MONKEY vol.4

MONKEY vol.4




特集は「ジャック・ロンドン 新たに」ということで「野生の叫び声」柴田元幸訳の一挙掲載や「どこまでもアメリカ的なジャック・ロンドン」と題された池澤夏樹・柴田元幸対談、「ジャック・ロンドンA to Z」などがある。

「猿のあいさつ」で柴田は『許されざるもの』(辻原登著)やThe Accursed(ジョイス・キャロル・オーツ著)に登場人物として現れ、そして『ダンス・ダンス・ダンス』(村上春樹著)で言及された「振れ幅」の大きなロンドンに触れている。

『代表質問』に収録されている2009年に行われた柴田元幸・岸本佐知子対談では、『火を熾す』について岸本が「ジャック・ロンドンという選択肢は結構意外で、これはもしや「柴田元幸の隠し玉」なのかなあと思ったんですが」と言うと、柴田は「「ジャック・ロンドンは『火を熾す』だけの人かな」と思ってほとんど読んでいなかったんですが(中略)探してみたら、あるんですね」と返している。一方で「最近は、どんどん自分の好みからはずれるようにした方がいいかなと思っています」。「僕が選ぶんだったら、きっとロンドンではなくバーセルミをやろうとなるでしょうね」とも言っている。

このように柴田がここ数年ロンドンを訳しているというのは「意外」なことのようにも思えるのであるが、同時にここまで訳し続けているということは編集者にやってみないかと誘われたからという以上のものもあるのだろうなあとも思いながら、池澤・柴田対談を読んでみた。


ここで柴田は、「僕がジャック・ロンドンについて一番関心があるのは、文章です。ロンドンには書きたいことがはっきりあって、それをいかに効果的に伝えるかという、ある意味とても古風な書き方をした人。どう書くか、そもそも書くことはあるのかといった問題意識から最も遠い人という感じがする」と言っている。
これに対し池澤は「書く以前に体験があった人ですよね」と言い、「僕の印象でいうと、彼の文章は名詞と動詞なんです」としている。「形容詞や形容句に凝ったりしない」このような文書に近いのは神話であり、「特に『白い牙』あたりまでは神話的だと思います」。この頃のロンドンは雑誌を主要な発表媒体としていたため、「彼の文体はどこまでいっても実用的で、持って回ったところのない、いわゆる文学臭ゼロですよね」と語っている。

柴田はこれを受けて「文学臭ゼロという点は、アメリカ文学全体の伝統ということもできると思うんです」とし、マーク・トウェインを引き合いに出している。そして「美文を排する」アメリカ文学というとなんといってもヘミングウェイが浮かぶ。ロンドンもヘミングウェイも共に自身の体験を小説の材料として使うことでも共通点があるように考えてしまうが、ここではむしろ二人の差異に注目している。


柴田 ヘミングウェイの場合は語らないことで何かを浮かび上らせるのが技巧になっていくけど、ロンドンの場合、あくまで文章は書きたい中身に奉仕している。そこがすごくストレート。
池澤 ヘミングウェイはどこかで自己陶酔していると思うんですよ。読み手を差し置いて、俺はうまいと思って書いている。実際にうまいんですけどね。



この後ロンドンが晩年にシンクレア・ルイスから小説のプロットを5ドルで買ってそれを使って書いたことに触れ、柴田は「そういう意味では、芸術家というのは自分のインスピレーションに従って小説を書くものだといった芸術への幻想もなかった人」だとしている。

ここで池澤は「インスピレーションではなく、彼にあったのはアイデアですよ。まずはプロットのアイデアをきちんと、頭の中で整理して、ここからこうやって、こうなって、ここでこう終えるというところまで作ってから書き始めています。ある意味で職人だと思う」と、ロンドンの「職人」的性質に言及している。


村上春樹の連載の「職業としての小説家」の第4回は「さて、何を書けばいいのか?」であるが、この対談で語られたロンドンの「職人」という部分はこれとリンクしているようにも読めなくもない。

村上は「小説家になるためには、どんな訓練なり習慣が必要だと思いますか?」という質問をよく受け、これについて考察している。

まず第一にあげているのが本をたくさん読むこと。読む本の質は問わず、「とくに年若い時期には、一冊でも多くの本を手に取る必要があります」。
そして第二が、「自分が目にする事物や事象を、とにかく仔細に観察する習慣をつけることじゃないでしょうか」としている。「コンパクトな分析」を行ったり「明確な結論を短時間のうちに出す」のではなく(こういった人は小説家ではなく評論家やジャーナリストやある種の学者に向いている)、「サンプルとして、できるだけありのままの形に記憶に留め」、そうして「マテリアルをできるだけありのままに受け入れ、蓄積」し、またそういった「原材料をたくさん貯め込める「余地」を自分の中にこしらえておくこと」が重要だとしている。

ジェームズ・ジョイスの「イマジネーションとは記憶のことだ」という言葉を引用し、「ジェームズ・ジョイスは実に正しい」と語り、スティーブン・ソダーバーグの『KAFKA/迷宮の悪夢』に言及している。「ジェレミー・アイアンズ演ずるフランツ・カフカが、膨大な数の抽斗のついたキャビネットが並ぶ不気味な城(もちろんあの「城」がモデルです)に潜入するシーンがありましたが、それを見て「ああ、これは僕の脳内の構造と、光景的にちょっと通じているかもな」とふと思ったことを覚えています」。

さらにスピルバーグの『E.T.』の中でE.T.ががらくたをひっかき集め通信装置を作ってしまうことにも触れ、「優れた小説というのはきっとああいう風にしてできているんでしょうね。材料そのものの質はそれほど大事ではない。何よりそこになくてはならないのは「マジック」なのです。日常的な素朴なマテリアルしかなくても、簡単で平易な言葉しか使わなくても、もしそこにマジックがあれば、僕らはそういうものから驚くばかりに洗練された装置を作り上げることができるのです」としている。

村上は親の世代のように戦争を、ひとつ上の世代のように戦後の混乱や飢えや、あるいは革命も体験していない自分に何が書けるのだろうか、と考えた時、「これはもう、何も書くことがないということを書くしかないんじゃないか」ということを痛感させられたとしている(もちろん作家のこのような発言を字義通りに受け取るべきかどうかはまた別の問題)。同時に、「「書くべきことがなにもない」というところから出発する場合、エンジンがかかるまではけっこう大変ですが、いったんヴィークルが機動力を得て前に進み始めると、そのあとはかえって楽になります」ともしている。そして反面教師的にヘミングウェイについて触れている。

『ダンス・ダンス・ダンス』以外にも、村上は小説やエッセイでジャック・ロンドンを幾度か登場させている。村上がなぜロンドンに惹かれているのかもよくわからなくもあったのだが、池澤・柴田対談とこの「講演」(という体で書かれている)を読んで少しわかったような気もした。

僕はずっと(どちらかというと否定的な意味合いで)ロンドンをヘミングウェイ的な小説家だと思っていたのだが(ロンドンの方が年上なので逆とすべきかもしれないが)、おそらく村上はロンドンの小説、あるいは生き方の中の違う部分を見ていたのだろう。「アイデア」を確実に形にするための技術と鍛錬に加え、E.T.がそうであったように「ブリコラージュ」的作家でもあり、その「職人」的な面に惹かれているということでもあったのかもしれない。ロンドンの生涯や作家性にはヘミングウェイ的危うさもあり、最終的にはそういったものに負けてしまった作家なのだとすることもできるのだろうが、見ようによっては別の可能性も持っていた(持っている)作家であるとも考えられるのかもしれない。

村上は池澤・柴田対談を読んでからこの原稿を書いたということはないだろうが、この連載は特集などとリンクしているように読めてしまうこともあったりする。ここでもロンドンに言及しているわけではないし、こちらが勝手にそう引きつけて読んでいるだけと言われればそうであろうが。


なんだかんだいって、やっぱりジャック・ロンドンというとその波乱万丈にして悲劇的な最後を迎えた人生にどうしても注目してしまうところでもある。「ジャック・ロンドンA to Z」で紹介されている2010年に出たJack London, Photographerは日露戦争取材時に撮影した朝鮮半島の人や風景を写したものや、サンフランシスコ大地震時の模様などが収められており、写真家としてのロンドンを確認できるものであるようだ。2013年に出た伝記、Jack London: An American Lifeも評価が高いようで、アメリカでもちょっとしたロンドン再評価が起きているのかもしれない。


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佐藤太郎(仮)

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