『重力の虹』

トマス・ピンチョン著 『重力の虹』




アメリカの大学生に、読んでないけど読んだフリをしたことのある本は何か、といったアンケートを取ると、『重力の虹』が上位に(あるいは一位に)くるというのはおなじみの結果である。
この結果からわかるのは、『重力の虹』がアメリカ文学史においてすでに古典と肩を並べるほどの評価を不動のものとしている作品であると同時に、そうは言われても読み通すのさえ困難なほど難解な作品である、というイメージが実際に手に取っていない人たちにまで広がっているということである。

『重力の虹』を難解にしているのは、一つには「百科全書」が語りを務めているかのような、そのあまりに膨大にして広範囲に及ぶ知の数々にある。「話の舞台は地球の五大陸に及び、歴史的にも、アメリカの形成、宗教改革、地理上の発見にまで遡る。いや実に、地中海に化石が形成される地質学的学問だとか、宇宙空間を渡ってくる「音の影」だとか、語りは常にサイケデリックな連想に開かれている。名前のついた登場人物(生物、物体)は四〇〇超。国籍も相当な数に及び、ニホン語やヘレロ語を含むたくさんの外国語がテクストに乱れ飛ぶ」(「解説」)。

まあとにかく、文化人類学、心理学、精神分析にオカルト、物理学、ロケット工学、熱力学、化学論文の引用から数式が表れるかと思えば映画テレビ番組、オペラ、ポップミュージック、1930年代に流行ったらしきゲームまで。文系理系メインカルチャーサブカルチャーと、もうなんでもござれの雨霰。これだけでもついていくのはもう大変、というか僕のような人間にはまず不可能だ。

そして『重力の虹』の難解さはこれだけにあるのではない。「解説」で訳者の佐藤良明氏は、ピンチョンが<ロケットシティ・サーガ>として5つの作品を書いたらという空想をしている。つまり、『重力の虹』は少なくとも5つ分の長編小説の要素が組み込まれていると考えることができ、さらに中短篇クラスまで含めるといったいいくつの作品を生み出せるのか想像がつかないほどだ。「解説」にピンチョンは『重力の虹』を1971年、34歳の時に「大筋脱稿した――または脱稿不能状態に陥った」とあるように、ピンチョン自身にもこの「怪物」のような巨大な作品を御すことができているのかは疑わしいのかもしれない。

ピンチョンの作品は『メイスン&ディクスン』以降非常に読みやすくなったという見方は一致するところだろう。『重力の虹』を、やはり世界史的作品であり複数の物語が平行して進む『逆光』と比べてみるとその変化がよくわかる。『逆光』も確かにアップダウンの激しい道を歩まねばならず、気が萎えてしまう人もいるかもしれないが、ある程度の忍耐力さえ持っていればゴールにたどり着くことは絶望的というほどではない。しかし『重力の虹』は、超巨大迷路のまっただなかに放り出されたかのような眩暈がするような状況であり、そもそもゴールが存在しているのかどうかすらわからなくなってくるほどだ。

語りの途中でシームレスに視点や場面が飛ぶことがあって読者をとまどわせるように、この状況はかなりの部分はピンチョンが意図して作り上げている。もう少し読みやすくすることも可能であったが、あえてそれをしなかったのだろう。しかしそれと同時に、おそらくはピンチョンにもこの荒馬を十分に御することができなかったという部分もあるのだろう。いくつもの可能性を「馴らす」ことは最早不可能になって、強引に「完成」させたのが『重力の虹』なのかもしれない。

近年のピンチョン作品の「読みやすさ」が、作家としての成熟なのか緊張感の弛緩であるのかは意見が分かれるのかもしれないが、初期短編集『スロー・ラーナー』から『LAヴァイス』まで読み進めてきて『重力の虹』を再訪すると、ピンチョンがストーリーテラーとして「成長」し、馬を十分に御することができるようになっているという印象は強くなる。もちろん荒馬に振り飛ばされそうそうになりながら必死に手綱を握り、同時に綱渡りまでしているかのような『重力の虹』にこそピンチョン的魅力が溢れていると考える人もいるだろうし、このあたりの評価は人それぞれだろう。


前置きが長くなってしまったが、十数年ぶりに挑戦してみて、やはりとてつもない難物であったとい印象を新たにしたし、本訳書に付されている詳細な注と索引がなければ、なんとか迷宮から抜け出せたというところまで来ることも厳しかっただろう(「ゴール」にたどり着けたかは怪しいとはいえ)。ちょろっと言及されていたエピソードが数百ページ後に再開されるなんてこともあるのだが、注がガードレールの役割を果たしてくれていて、崖下に転落という惨事から救ってくれた。「解説」に英米圏のピンチョン読者の「三度読むとわかる」という言葉が引かれているが、余程自分の知的能力に自身があるか、何があろうとも数回通読すると決心している人以外は、佐藤氏の「解説」、木原善彦氏の『トマス・ピンチョン』、そして国書刊行会版の訳者の一人である越川芳明氏の「『重力の虹』あとがき」と同書に収録されている巽孝之氏の「V2・デッドヒート」をあらかじめ導きの光として灯しておくことをお薦めしておく。


『重力の虹』のあらすじらしきものを簡単に書くとこうなるだろうか。
アメリカ軍中尉タイロン・スロースロップは、1944年末のロンドンにおいてもナンパに精を出しているようだ。スロースロップはこの成果を日付入りでロンドンの地図に書き込んでいた。その日付は常にV2ロケットが落ちてくる二日から十日前になっており、この事実は諜報組織「PISCES」から注目を浴びる。スロースロップはこのことを察知し、ナチス・ドイツが撤退を始め「権力」の空白地帯となっている<ゾーン>へと逃亡し、ロケットの秘密を探り出そうとする……

といってもこれは『白鯨』のことを、エイハブ船長が因縁のある巨大な鯨を執念深く追跡する物語とまとめたところで『白鯨』についてほとんど何も語ったことにならないのと同じようなものだろう。すでに書いたように、これに幾重もの物語が凄まじい情報量で塗り重ねられていくことになる。


ナチス・ドイツによるホロコーストがなぜ起きたのかという問いがこの作品の一つの軸になっているのだが、ピンチョンの射程は非常に深い。
『V.』に引き続いて1904年にアフリカ南部で起こったドイツ人によるヘレロ族虐殺が大きく取り上げられている。この虐殺によって示されているのは、民族を「根絶」させるよう国家が命令を下す蛮行がナチスによって初めて行われたのではないということだ。そしてこれはドイツだけの問題ではなく、アフリカで、南北アメリカで、アジアでヨーロッパ人が繰り返し行ってきたことなのである。

「白い」西洋キリスト教社会の暴力性を告発し、「黒い」アフリカ的文明にシンパシーを寄せるというのはそう珍しいものではないだろう。しかしピンチョンは、一方的断罪のみを行っているのでもない。ドイツ人ロケット学者のペクラーは兵器開発を行いながらも、自分のことをノンポリと定義し、「みずから目を閉ざすことで」、ナチスの蛮行に加担していた。「ノルトハウゼンのことも、ドーラ収容所のことも知っていたのに。見ようとすれば、見ることはできたはず――飢え死にした死体、凍てつくような朝の四時の闇の中を作業に向かう外国人囚人の行進も、横縞の囚人服を着て足を引きずる何千もの眼差しも」(下 p.64)。
ペクラーはその後すでに親衛隊の監視もなくなっている、「糞便と死体と発汗と白カビと小便の臭い」の漂う収容所を訪ねる。そして弱々しく横たわる女性の、骨のような手を三十分間握り続け、せめてこれで数度の食事が得られれば、一枚の毛布でも得られればと願い、自分の指輪を外すとその女性に握らせた。

ピンチョンはこれを度し難い欺瞞として描いているのだろうか。そうではないだろう。もちろんペクラーがナチスの支配に加担していたという事実は揺るぐことはなく、このような施しによってその罪が相殺されるはずもない。たくさんの死体と、死にゆく人たちを前に、たかが指輪一つを与えたからといって何になろうか。しかし、ペクラーは少なくとも気付いたのだとすることもできる。もしヨーロッパ人が南北アメリカでの先住民の虐殺に、ヘレロ族をはじめとするアフリカでの虐殺に正面から向き合い、その罪の重さを認めていたならば、はたしてナチスの蛮行は可能だったのだろうか。

『重力の虹』における最大の悪役は、ヒトラーやナチス幹部ではなく、ナチスと深く結びついていた化学企業、IGファルベンとしていいだろう。クルップをはじめとするドイツの大企業がナチスに協力していたことは有名であるが、IGファルベンもその一員であった。ヒトラー一人によって、あるいはナチス幹部のみによってドイツの支配が、そしてあれだけの規模の蛮行が可能であったのだろうか。V2ロケット開発のみならず、あらゆる所に遍在するかのようなIGファルベンはドイツの屋台骨ともいえる存在であり、このような企業が積極的に体制に協力するばかりか、むしろ体制を動かす側であったからこそ可能であったとすべきなのかもしれない。

そしてこれはドイツだけの問題なのであろうか。作中でしばしばGEと米軍との連携についての言及があり、ピンチョン自身が勤務していたボーイングも軍需産業において大きな役割をはたしている企業である。そしてこれら軍需産業の大企業は国境を超えて互いに深く結びつき協力関係にもあった。IGファルベンとGEもむろんそうである。アメリカとドイツが戦争をしながら、軍と深く結び合っている大企業が裏で協力しあっていたのだとしたら、いったいこれは何と何の戦いなのであろうか。ある人物がこう気付く。「両陣営が――「陣営」に別れてもいないのだが――合意の上で進めていた計画の一部にすぎない……」(下 p.235)。

スロースロップはパラノイアにとり憑かれ、また各勢力からスロースロップを追う人々もパラノイアにとり憑かれる。全ては結びついているのか? いったいどこからどこまでが計画されていたものなのか? そしてこのような疑惑を、まったく根拠のないものであると言い切っていいのだろうか。


倫理のカケラもない大企業の資本主義的欲望に全てが絡み取られ、最早あらゆる抵抗は不可能であり、人類はただひたすらディストピアへむけて崖を転がり落ちるしかないのだろうか。
ピンチョンという作家は常に「青い」。人類史における果てのない暴力を見据えながら、シニシズムにとりつかれたり、デスペレートに破壊衝動に襲われることはない。

木原氏の『トマス・ピンチョン』の副題は「無政府主義的宇宙の奇跡」である。この言葉は『重力の虹』の前作、『競売ナンバー49の叫び』から取られている。エディパは「聾唖者のダンス・パーティー」を目撃する。「このダンス・パーティーでは、言葉を話せず、耳が聞こえず、しかも酔っている人々が、互いにぶつかり合うことなくダンスを続け、合図もないのに一斉に休憩に入る」(『トマス・ピンチョン』 p.61)。
「フロアのカップルは思い思いのリズムで踊っている――タンゴ、ツーステップ、ボサノヴァ、スロップ。衝突せずにいるためには、途轍もない音楽的秩序が必要だ。多数のリズムと全音程を同時に織り込み、カップル同士が全員互いにうまく折り合うよう事前に計算された振付けが。この人たちは、健常者が萎縮させてしまった何かの感覚を通して、指示をキャッチしているのだろうか? 若い聾唖者に抱き留められ、足を引きずりながらエディパは、衝突が始まるのを待った。でも誰ともぶつからない。パートナーに振り回されること三〇分、みな一斉に――どうやって合意が成立したのだろう――休憩となった。そのあいだ、お相手の若者以外、誰とも接触していない(『競売ナンバー49の叫び』佐藤良明訳 p.164)。これはまるで「アナキストの奇跡」ではないか。

無政府主義者というのは度外れの楽観主義者だとすることもできる。心底から人間を信じているからこそ、政府など存在しなくても人間は立派にやっていけるのだという信念を抱けるのだから。
しかし奇跡は奇跡だ。それは滅多に起こらないものだからというより、存在しないから「奇跡」と呼ばれるのだとしてもいいのかもしれない。

『競売ナンバー49の叫び』においてエディパが次第に気付き始める「もう一つのアメリカ」はピンチョンの一貫したテーマである。

スロースロップは<ゾーン>において、「木々の一本一本が生き物として、独自の生を歩んでいるし、まわりの出来事もちゃんと自覚している」という「鋭敏さを得」る。実はスロースロップ家は、「代々、木々を殺してカネを得てきた。その身体を根本で切り落とし、叩き切り、挽いてその屑をパルプにし、漂白し、紙にして、その代価を、やはり紙で受け取っていた。「狂ってる」彼は首を横に振る。「おれの一族には狂気が流れている」枝を仰ぎ見る。樹木は静かだ。スロースロップがここにいることを知り、何を考えているかもきっと通じているのだろう。「ごめんよ」と木にむかって、「あいつら、抑えようにも手が届かなくてさ。おれに何ができる?」」(下 p.298)。

スロースロップ家には変わり者の先祖もいた。ウィリアム・スロースロップは息子とともにブタのビジネスを始める。ブタは市場に送り届けられるころにはすっかり痩せてしまい、商売としては割に合わないものであったが、ウィリアムは旅を愛した。「インディアンと毛皮を商う罠猟師と、女たちと、丘陵地の人々との出会いを愛し、とりわけブタと過ごす一日を愛した」(下 p.302)。ブタは民話や聖書ではよくは扱われてはいないが、ウィリアムはブタの中に高貴さと自由とを認めた。しかしブタは最後には屠殺され、帰り道はつらい一人旅となる。ウィリアムはこの経験をもとに『神の見捨てについて』という論説を書くが、ボストンでは発禁、焚書とされた。ウィリアム自身もあやうく火あぶりにされるところだったがなんとかマサチューセッツ湾植民地からの追放でとどまり、落胆を抱えながらイングランドへと帰っていった。ウィリアムは新大陸の思い出につつまれながら、そこで生涯を閉じた(注にあるように、これはピンチョン自身の祖先の話なのである)。


「ウィリアムこそ、アメリカが足を踏み入れなかった道への分岐点、つまりそこで進路を間違えた特異点だったという可能性はあるだろうか? 仮にスロースロップ派の異端が、時を経るうちに支持を集め、栄えたとしたらどうだったろう? イエスの名の下で行われる犯罪がそのぶん減ったり、イスカリオテのユダの名の下で施される慈悲がそのぶん増えたりする展開につながらなかっただろうか? タイロン・スロースロップには、まだ戻る道があるように思えるのだ――チューリッヒで会ったアナキストは正しかったんじゃないか、すべての柵が倒されることが短期間ながらあって、そこではすべての道が同等に開かれ、<ゾーン>全域がクリアされ、極性を失い、すべてが崩れた中から、選良民も棄却民も国家の枠組みもないままに、新たな指針をもたらす座標が現れる」(下 p.304)。


「権力」が空白化された<ゾーン>はかつての「アメリカ」のように、あらゆる可能性を秘めた場所であった。しかしその希望は空しく敗れ去ることになる。大国同士のエゴと政治的思惑のぶつかりあいの場となり、そして現実には、ドイツのロケット技術をめぐって米ソが奪い合いを繰り広げることになる。

1937年生まれのピンチョンは「ビートに遅すぎヒッピーには早すぎた」世代である。しかしピンチョンは、一貫して60年代のカウンターカルチャーに対して好意と共感を持ち続けているように思える。フランス五月革命でもっとも威勢のよかったマオイストのように反動化したり、あるいは居直りの強弁を繰り広げることもなく暖かく見守り続けることができるのは、あの熱狂が敗北に終わることが初めからわかっていたせいなのかもしれない。「奇跡」は実現しないから「奇跡」と呼ばれるのかもしれない。しかし、「奇跡」の存在そのものが忘れ去られれば、真の意味で「奇跡」は存在しなくなってしまう。敗れようともあの理想主義によって、「奇跡」の可能性を揺り起こすことができたのだ、と。

『重力の虹』に次に書き始められたのは、アメリカ建国にまつわる『メイスン&ディクスン』であるが、その仕事をひとまず置いて次に発表されたのが、敗れ去ったかに思われながらどっこい死んでなどいないヒッピーたちを描いた『ヴァインランド』である。


パーソナル・コンピューターというのは「思想」でもあった。コンピューターを大企業や軍に独占させるのではなく、個人が所有することによって巨大な「権力」と対峙することができるようになる。ハッカー文化の多くがヒッピー文化から影響を受けており、スティーブ・ジョブズもその流れに中に置くことができよう。しかしガレージから生み出されたはずのアップルは、最早「ビッグ・ブラザー」の側であり、膨大な情報を収集してはそれを「権力」に明け渡している。インターネットの存在がなければPCがここまでの普及を見せることはなかったのだろうが、そもそもがインターネットは軍事用の技術であった(このあたりについてはピンチョンは『LAヴァイス』で触れている)。何よりもこのようなアイロニーは、『重力の虹』執筆中に頂点を迎えるアポロ計画の技術的中心人物がV2ロケットの開発者のフォン・ブラウンであることによって示されていよう。人類の輝かしい到達点はいったいどのようにして生まれ、利用されていくのだろうか。

所詮はすべてが「権力」と資本主義的欲望に回収されるのであり、抵抗など無駄なことなのであろうか。ピンチョンが「無政府主義的奇跡」の可能性を「もう一つのアメリカ」として描き続けるのは、「青さ」なのか「若々しさ」なのか、はたまた時代から取り残された「愚かさ」なのであろうか。ゴミのように打ち捨てられてきたガラクタども。それは一顧だにしなくても構わない、社会の単なるノイズなのだろうか。

「<世界>の廃物〔ウェイスト〕のどこかに、我らを修復する鍵が潜んでいる。我らを<大地>と我らが自由へと引き戻すための何かが…」(下 p.245)。

ピンチョン作品のエッセンスのような一節であり、そしてこの『重力の虹』はそのピンチョン的世界の扇の要となる作品なのである。


今回『重力の虹』を読んで、ピンチョンの全体像、とりわけ『V.』から『メイスン&ディクスン』までの一本の筋がくっきりと見えてきたように思えたのだけれど、またこのように(ポリティカルな)「メッセージ」に還元してしまうのが「正しい」読み方なのかというとひるんでしまうところでもある。このような「メッセージ」を抽出することはそう難しいものではなく、結局僕自身の個人的な政治的志向もさることながら(ピンチョンの姿勢には共感するところが多い)、ピンチョンを読めていない、わかっていないがゆえにこういった「メッセージ」にばかりすがってしまうのではないかと言われればそうかもしれない。

『重力の虹』にはフリッツ・ラングをはじめ映画への膨大な言及があり、そしてこの作品と映画的イメージとの関連が終わりにかなりはっきりと示されるので、当然そういった観点からも読んでいかなくてはならないのだろうが、このような作業は完全に手に余るもので取り上げなかった。

なんとかかんとか読み終えたとはいえ、やはり己の頭の悪さを痛感させられ自己嫌悪との戦いという面もなきにしもあらずでもあったのだが、しかし例によってピンチョンらしく、映画よろしくミュージカル・シーンもたっぷりあり、カズーの音に合わせてもっと素直に唄い踊るべきで、こういった形で構えすぎてしまうのもどうなのかなあとちょっと言い訳めいた思いもあったりもして。


長くなったついでに国書刊行会版と佐藤訳との比較を少し。


まず国書刊行会版の越川、植野、佐伯、幡山訳の冒頭。

 キーンという音が大空をよぎる。こうしたことは以前にもあったが、今のに比べたら問題にならない。
 もう手遅れだ。<疎開>は今も行われているが、すべては映画のようだ。


続いて佐藤訳。

一筋の叫びが空を裂いて飛んでくる。前にもあった、だが今のは何とも比べようがない。
 いまさら手遅れだ。<疎開>は続くが、ただの見てくれ〔シアター〕でしかない。


国書刊行会版では「映画」となっている所を、佐藤訳では「見てくれ」に「シアター」とルビをふっている。
すでに書いたように結末部で映画との関連が直接的に示されることを思うと、国書刊行会版は辞書的な意味のみならず物語の構造としても円環的な印象を与えるものになっている。一方で佐藤訳があえて「シアター」とルビをふってこの訳語を選択したのは、「theatre」という語の多層的連想を活かそうとしたのだろう。

「V2・デッドヒート」で巽氏はこう書いている。
「『重力の虹』はロケットで始まりロケットで終わる。ロケットによって綿密なまでに合法則化された世界律を心ゆくまで楽しむこと、それだけが本書を読むためのおそらくたったひとつの約束事〔ルール〕である。ただ問題があるとしたら……「ロケット」に関する従来のイメージが人それぞれということだろうか。仮に本書を戦争小説として読むならば、全編を彩る隠喩としての「劇場〔シアター〕」が絶え間なく字義通りの「戦場〔シアター〕」としても機能していくことが理解されるはずだし、さらにこの劇場性の本質が無数の映画作品からの引用によって織りあげられていることを見るならば、本書でいう「ロケット」とはずばり映画フィルムの「スプロケット」ではないかと疑いたくもなる。おびただしい「物語」断片を集積したあげくのはてに一気に炸裂し散乱していく、それ自体ロケットの機能と酷似したメタテクスト」(Ⅱ pp.487-488)。

『重力の虹』はtheatreに始まりtheatreに終わると言ってもいいだろう。冒頭のtheatreは「映画」であり、また同時にこのtheatreは映画/映画館に限定されるものでもない。言うまでもなく、翻訳に絶対的な正解など存在しないのである。ましてそれがピンチョンときたら……


とりあえず『重力の虹』について詳しくしりたいという人はまずはPynchonWikiへ。theatreという単語がが何ページに登場するかもわかっちゃいます。

注釈書としてまずおさえるべきはやはりこれなのでしょう。




なにはともあれ、これにてめでたく「トマス・ピンチョン全小説」は完結……ではなく、「全小説」刊行開始時にはまだ未発表だった『ブリーディング・エッジ』が待っているのです!



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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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