『スタニスラフスキー伝』

ジーン・ベネディティ著 『スタニスラフスキー伝』




アレクセーエフ家は新興の富豪であったが成金趣味とは一線を画し、質実剛健な家風でもあった。また当時のロシアの富裕層らしく芸術鑑賞や教育にも熱心であったが、厳しいものというよりも暖かいものであったようだ。コンスタンチンも愛情豊かに育つ。コンスタンチンは勉学にはまるで身が入らず、早く実業の世界に出してくれるよう求めた。これは商業にやりがいを感じたのではなく、憧れの演劇に取組みたいためであった。とはいえ、当時のロシアでは俳優の地位は極めて低く、職業俳優になるなどということは考えられないことであった。

そしてコンスタンチンは、スタニスラフスキーという芸名を名乗り、「メソード」(と本書では表記されている)とその「システム」の確立のために苦闘していくことになる。


革新的なことをした人でも、時代的な文脈から切り離されて突然変異のごとく登場することは稀であろう。スタニスラフスキーの誕生した八ヵ月後の1863年にミハイール・シチェプキンという俳優が亡くなっているが、彼はプーシキンやゴーゴリは彼に「理想的な俳優像」を見出していたという。「シチェプキンは俳優は役の人物の皮膚の中に入りこみ、ものの考え方や感情と一体化すべきだと言っている。そして、俳優は創造のもととなるふたつの要素をもっているという。すなわち自分自身に対する知識人と人生の観察力である」(p.31)。
これはまさに「メソッド」へと発展していく方法論であり、シチェプキンの『ある農奴俳優の思い出』は「自然なスタイルを求めようとする、すべての俳優たちのバイブルとなった」のであり、スタニスラフスキーもこの複製本に「おびただしい注釈を書きこんで」いたのだという。

しかしこの数十年後にスタニスラフスキーが国際的な名声を得るようになるということは、シチェプキンのこの方法論は充分に浸透しなかったことの裏返しでもあろう。そればかりか、スタニスラフスキーも順風満帆な俳優、演出家生活を送ったというよりは、絶え間ない争いの生涯であったとしても言いすぎではないかもしれない。

モスクワ芸術座というとチェーホフとの特別な関係でも知られているが、チェーホフの存命中は演出法をめぐってスタニスラフスキーはしばしば対立をしていた。
またスタニスフスキーが後進の俳優たちの育成に心血を注ぎ始めるのは研究劇場〔スタジオ〕が作られるようになってからだが、これもある意味ではスタニスラフスキーがモスクワ芸術座において「窓際」の地位に追いやられた結果でもある(このあたりの卵が先かニワトリが先かは微妙なところでもあるが)。

また斬新な方法によって名声が築かれると、後継争いや曲解等も避けられないことだろう。ロシア国内においてもスタニスラフスキーをどう評価し、扱うかにおいては意見の対立が見られたが、これが世界的なものとなると独自の(というか好き勝手な)利用も始まることになる。
もっともこれはスタニスラフスキーにも責任がないわけではないだろう。スタニスラフスキーは『芸術におけるわが生涯』という自伝を残しているが、著者はこの自伝の信憑性については要注意だとしている。確かに本書で描かれる執筆の経緯、並びにその方法を読むとそれもむべなることかという感じである。スタニスラフスキーは病気の息子に治療費のために出版社からの要請に応じ、また出版社の意向とはかなり異なるものになってしまったうえに非常に長くなり、締め切りの問題もありやっつけ作業で完成させなくてはならなかった。

またその他の著作も様々な利害関係や革命後のソ連情勢もあり、かなり混乱したものとなる。そしてスタニスラフスキーに直に面会したり教えを受けた人も、その時期ごとに違う印象を持つことになる。その一方で各地で「システム」は完成されたものであるという誤解が広まり、また自分こそが「メソッド」の真の理解者だと考える人間も出てくる。
ニューヨークのアクターズ・スタジオでの指導で名高いリー・ストラスバーグは、ステラ・アドラーから「あなたは「感情の記憶」の機能を誤解してきた」と指摘される。すると「ストラスバーグは怒って、新しい「身体的行動の方式」を拒否し、アドラーが言われたことを誤解したか、そうでなければスタニスラフスキーが自分を裏切ってしまったかのどちらかだと断言した。とにかく、彼はこれまでに発展させてきた「システム」の解釈を修正する意思はまったくなかった」のであった(p.421)。

「スタニスラフスキーは、一貫性というまちがった観念にもとずいて、そうした教義の純粋性にこだわること自体を奇妙なことと思ったに違いない。彼は自分の考えを変えることを決して恐れなかった」(p.422)。

スタニスラフスキーはすでに捨てた練習課題を目にすると、「どの馬鹿がこんなことを考えたのか」とまで言ったそうである。つまりストラスバーグは「感情の記憶」を誤解していたわけではないが、その後にアドラーがスタニスラフスキーと会った時にはすでにその考えは変化しており、その時の一番新しい考え方に触れたということなのであった。アドラーに誤りがあるとすればそれはスタニスラフスキーの立場が不変だと思い込んでいることであり、それはストラスバーグも同様なのであった。

このようなスタニスラフスキーのやり方はよく言えば柔軟ではあるが、スタニスラフスキーには「過去の実践で得た全ての知識を否定する傾向」まであったとあれば教えを受ける側からすればとまどうことだろう。過去の情報を仕入れていたある女優は「あなたの言うことはまるでわからない」と困惑してしまったそうである。


と、「メソッド」や「システム」に関心のある人にとってもいろいろと興味深く読めることだろうが、演技論などにはそれほど関心のない僕にとってはむしろ19世紀末から20世紀中盤までのロシアという時代を生きた人の記録としても面白かった。

スタニスラフスキーが生まれた1863年といえば、少なからず自由主義の風が吹いていたとはいえまだまだツァーリの威光が強く、1861年に農奴解放令が出されたとはいえ、身分制度はまだまだ強固なものに思えたことだろう。
第一次大戦が勃発した際にはスタニスラフスキーはドイツに滞在しており、敵国に身を置いていたために銃殺を覚悟したそうである。彼を支えたのはファナティカルなものではなく素朴な意味での愛国心であったようだ。スタニスラフスキーは当時の知識人らしく自由主義や進歩主義的な考えからも影響は受けていたが、現実政治についてはノンポリに近かったようである。そしてロシア革命が起こると、この国には変化が必要だという立場からこれを支持することになる。

また面白いのは、スタニスラフスキーやモスクワ芸術座の名声は革命後も衰えることなく世界に響き、1920年代にはヨーロッパのみならずアメリカ公演も行っているが(ストラスバーグもこの公演を見て衝撃を受けたそうだ)、モスクワ芸術座のイギリスでの公演はここからさらに数十年の時を要したそうだ。このあたりの欧米各国での革命後のロシア文化の受容の温度差やその変遷というのも興味深いところである。

スタニスラフスキーは政治に疎く、そのような人物らしく上演が微妙な公演の許可を得ようとスターリンに直接手紙を書くようなこともしている。もちろんこれは失望する結果に終わる。そしてあてのない練習を重ねていくが、スターリンによる粛清が猛威を振るう1930年代に入るとすっかり体調を崩してしまうことになる。

皮肉なことに、新聞の熱心な読者ではあったがその真偽を評価する術をもっていなかったために、「彼は同時代人をつつむ、ますます拡大する恐怖に気づいていなかった」のであり、「世間一般のパニックにまきこまれることはなかった」(p.440)。

スターリンは「国際的に評価のある芸術家や知識人」といった重要人物に「孤立させて保護する」政策をとっていた。スタニスラフスキーもその一人で、医師たちはスターリンから指示を受けて面会を管理し、窓が目張りされほとんど密閉状態となった部屋で、「モスクワのど真ん中で国内追放」されたも同然であったのだが、一体何が行われていたのかは気がつかなかったようである。

スタニスラフスキーはあまり身が入らなかったとはいえ実業の世界も経験しており、劇団の経営などに関しては決して浮世離れした芸術家などではなかったのだが、帝政ロシアに回帰したともすることができるスターリニズムに関しては、身体になじみすぎていたのか想像の枠外であったのか、その真の姿を知らぬままに1938年、この世を去ることになる。


考えてみれば日本では戦争末期の貧窮から戦後の混乱の記憶のある人が1990年前後のバブルの時にはまだバリバリ働いていたわけで、このギャップというのもすさまじいが、ナロードニキが皇帝の命を狙うことに駆り立てられ、ついに暗殺を実行した時代の記憶があり、そして革命、レーニンの死、スターリンがトロツキーなどの追放に成功し絶対権力を握り粛清を開始するといった時代までを生きたスタニスラフスキーやその同時代人にとって、この頃の世界というのはどう映っていたのだろうか。


名前の表記が違っているが、最近でたこれは上のシチェプキンの伝記なのかな。これもそのうちに。




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佐藤太郎(仮)

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