クラウス・プリングスハイム

以前こちらにクラウス・プリングスハイム二世の回想録、『ヒトラー、ゾルゲ、トーマス・マン』について書いた。

内容をざっとおさらいしておくと、プリングスハイム家はユダヤ系ドイツ人の富豪であり、また世界的数学者を輩出するなど、単に裕福なだけではない名士として一目置かれる存在だった。著者の「父」(と括弧をつけるのには理由がある)のプリングスハイムも音楽家で、その双子の妹はトーマス・マンと結婚する。

1930年代初頭プリングスハイムはオーケストラの指導のため招かれ単身日本に渡る。ドイツではヒトラー政権が誕生し、ユダヤ人への迫害は日を増すごとに激しくなっていき、ついにプリングスハイム家の人々も身の危険を感じるようになる。クラウスは父を頼り、日本へとやって来る……


岩波文庫版の清沢洌の『暗黒日記』を読み返していたら、1945(昭和20)年4月16日にこんな箇所があった。


午后、野村生命の重役の椎名君〔幸助、野村生命保険取締役〕が見舞いに来てくれた。かれは「日本人には、ほんとに愛想がつきた」といった。その話によると、その近くにドイツ・ジューがいる。その妻君はトマス・マンの夫人の姉だということだが、それまで、洗足方面はミリタリー・タージェット〔軍事目標〕がないから安心だと防空壕も造らなかった。昨夜、防空壕を探したので、近くの防空壕を紹介した。ところが、その隣組長が、途中で気がついて「毛唐がいる」というので、その二人を追い出した。この二人はオロオロしておったとのことである。


これはプリングスハイム父のことなのではないだろうか。だとすると「妻君はトマス・マンの夫人の姉」というのは誤った情報だが、伝聞ゆえに間違って伝わったのかもしれない。岩波文庫版には人名等に注が付されているが、この「ドイツ・ジュー」と「その妻君」については注はない。ちくま文庫版のほうは未読なのでどうなっているのかわからないが、ここまで合っていてプリングスハイムではないということは考えづらいだろう。

クラウスの回想録はいささか奇妙なもので、日本にやって来たあたりからプリングスハイム家の人々の記述が極端に少なくなり、戦時中父や兄が日本でどのように暮らしていたのかということにもほとんど触れられていない。クラウスには出生にまつわるある秘密があり、それがわだかまりとなってこのような欠落が生まれたのではないかといぶかりたくなるものであった。

それにしてもこの「ドイツ・ジュー」がプリングスハイム父だったとすると、では「妻」とはいったい誰なのだろうか。「妻君はトマス・マンの夫人の姉」という誤った情報が伝わったということは、この「妻」はおそらくはドイツ人なのだろう(妻もユダヤ人であったかどうかはここからはわからない)。プリングスハイム父は日本で新たな家庭を築き、それが息子にとって受け入れがたく、故の沈黙であったのかもしれない……


ということが気になり始めて、『ベルリン・東京物語  音楽家クラウス・プリングスハイム』(早崎えりな著)を手に取ってみた。

こちらの本で上記の疑問はあっさりと解決。プリングスハイム父の妻ララは戦前に二度来日していたという。
「二度目の来日中、終戦の日をはさんで数箇月、軟禁状態にあって日本がいやになったことと、日本語がいっさい話せなかったこと、このふたつの理由から戦後間もなく日本を去る。その後ミュンヘンに暮らし、夫クラウスのいる日本には一度も来ることはなかった。クラウス訪欧のときには必ず会っていたというが、長男ハンス氏によれば、長寿をまっとうしたそうだ」(p.296)。

なんのことはない、この「妻」は本当の妻だったのである。しかしこの事実が判明すると、クラウスの回想録の異様さというものがより一層際立ってもくる。クラウスは『暗黒日記』にあったような辱めにあったことや両親の軟禁状態はおろか、母が日本にやって来ていたことにすら触れていないのである(あまり丁寧には読まなかったものでさらっと触れていたのを読み落としたのかもしれないが、いずれにせよ詳しくは語っていない)。やはり母を許せなかったということだったのだろう。


『ベルリン・東京物語』はもとが雑誌の連載といこともあって、時系列的網羅的なクラウス・プリングスハイムの伝記というよりは、いくつかのテーマに沿って音楽家、音楽教師としてのプリングスハイムに中心的に焦点を当てたものだが、生い立ちからその死までプリングスハイムの足跡がわかるものとなっている。

プリングスハイムの長男ハンスの最初の記憶は、第一次大戦後の混乱が続くベルリンであったそうだが、この頃のプリングスハイムの姿はなかなか興味深い。プリングスハイムは1920年代後半に社会民主党員になるが、これは社民党の機関紙で音楽評を書くようになったという事情が強いようだ。ハンスはこう語っている。「父がとくにきわだって政治参加したということはありません。ただ、保守的な時代にあって、ひじょうにリベラルな家庭に育ち、父自身ひじょうにリベラルな人間であったことは事実です」(p.71)。

プリングスハイムはエルンスト・トラーの戯曲『機械破壊者たち』(1922年)のために『労働歌』を作曲し、この歌は1920年代から30年代にかけて「労働者の集会や労働者劇団で好んでうたわれた」
のだそうだ。それから50年後の1972年、プリングスハイムの未完の遺作となったのは『主題と変奏』であるが、これは「この作品の主題が、あの『労働歌』のメロディに基づいている」のだそうだ。プリングスハイム自身にとっても思い入れのあった曲なのだろう。

その後ベルリンの市立歌劇場の劇場監督への就任を確信していたものの、その短気さが災いしてかこれを逃してしまい、失意の中日本行きを決意する。
1931年シベリア鉄道を使って日本までやって来るのだが、この時期まさに「満州」は極めてきな臭い状況にあった。プリングスハイムはこの旅行記を新聞に発表し、本書にも引用されているが、プリングスハイムは通過してきたソ連の様子にも、満州をめぐる政治・軍事情勢にもほとんど関心を抱いていないようである。「リベラル」とはいっても政治的人間ではなかったようで、このあたりにプリングスハイムの政治性(の薄さ)が表れているのだろう。

プリングスハイムは1940年には佐藤春夫作詞の『興亜行進曲』を作曲する。「リベラル」なはずのプリングスハイムが、よりにもよってユダヤ人を迫害するナチス・ドイツとの連携を深める日本の国粋主義を煽る曲を作るとはなんとも皮肉なことであるが、これは異国の地で生きていくためにやむを得ずやったことなのか、政治意識の低さから深く考えずに作曲したのかは不明である。

プリングスハイムは1934年に『管弦楽のための協奏曲』を作曲した。初演と同時に出版された楽譜に「この総譜に示された交響曲の「第一主題」は「日本的」です」と書いている。この「日本的」という言葉をめぐって日本の音楽家から激しい批判を招くことになり、「反クラウス感情」が生まれ後々まで尾を引くことになる。いずれにせよプリングスハイムが少々安易に「日本的」という言葉を使った感もあるようで、このあたりの慎重さの欠如もプリングスハイムの政治性の薄さを表しているように思えなくもない。

なおこの「反クラウス感情」は「日本的」をめぐる論争のみから起こったわけではなく、「クラウス自身の才能と性格の問題、また当時の音楽界のレベルの問題」なども絡んでおり、実作者であり評論家でもあったプリングスハイムは理論家肌であったが、当時の日本の音楽界のレベルではプリングスハイムの音楽理論についていけなかったという面もあるようだ。本書には1935年の演奏会についての評が引用されており、諸井三郎は「指揮者プリングスハイム氏は理論的指導者であって、音楽的指揮者ではない、彼の指揮は一応の筋道は立つて居るが、吾々を音楽的興奮の内に引込まない」としている。

「かつてクラウスを批判することが多かった批評家のひとり」であった野村光一は、1978年出版の『日本洋楽史』収録の対談の中で、その名も「プリングスハイム再評価」という項にて、「音楽経験の幅広い豊かな人で、実に見事な知識を持ち、それと同時にちゃんとしたオーソドックスな作曲技法も心得ていた人ですよ。つまり、ハイ・ブラウな非常なインテリだね。だからマーラーやシェーンベルクあたりの作曲の手法はもちろんのこと、そういう音楽に対する理解のあった人なんだけど、残念ながらプリさんが第一次大戦後に東京音楽学校の指揮者として招かれた頃には、彼の持っている頭脳を日本では誰も理解できなかったんですよね。それがプリさんを不幸にしたのでしょうね。それほど日本の音楽界の程度が低かったんだろうと思うな」と語っている。


野村が「プリさん」と言っているように、プリングスハイムは「プリ先生」や「プリン先生」と呼ばれていたそうである。なんとも可愛らしい響きであるが、しかし必ずしも親しみやすいといったタイプではなかったようだ。

武蔵野音楽大学でプリングスハイムに師事した保田和夫と菊地俊一へのインタビューでこんなことが語られている。

保田 〔ハンス・〕ヘルナーさんの心温まる逸話というのはたくさんあるけど、プリさんのは少ない。なにしろ、人に好かれるなんてことを考える人じゃなかった。口ぎたなくて、とにかく頑固だった。だけど、時間になるとぴたっと稽古をやめて、にこっと笑う。あの笑顔がよかったな。ものすごく固い人だったけど、ビートルズは素晴らしいと言っていた。ビートルズが出てきた初期の頃だったんだから。プリさんのそういう感覚はすごいと思うよ。作曲の学生なんか、あのガチガチの古典主義者としか思っていなかっただろうけど。新しいものに対する柔軟な姿勢が、あの人にはあったよな。
菊地 ビートルズですか。それはぼくも初耳ですよ。
保田 しかし、そんな人だから、近づきがたくて、彼の個人的な日常については知らないな。英字新聞に批評を書いていたからか、毎晩、演奏会に行っていた。
菊地 ほんとによく行っていた。演奏会に行けば、必ずプリさんに会うんだよな。



この後「トイレが長かった」というプリングスハイムにまつわる愉快なエピソードが語られる。人あたりがいいわけではないものの、どこか憎めないといった感じだろうか。それにしてもビートルズのデビューの年にはすでに80歳近かったプリングスハイムがこれを「素晴らしい」と言っていたというのはなかなかすごい。さすがに「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」や「ツイスト・アンド・シャウト」を聴いてのことではないと思うが、どのあたりを聴いてだったのだろう。


声楽家の室井真一は、インタビューでプリングスハイムとの出会いをこう振り返っている。
「当時、音楽学校の横にきたない練習室があって、わたしは、そこでいつも歌の練習をしていました。ある日、練習室の扉の小さな窓から外国人が覗いていました。少し時間をおいて彼が入ってくると、二、三日前から校内をウロチョロしている新任の外国人指揮者だとわかりました。彼はあまりうまいとはいえない英語で、わたしに尋ねました。『わたしと一緒にオペラをやってみませんか?』 それがわたしとプリングスハイム先生との最初の出会いでした」。

学校での授業は英語とドイツ語で行われていたが、プリングスハイムは当時英語があまりうまくなかったようで、またプリングスハイム自身も英語があまり好きではなかったようだ。英語が下手なせいで嫌いなのか、嫌いであるせいで下手なのかはよくわからないが、後にアメリカへ渡ることを希望し、第二次大戦後数年間トーマス・マンを頼ってアメリカで生活することになるのだが、英語は上達したのだろうか。

室井は学内でプリングスハイムの授業を受けることはなかったが、家でレッスンを受け食事をご馳走になることもあり、その代わりに室井が買い物をしたり外国人登録の手伝いなどもしたそうだ。「先生は、そういった事務的な仕事が大嫌いでした。もちろん最初は、日本語ができませんでしたし……。でも、しばらくすると、不思議な日本語を話すようになりました。買物に行くと、素晴らしく奇妙な日本語で店員とやりとりしていました。ただし、少しでも横文字を理解する人には、絶対に日本語を使いませんでした」。

プリングスハイムは1932年から41年まで、新潟の鯨波を避暑地としていた。定宿としていたのは萩原朔太郎が「海水旅館」という詩にもした「蒼海ホテル」であった。当時外国人から避暑地として好まれた軽井沢や山中湖ではなくなぜ鯨波だったのかというと、室井が新潟県出身でその紹介だったそうである。律儀といえばそうであるが、もう一つに「「ドイツ人社交界」から徹底して身を遠ざけていた」ので、「めったに外国人が訪れることのない鯨波は恰好の避暑地だった」(ドイツ人社交界を避けていたのは性格の問題だけでなくユダヤ系であるせいもあろう。特にナチスが政権について以降はなおさらだったろう)。

本書には浴衣姿のプリングスハイムの写真も収録されており、その表情は仏頂面のように見えなくもない。当時のことを記憶している人の証言によると、鯨波での生活をそれなりに楽しんでもいたようだが、同時に地元の人とは一線を引いていたようでもあり、このあたりもプリングスハイムらしいのかもしれない。


プリングスハイムは晩年を音楽評論家のジャック・K・平野夫妻の家で過ごす。この平野夫妻のインタビューも、プリングスハイムの人柄がよくわかるものとなっている。

郁子夫人が学校か音楽界以外は、家でレッスンをしているか作曲をしているか原稿を書いているかで、ほかには何もしていなかったと振り返っている。

平野 そうなんですよ。どこで息抜きしているのか、何を楽しみに生きているのか、って感じですよね。先生は英字新聞にしょっちゅう音楽批評を書いていましたし、ぼくも書いていたので、音楽会にはよくお供しました。とくに彼自身の音楽会のときは、いつも一緒でしたね。彼はね、自分のやりたい曲は、誰がなんて言おうと絶対にやりたいんですよ。だけど、興行する方は、やっぱり採算が取れるかどうかってことが問題じゃないですか。それで、興行主とけんかになって、降りちゃったこともあるんですよ。音楽至上主義っていうのかな。お金のことなんかまったく考えられない。だから、そういう意味では、だんだん仕事が少なくなったことは事実です。ただ、海外では、たとえば、ベルリン・フィルやチェコ・フィル、イスラエル・フィルなどで、毎年のように指揮していました。その頃、ぼくは新聞社にいましたから、演奏会をするから記事にしてくれ、海外遠征をするから記事にしてくれって、自分から話を持ち込んでくる人はたくさんいたわけですよ。先生は、そういうことをぜんぜんなさらない。


プリングスハイムは戦後間もなくの日本の音楽界の情報を海外に紹介し、彼のおかげで海外で活躍するきっかけをつかんだ日本人も多かったという。また日本に来た外国人演奏家もプリングスハイムが紹介した人が多かったそうだ。

平野は「彼は日本語ができない。だいたい、あの人は日本語を覚えようとはしなかったものね。それで、まあ、たまたまぼくは英語がわかったので、そういう仕事はぼくが引き受けることになったわけですよ」としているが、平野が「横文字を理解する人」だったので日本語を使わなかったのだろう。
平野夫妻はプリングスハイムが「ひとことも日本語をお話にならない」と思っていたようで、平野夫妻の息子がまだ小さかったとき、「息子がストーブで火傷するといけないからって、「アッチチ、アッチチ、コレ、ダメネ」って一生懸命息子に教えていらっしゃるんですよ」と、これを例外的なエピソードであるかのように振り返っている。室井の言っていた「素晴らしく奇妙な日本語」とはこういったものだったのかもしれない。

プリングスハイムは、まだ外貨の持ち出しが制限されていた1960年に平野が始めてヨーロッパに行った際、心配してお金がなくなったら「ミュンヘンの長女のミルカのところへ行くように、スイスだったらカチャ・マンのところへ行けって、みんなに手紙を書いてくれ」たとのことである。

平野夫妻と一緒に住んでいた学舎にカラヤンが訪ねてきこともあるそうだ。またまだ貧しかった時代のこと、外国の音楽家が来ると安上がりだからパーティーは家でやろうということがよくあり、外国の大使を招待するときは警察に届けなくてはならず、「小さな民家の前に、外交官用の黒塗りの車が何台も止まって、警察が警備しているなんてことになるわけですよ。先生も、あの頃はたいして裕福でもなかったのに、自腹をきってよくやっていました」。

平野  〔マーラー協会など〕こうした活動も含めてあの人は、なにもかも損得抜きにやってしまうんです。たとえば、演奏会をしたいけれどお金がないって言えば、ノーギャラでピアノを弾いてあげる。留学したいけれど貧しいという学生には、お金をあげちゃうのです。そんなことをすれば、自分は明日の生活にも困るというのに、おかまいなし。だから、食費をもらって彼の世話をしている家内は苦労しましたよ。
郁子 とっても裕福で知的なご家庭に育って、育ちがいいっていうんでしょうかしら、人を疑うことを知らないんですよ。ほんとに、人間的で親切な人、お金にはとてもきれいで、純粋で、神様みたいな人でしたわ。うちの息子も、ご自分の孫のようにかわいがってくださいましたし。主人がほとんど家にいなかったもので、息子は先生の背中を見てそだったようなものですわ。
平野 子どものことも、他の人にとっては驚きだったようです。誰も、先生が子どもをかわいがる姿なんか想像できなかったんだから。ぼくたちに、子どもができたときには、みんなが、ずっと一緒に住んでいけるかな、って言ったものです。



平野夫妻の息子を孫のように抱き微笑んでいるプリングスハイムの写真もあるが、これを見るといろいろあったものの幸せな晩年であったとしていいのだろうな、という気になってくる。


『ベルリン・東京物語』のもとになった雑誌連載が1990年から93年にかけて、この本の刊行は94年のことである。95年に死去するプリングスハイムの長男ハンスは健康が衰えつつもまだ健在で、本書にも様々な資料を提供している。一方次男のクラウス二世からの協力は仰げなかったようである。コンタクトが取れなかったのか拒まれたのかは不明。クラウスはこの後に自身の回想録を書くことになる。

ピアニストの田中園子は、「次男のクラウス・フーベルトに憧れた女性がたくさんいたわ。彼のあとを、たくさんの女性が追いかけまわしていました」と証言しているが、クラウスの回想録ではこのあたりのモテモテエピソードがないのはまあいいにしても、すでに書いたように奇妙なほど空白だらけないささか奇妙な回想録になっている。『ベルリン・東京物語』には年表が付されているが、「クラウスの経歴に関しては、作品の作曲時期等、まだまだ不明な点が多い」とある(このクラウスは父の方)。本来なら息子のクラウスの回想がこれを少しでも埋めるべきものになるべきであったのに、そうはなっていないのは残念なことだ。

実はプリングスハイムの伝記はこれ以前にすでに一度書かれている。1950年の『日本の幻想』(加藤子明著)である。本書で言及されている『日本の幻想』によると、1943年6月にはプリングスハイムは国内通行証を没収され、45年2月末には敵性外国人として小石川の天守公教会に収容、5月25から26日にかけて行われた空爆で天守公教会が焼けたために日本女子大に移動、7月に田園調布の聖フランチェスコ修道院が収容先となり、そこで終戦を迎えたとのことである。クラウスはこの頃すでに逮捕され刑務所にいたとはいえ、後に父(そして母からも)話を聞いているであろうから回想録に書くこともできたのだろうが、このあたりの出来事についてほとんど書いていない。プリングスハイムは終戦後しばらくは一緒に収容されていた人の野尻にある家に息子ともども身をよせ、冬には東京に戻り、東京音楽学校時代の教え子である藤山一郎の家で過ごしたという。


プリングスハイムの生涯を辿るには大きな空白が二度ある。一度目は1937年から一年半に及ぶタイ滞在である。仕事の見込みがあって行ったようだがそのあてははずれてしまった。ただタイでは後に国王となる音楽好きで作曲もこなすプミポンと、そしてカンボジアのシアヌークとも知己を得たようである。プリングスハイムはタイの伝統音楽を渉猟し、また後に唯一作れた料理がタイ料理であったことからも、タイ滞在は万事快調とはいかずとも、そう失意にかられるものではなかったことがうかがえる。

もう一つが、次男クラウスと共に1946年にトーマス・マンを頼ってアメリカに渡り、数年間過ごした時期である。結局1951年に武蔵野音楽大学に招かれ日本に戻り、亡くなるまで日本で過ごすことになる。この間プリングスハイムが「カリフォルニアで何をしていたのか、手掛かりはほとんどない」という有様で、長男ハンスの手元にある資料に二、三の講演と演奏会のプログラムがあるり、そこからフリーランスの音楽家として仕事をしていたことが推測できる。それにしても共にアメリカに渡ったクラウスがこの間の父の生活についてほとんど書き記していないのはやはり奇妙な印象を受けてしまう。


『ベルリン・東京物語』を読むと日本でもプリングスハイムが1930年代からしばしば新聞記事などで話題となっており、また1960年代までドイツでラジオにも出演していたことを思うと、この波乱万丈の人生を送った音楽家の存命中に生涯を辿るきちんとしたインタビューがなされなかったということが惜しまれるのだが、あるいは誰かが試みたのだが断られたということなのかもしれない。保田和夫が「彼の個人的な日常については知らないな」と語っているように、私生活を明かすことを望まなかったのであろうし、教え子とこういった会話を交わすこともなかったのだろう。自伝を書いていれば出版してくれるところも見つかっただろうに、結局自伝的なものは一切残さなかったということがその答えなのかもしれない。

なおクラウス・プリングスハイムの墓は鎌倉霊園にある。こちらのブログでその写真を見ることができる。


こうなりゃついでだということで、プリングスハイムの妹による『夫トーマス・マンの思い出』も読んでみた。

カーチャが口述したものをまとめたもので、時おり子どもたちもこれに加わっている。
生い立ちにも触れらている。双子の兄のクラウスとは一身同体のように育ったが、クラウスは9歳でギムナジウムに合格、一方カーチャは母方の祖母のヘートヴィヒ・ドームが「著名な女権論者」で女性の教育に熱心だったものの、ミュンヘンには女性の通えるギムナジウムがなかったために家庭で教育を受ける。検定試験に合格し大学に通うようになるが、トーマスとの結婚により学業をまっとうしなかったのは皮肉といえば皮肉なことか。カーチャは基本的には「良妻賢母」型だとしていいのだろう。

ただこの回想もいささか異様に感じられなくもないところもある。トーマスとカーチャの息子のクラウス(クラウスだらけでややこしいが……)は自殺をしているのだが、このことについては触れられていない。もちろん母親としては子どもをこういう形で亡くすのが大変辛いものであることはわかるのだが、口述が行われているのがクラウスの死から約20年を経ていることや、クラウスもまた作家であったことなどを考えと、少しぐらいはという気にならなくもない。

こう言い方はよくないとはわかりつつも、プリングスハイム家の「血」が語りたくないことについては徹底的に沈黙させるようになっているのでは、なんてことがふとよぎってきてしまったが、「プリングスハイム家の血」ということでいうとクラウス・プリングスハイム二世には実はその「血」は流れていないので、もちろん遺伝的にどうこうという問題ではない。


『夫トーマス・マンの思い出』と邦題がつけられるくらいなので、基本的にはトーマス・マンにまつわるエピソードが多くなっている。有名人著名人との思い出話も数多くあり、中でも『ファウスト博士』でマンに協力したアドルノがその後尊大な態度をとったことがこれでもかと暴露されており(いい印象を持っていなかったことは明らかなので差し引いておくべきでもあろうが)、ゴシップ的にもなかなか面白いのではあるが、プリングスハイム家についてはそれほど多くの情報は得られない。

ただ幼少期を含めて写真が多数収録されており、双子の子ども時代の可愛らしい姿など、プリングスハイム家の雰囲気はうかがい知れる。また1960年3月にイスラエルでゴルダ・メイアと映るカーチャとクラウスの兄妹の写真もある。これはクラウスがイスラエル・フィルで指揮をとったときのものだろうか。



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佐藤太郎(仮)

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