『ゾルゲ事件  覆された神話』

加藤哲郎著 『ゾルゲ事件  覆された神話』




新書であり、このタイトルとくれば本書をゾルゲ事件の入門書であると思われるかもしれないが、そうではない。著者はこのミスリードともとられかねないタイトルをなぜ採用したのかについて「あとがき」で触れている。

本書は『象徴天皇制の起源――アメリカの心理戦「日本計画」』の「延長線上にあり、姉妹編」である。そして「本書も、全く異なる主題ではあるが、私が世界各国の公文書館や図書館で近年収集した史資料をもとにして、ゾルゲ事件についての通説、通俗的イメージに挑戦するものである。そのうち松本清張『日本の黒い霧』により広められた「革命を売る男・伊藤律」については、私の発見した米国陸軍情報部(G2=MIS)「川合貞吉ファイル」も一つの典拠になって、二〇一三年春に、伊藤律のご遺族の抗議により文藝春秋社が「断り書き」を入れた改訂版を刊行することになり、「名誉回復」が新聞・テレビでも報じられた。/本書ではそれを、占領軍民間情報局(GHQ・CIS)ポール・ラッシュの役割を加えて詳述したが、新書のタイトルを敢えて『ゾルゲ事件』とシンプルにしたのは、同題で長く入門書的役割を果たしてきた尾崎秀樹『ゾルゲ事件――尾崎秀実の理想と挫折』(中公新書、一九六三年)の戦前特高警察・裁判記録、戦後米軍ウィロビー報告の作為されたストーリーへの無批判な追従・祖述、それによる冤罪や人権侵害を問題にしたかったからである」。


本書はおおまかに三つのパートに分けることができるだろう。
まずゾルゲ事件の発覚当時から最新のものまで、日本やアメリカ、ロシア(ソ連)などでいかにゾルゲ事件が語られてきたのか(語られてこなかったのか)。
そして上の引用にもあるように、「伊藤律スパイ説」がいかに生じ、長らく信じられてきたのかについて。ここでゾルゲ事件の「生き証人」であもあり、ゾルゲ事件のイメージ形成にも大きな役割を果たしていた川合貞吉こそがGHQのスパイであったことが著者によって突き止められている。
最後に当初尾崎秀実の供述に登場しながらほとんど顧みられることのなかった「鬼頭銀一」という謎の人物の正体の追及である。


本書の肝ともいえるのが「伊藤律スパイ説」の誤りを改めて証明したことだろう。これについて荒っぽくまとめると、特高にとってもGHQにとっても、そして日本共産党にとっても、伊藤の供述が端緒となってゾルゲ事件が発覚し、また伊藤が特高やGHQのスパイでもあったとすることが都合がよかったために作り出され、広く、そして長らく信じられてきたのであった。
死亡説もささやかれていた伊藤が中国で生存しており、帰国したのが1980年のこと。伊藤を投獄させた野坂参三らがとぼけるのは当然かもしれないが、伊藤がスパイ疑惑について無実であることを訴えても、伊藤スパイ説を広めた松本清張や尾崎秀樹はまともに取材すらせずに自説を問い直すこともしなかったのであった。松本はこの「伊藤律スパイ説」以外にも眉ツバな日本近代史解釈が多数あり、それが単なる誤りであったのか、なんらかの意図が働いていたのかについては、この件に限らず批判的に検証されるべきだろう。

鬼頭銀一についても、尾崎秀樹は遺族から手紙を受け取っており、その際にきちんと調査をしていればいろいろと分かったことも多かったかもしれないがそれをすることはなかった。著者は尾崎の怠慢を厳しく批判している。


それにしても改めて伊藤律の生涯のすさまじさというものも感じてしまうのだが、伊藤のみならず野坂などこの時代の日本共産党幹部については、イデオロギー的な断罪や擁護に陥らないきちんとした伝記というのが書かれるべきであろう。


鬼頭銀一は1903年に三重県に生まれ25年にアメリカに渡りそこで共産党に入党、31年に上海で日本の特高に検挙されている。著者は鬼頭は「上海ゾルゲ機関」の有力メンバーであり、30年末にゾルゲと尾崎を出会わせた端緒となったのも、ゾルゲ・尾崎秀実の死刑判決にあるアメリカの作家アグネス・スメドレーではなく鬼頭であったと結論を出している。この鬼頭の存在は判決文からは消えているが、これはゾルゲが意図的に鬼頭の存在を消そうとしたということなのかもしれない。鬼頭は1933年から37年にかけて神戸でゴム製品商をしていたが、その時にも尾崎と交流があった。そして37年には南洋パラオ・ペリリュー島で雑貨店を始めるが、38年に訪ねてきた30歳前後の男にゆであずきの缶詰をすすめられ、間もなく苦悶し息絶えてしまう。「ご遺族は、謀殺ではないかと、今日でも疑っている。その場合、日本軍の憲兵ないし特高の謀略か、それとも「知りすぎた男」に対するスターリンのコミンテルン活動家粛清の余波なのか、南の島の当時の事情はわからない」(p.239)。

なにぶんにも残された資料が少ないので難しいのだろうが、鬼頭銀一の伝記というのも読んでみたくなってしまった。


プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR