南北戦争と代替医療

バンヴァードの阿房宮』(ポール・コリンズ著)に、オーガスタス・J・プレゾントンについて扱った「青色光狂騒曲」という章がある。

プレゾントンは青色の光には植物をよく成長させる効果があると信じ(実験で証明されたと思い込む)、そればかりか人体にも効果的で病気にもよく効くのだと主張する。そして青色ガラスを通しての日光浴が治療として行われ、大ブームとなる。これに対し「サイエンティフィック・アメリカン」の社主、編集者、ライター軍団は「青色ガラス狂乱を粉砕すると決意」し、「青色ガラスの欺瞞」と題された記事が載り、これ以降同誌において「公開処刑」が繰り広げられることになる。同誌は青色ガラスの治療効果はプラセボ効果にほかならないと結論づけた。「ここで治療がもたらされる要因は二つある。第一は日光浴の健康効果、第二は患者の想像力の極めて強力な効果である。想像力は身体に様々な影響を及ぼす」。この記事が掲載されたのは1877年のこと、一般的には、またある程度科学的知見のある人にとってはどれほどプラセボ効果という言葉が浸透していたのだろうか。

コリンズはこの記事の紹介に続きこう書いている。
「プラセボ効果に関して言えば、つい十年ほど前の南北戦争時にも、衛生兵たちが、手品に等しいことをやって、痛みや戦争神経症を一時的にではあれ“治療”できることに気づいていた。ドクター・ウィリアム・ハモンドは八百ページ近い大著『医療従事者と患者の関係における狂気について』(一八八三)には、北軍のチャールズ・メイ大佐がこのトリックを使い、「頭の中に鶏ガラが巣食っている」と信じ込んでいた将校を治したという記述がある」。


ここを読んでちょっと前にちょっと気になっていたことを思い出した。
『菊と刀』でおなじみのルース・ベネディクトの伝記、『さまよえる人 ルース・ベネディクト』(マーガレット・M・カフリー著)にはこんな箇所がある。

ルース・ベネディクトの父、フレデリック・フルトンは外科医であると同時に、「ニューヨーク同種療法サークルにおいて(……)将来有望な若者として知られていた」そうだ。

ルースが生まれた1887年頃は「ニューヨークの社会は同種療法意志を歓迎した。それまで行われていた、放血、下剤、ヒソ剤の水ぶくれを破ったりする対症療法医師の治療法よりは、外科治療と新鮮な空気を吸い、休養を取り、適切な食事をし、薬をあまり与えないことを重要視する療法である同種療法医学の方を裕福な人々ははるかに好んだ。同種療法は南北戦争後のアメリカにおいて三つの主要な医学の派閥の一つとなっていて、多くの患者をかかえていた。同種療法は特にニューイングランドと他の大都市に数が多く、影響力があった。そこでは同種療法が従来の医学に代わる医学を求めていた都市部の中産階級の人々にアピールしたのである。一八八〇年代には、ニューヨーク市がアメリカで同種療法の中心となっていた」(pp.20-21)。

19世紀後半になってもまだ「放血、下剤、ヒソ剤の水ぶくれを破ったりする対症療法」が行われており、一方のホメオパシーは「新鮮な空気を吸い、休養を取り、適切な食事」を重視する穏健なもので、当時としては先進的なものと映っていたのだろう。「従来の医学に代わる医学」という言葉を現在目にすると、トンデモなことが広まったように思えてしまうが、当時はむしろ主流の医学の側が依然として無茶苦茶なことをやっていたという側面もあることにも注意しなくてはならない。『代替医療のトリック』におけるサイモン・シンらの立場には僕は基本的には同意するものの、一方でこういった歴史的文脈というものもふまえておかないとホメオパシーをはじめとする代替医療がなぜあそこまで広がり、そして現在に至っても一定の影響力を持ち続けているのかは解明できないだろう(なお『代替医療のトリック』でシンらが強調していたのは医療従事者の側がその権威主義によって患者を欺くことを批判しているのであって、ここを取り違えてはならない)。


またもう一つ注目できるのが、「同種療法は南北戦争後のアメリカにおいて三つの主要な医学の派閥の一つとなって」いたという箇所だ。コリンズの記述と合わせて考えると、アメリカでホメオパシーが一般化した契機の一つに南北戦争があったのかもしれない。南北戦争での死者は第二次大戦での米兵の死者を越える凄まじいもので、心理的な影響は非常に大きかった。医療がただでさえ未発達であったうえに、当然ながら医師も医療品も不足したであろう。こういった状況から、プラセボ効果と自覚していたかいないかはともかくとして、「トリック」や「手品」であっても少しでも症状が和らぐならということで代替医療が広まったのかもしれない。

北米における代替医療受容史というのにはまるで無知なもので、的外れなことをいっているかもしれないが、アメリカ史のある面を考えるうえでちょっと興味深かったもので。


ちなみに若くして亡くなった父についてルースは手術の際に細菌に感染したと語っている。「一八八〇年代は、細菌理論がまだ医学誌上で論議されていたころで、多くの外科医はまだ手袋をしないで手術をしていた」のだそうだ(p.23)。ゴム手袋なしで手術をしていて汚れた針が刺さったということが家族史にあるそうだ。
しかし『北アメリカ同種療法ジャーナル』の死亡記事ではフルトンの病気の記録は異なっている。彼は「「疲れを知らぬ活動」からの過労と、他の仕事をしながら自身の医院の開業準備と診療の中で、「精神的エネルギーがなくなってしまった」」とされていた。つまり「神経衰弱症の犠牲者」と見なされていたようである。

ルース・ベネディクトは『北アメリカ同種療法ジャーナル』の死亡記事を鵜呑みにしてそのまま紹介することはなかったのだが、家族史との食違いをルースがどのように考えていたのか、あるいはアメリカ社会における代替医療へのイメージの変遷というのも調べると面白いのかもしれない。



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