『慈しみの女神たち』というタイトルもこれに由来している。
また映画を引き合いに出すと、ナチスがらみで「オレステイア」というとなんといってもアンゲロプロスの『旅芸人の記録』がある。全編に渡って超のつく長廻しで撮られたこの作品は、手法からして「神話的」であり、ギリシャ現代史を神話的世界に重ね合わせることが完璧に結合していた。
この点でも、本作は手法と主題とか有機的に絡み合っていたとまではいえないのではないかという印象もある。


このように少々厳しく書いてしまったのも、なんといってもSD、SSの将校であるアウエの戦時下の「日常」の描写というのに圧倒されてしまったせいでもある。個人的にはこの方向で徹底して作品を完結させることができれば紛れもない大傑作になったのではないかとも思うのだが、作者としては小説として完成させるためには物語に求心力を生み出さねばならなかったし、それがアウエの性生活であり家族関係であり、「オレステイア」と重ね合わせることだったのだろう。

いずれにせよ、本作を力作と呼ぶことを躊躇する人はいないだろうし、特異な語り手を得たナチスを描いた小説として広く読まれる価値のあるもので、質量ともに読者を圧倒する作品であることにもまず異論はないだろう。



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佐藤太郎(仮)

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