『暗黒日記』

清沢洌の『暗黒日記』を久しぶりにパラパラと読み返してみた。2014年に十数年ぶり?に再訪してみると、かつてとはだいぶ違った思いにもになってくる。


1943年2月22日。

「浪花節文化が果実を与えて来た。大東亜戦争は浪花節文化の仇打ち思想である。新聞は「米利犬〔メリケン〕」といい、「暗愚魯〔アングロ〕」といい、また宋美齢のワシントン訪問に、あらゆる罵言的報道をなしている。かくすることが戦争完遂のために必要なりと考えているのだ」。


当時の新聞やラジオが最早報道という体すらなしておらず質の低いプロパガンダとなり、その内容はといえば単なる罵倒と化してしまっていることをよく表しているだろう。


1945年3月11日。

「グルーは明らかに日本の戦力をオーヴァーエスチメートしている。かれは知らぬのではあるまい。警告して、ゆるみを生ぜしめないためであろう。/それにしても、日本人は、口を開けば対手を軽く見ることばかりしており、また罵倒――極めて低級な――ばかりしているが、日本国民に、この辺の相違が分からぬのだろうか」。

駐日米大使であったグルーはあえて日本の軍事力を過大評価することで楽観論を戒めたのに対し、日本ではひたすら低級な罵倒を繰返すのみとしている。

では日本はどうであったのか。1943年12月6日を見てみよう。

「日本が宣伝下手であるという事実が、日本人がアドミットする唯一の弱味である。他は総て日本人が優れていると思っているのに。/我らから見れば、日本人ほど自家宣伝をする国民は他にない」。

日頃日本人の優秀さを喧伝している人間が、宣伝のみが日本人が苦手とすることであるとしていることを清沢は冷ややかに書いている。

さらに1943年12月24日の記述。

「小汀〔利得〕の話し――ローズヴェルトに対し支那は賄賂を二百何十万ドルとかやった。日本はやらなかった。それがかれが反日的な理由だと。かくの如き程度だ、常識は」。

現在でも日本が歴史問題などで世界から「誤解」されているのは韓国、中国ロビーの暗躍のせいであるとする陰謀論があるが、「きれいな日本」と「汚いやつら」、あるいは「お人好しの日本」と「賄賂も厭わない奴ら」といった右派による陰謀論的世界理解の構図はすでに戦時中には出回っていたことは示唆的である。ここ十数年の「ネットウヨ」の登場は全く新しい現象などではなく、むしろ戦前から地続きの右派のメンタリティの表れとすべきだろう。


1944年11月16日。

「床屋での話し――
 第一線から帰った者の話しに、食うものがなくて、人肉を食っている。しかも弾丸で死んだものは、どんな毒が這入っているか分からないから、生きたのを殺して食うのだ。それがために俘虜を殺す。それを大釜に入れて油をぬいて食うというのである。「誰も黙っているが皆やっているんですよ」と自分で話した。それが朝飯の時だったので、飯が不味くなってしまったと話していた」。

「アッツの時にも、誰かがそんな意味の話しをしていた。誇張もあろうが、ある程度まで事実だろうと思う」。

1944年11月には日本兵による人肉食の噂がかなり広まっていたのだろう。
ところが1945年1月8日にはこうある。

「そこへ作田〔高太郎、弁護士〕来たる(衆議院議員)。言論委員会の会長をあてがわれたというので、石橋君の意見を聞きにきたのである。同君は戦争そのものについては非常に楽観的だ。ドイツがウンと頑張る。すでに米軍の損害大だ。比島で対手をグッとやっつければ、米国の人種構成の弱みが出るというのである。彼らはそれで参るという訳だ。この楽観が、なお日本の最大の認識だ」。

すでに戦局は絶望的であったはずなのに、未だにこのような楽観論が、それもエスタブリッシュメント層にはびこっていたというのには、呆れるというよりも恐ろしくなる。

恐ろしさといえば1944年12月9日の記述だ。

「小泉信三氏は慶応義塾長で内閣顧問だ。痩せた。五貫目ばかり減ったが、それでも一貫五百目ばかり最近増えたという。驚いたことは、全く右翼的になったことである。「戦争でどうなっても、米国の奴隷になるよりいい」とかれはいう。「奴隷になるということはどういうことでしょうか」というよ「講和条件にもよるが」という。「この戦争が今后二年も続いたらどうなるか」というと「生活程度が低くなるだけで、戦争はやれる」と答える。戦争始末の処理というようなことは、以ての外だという態度であり、そういうことは考えても罪悪であるようにいうのである。/僕は淋しくなった。小泉氏の如きは最も強靭なるリベラリストだと思った。しかるに今、それがまったく反対であることを発見した。杉森氏に帰途「小泉氏は変った」というと「自己の地位のプロテクションでもあろうが」といった。それにしても大臣待遇とか塾長になれあ、意見が、こうも変るものだろうか。日本人がどうなのか、学者は時の問題に諒解を持たぬのか」。

留学経験も豊富で欧米的教養を身につけていた、「最も強靭なるリベラリスト」であった小泉信三が、戦局の悪化に伴って厭戦的になるどころか「全く右翼的に」なってしまっているのである。

世界中どの国であろうと歴史修正主義者、人種差別主義者といった極右は一定数いるものだが、現在の日本で非常にまずいと思うのは、政治家、官僚、メディアといったエスタブリッシュメント層にこういったものが浸透している、あるいはこういったものに嫌悪感を抱かない人々が多いということだ。こういうと「一部の極端な例を過大に評価しているだけ」というような反応があるが、小泉信三のような人物がこうなってしまったことを思うと、極右的なるものにこれほど「寛容」さが広まっている状況には危機感を持たねばならないはずだ。


1943年6月17日には中国から帰ってきた「谷川徹三君の話し」としてこんな箇所がある。

中国の大学での対日観についてに続いて、「日本内地の神がかり的な言辞は外地では少しも判らず、それは馬鹿にされるのみである。この点は参謀などが一致して認めるところである。しかるに帰朝してみると依然然りである」。

長年中国に滞在している人にとっては、「日本内地」にこれほど「神がかり的な言辞」が広まっているということがよくわかっていなかったのだろう。考えてみれば1943年といっても大正デモクラシーの絶頂期からほんの二十年ほどしかたっていないのである。日本の場合、こういう流れが一度生じると驚くべき速さで「神がかり的言辞」が猛威をふるうようになったという過去を持つ国なのだということは、改めて肝に銘じておかなくてはならない。

そしてこの流れを加速させたのが新聞、ラジオといったメディアである。清沢は繰り返しラジオへの不満を書いている。1943年4月30日にはこうある。

「一、朝のラジオは、毎日毎日、低級にして愚劣なるものが多い。否、それだけの連続だ。昨朝は筧〔克彦〕博士というのがのりとのようなことをやった。最初にのりとを読んで、最後に「いやさか、いやさか」と三称してやめた。ファナチックが指導しているのだ」。

清沢がこの日記中で最も強く非難しているのが徳富蘇峰である。1943年5月1日にはこうある。

「徳富蘇峰、相変わらず英国批評をやっている。その趣旨については論ぜず。ただかれは英国を資格ありや。かれの如き議論は、世界の関心を買わない。徳富が戦争最大の責任者なるはいうを要さない」。

戦争を煽りまくり、楽観論をふりまき続けた蘇峰が、その予見が外れた後も平然とラジオに登場し、したり顔で解説を行い、さらに戦争を煽り続けていることに、清沢は強く憤っている。

現在の日本は地上波のテレビに平然とデマゴーグが出演しているという状況であり、またそれが異常な状況であるという認識がテレビ局内部やその他のメディアにそれほどもたれていないことの深刻さはより強く意識されねばならない。とりわけ地上波のテレビに関わる人はその影響力の大きさに伴う責任に自覚的であらねばならないのだが。


1942年12月12日。

「右翼やゴロツキの世界だ。東京の都市は「赤尾敏」〔代議士〕という反共をかかげる無頼漢の演説ビラでいっぱいであり、新聞は国粋党首〔国粋同盟総裁〕笹川良一〔代議士〕という男の大阪東京間の往来までゴヂ活字でデカデカと書く。こうした人が時局を指導するのだ」。

清沢が長く生き、 笹川良一が戦後に政財界でどんな役割を果たすことになるかを知ったならどんな思いになったのだろうか。
児玉誉士夫もまた戦中と戦後の連続性という面に注目するならば外すことのできない名前である。1944年9月21日では児玉について触れられている。

「今回の戦争で儲けたのは右翼団で、彼らは支那、内地、どこでも鉱山その他の権利を得て、大金を儲けているそうだ。彼らは軍人と連絡があるからだ。その一例として児玉誉士夫という大森区から代議士に立候補した右翼の男――国粋会の何かだ――が今日の『毎日新聞』によると福岡で水鉛鉱山を経営しており、写真入りで紹介している」。

「右翼団」が戦争によって金銭的に利益をあげていることは戦中にはどの程度知られていたのだろうか。清沢は様々なパイプを有していたから知っていたのか、あるいは一般にもある程度広まっていたのだろうか。そして児玉誉士夫という人物は戦中には一般にはどのように認識されていたのだろか。


1943年7月7日。

「昨夜。Book on the Far East, 1934(Kobe Chronicle)の中のH・G・ウエルズのThe Shape of Things to Come を読む。ウエルズは満州事変を出発点として支那と前面戦争になる。日本は支那に三度勝ってナポレオンの如く敗れる。それから日本は一九四〇年に米国と戦争をすることになる。東京、大阪は「危険思想家」の手に帰する。「日本の終わりは始まる」、日本は亡国となるという筋書だ。/ウエルズの予言は実によく当たる。日米戦争の勃発も一ヵ年の相違である。/「将来の歴史家は日本が正気であったかどうかを疑うだろう」ともいっている。面白い書だ」。

ウェルズの予言が的中することになるのだが、「将来の歴史家は日本が正気であったかどうかを疑うだろう」とあるように、中国とアメリカを相手に同時に戦争するという発想は倫理的な問題がどうという以前にまともな判断力を国として失っていたとしか言いようがないだろう。

また1943年7月25日にはこうもある。

「日本人が、進んで災害を避ける積極政策を有し得ざる例は函館の火事によって知らる。函館は何回となく大火を繰返す。しかもこれをプレヴェントする具体策を考究せざるなり(最後の大火 昭和九年三・一一、全焼二万三千六百)・現在の教育による日本人は、断じて時局に関しこれを反省せざるべし」。

函館が大火を繰返していながらその対策を考えることなく同じ過ちを繰り返し続けているということなのだが、清沢としてはこれをこの戦争と重ねずにはいられなかったのであろうし、もちろんこれは現在の日本でも重く響く。


このように様々な点で現在でも(あるいは現在のような状況だからこそ)読まれるべき本であるが、清沢を理想化するのではなく、その限界も含めて読まねばならないだろう。

1943年6月18日にはこうある。

「予は、米国の戦後要求の中には、朝鮮独立という如きはあるまいが(それは合法的に行われたものだから)しかし、国民投票によって帰去を決するというようなことはあろうと話した」。

清沢は韓国併合を「合法的」なもので、日本が負けようとも「朝鮮独立という如きはあるまい」とすら考えていたのである。このあたりは清沢の盟友的存在でもあった石橋湛山が早くから植民地の全面的放棄を唱えていたことを思うと、そういう時代だったのだから仕方がないと済ますことはできないだろう。


1943年1月11日には「インテリに対する反感は、また学問を排する立場である。知らぬものが、知っているものを排撃するのだ」と書いている。このように清沢は日本の将来のためにも教育を重視しており、その点で異論がある人はないだろうが、では清沢の視点に関してはどうだろうか。

1943年10月22日、23日にはこんな記述がある。

「二等車には必ず土木請負人のような野卑な連中が乗っている。第一次世界大戦の時にいわゆる成金は日本を一変させた。今度も同じである。資本主義機構の欠点は確かにそこにある。しかし社会主義化、統制主義化しても別の弊害がある。要は教養の向上のみ」。

「土木請負人のような野卑な連中」という表現は差別的であるとしか言いようがない。「要は教養の向上のみ」というのだが、裏を返すと「教養」のない連中は見下しても構わないという姿勢にもなりかねない。

清沢自身は家柄のいいエリートなどではなく叩き上げの人物であり、あるいはそれゆえにこういった発想に立ってしまいがちだったのかもしれない。また同時に意識されねばならないのが、日記の中で自身も触れているようにそれなりの資産を築いていたことだろう。資産があったからこそ「リベラル」を貫けたという見方ができる一方で、投資などを通して企業との関わりも深かったため財界に対して批判的な視点が薄くなったとすることもできるだろう。

1942年12月14日にはこうある。

「資本家は生産増強の重荷を負わされている。それにもかかわらず、法規で縛られ、統制に服して不平満々だ。資本家側が、現時の官僚を赤と呼ぶものが多い。小林一三氏がそうであり、半沢玉城がそうだ」。

1943年7月21日にはこうだ。

「ミリタリズムとコンミュニズムの妥合。予はコンミュニズムは封建主義と同じフレーム・オブ・マインドの産物なりとの見解を抱くに久し。この事は、あらゆる方面に見らる」。

また1943年8月20日にもこうある。

「政治もここまで行けば滑稽を通り越して子供の玩具である。彼らは社長を役人化して、宣誓させればそれで能率があがると思っているのである。資本以外はことごとく国家化し、マルクス主義的公式と役人イデオロギーをつき交ぜたものができあがったのである」。

このように清沢は当時の日本の状況を「ミリタリズムとコンミュニズムの妥合」と見なしており、財界人の苦労には言及していてもその戦争協力への批判は見当たらない。
確かに革新官僚や軍の中にはレッセフェール型資本主義を批判し計画経済を志向していた者もいたが、近衛上奏文ではあるまいし、これを共産主義と同一視するのは無理がある。

清沢は「リベラリスト」として有名であるが、ここでのリベラルとは中道左派ではなく自由主義者という意味である。『近代日本の国家構想』(坂野潤治)や『新しい左翼入門』(松尾匡)でも触れられていたように、当時の日本の自由主義者は労働者や貧困層に冷淡であった。清沢は労働運動の側がファシズムに接近したことを嫌味っぽく書いているのであるが、これは労働運動側の愚かさのみで片付けていいものだろうか。労働運動側では自由主義者に期待できないので、「上からの改革」を求めて軍部に近づいたという面もある。しかし清沢には自由主義者が労働運動を向こう側に押しやったのではないかという反省や後悔はなかったようだ。

河合栄治郎もまた悲劇のリベラリストとして記憶されている。河合も当初は共産主義・社会主義を第一の敵とみなし攻撃していた。河合の場合はその後、時期すでに遅しとはいえファシズムとの対決の道を選ぶのであるが、清沢にはこのような展開は訪れなかったようである。

清沢はこの日記においてもしばしば尊皇の言葉を書いており、現在から見ると清沢自身もファナティカルな天皇主義に染まっていたようにも映りかねず、少なくとも自由主義者の天皇観とは思えないものとなっている。清沢は1945年5月に亡くなるのであるが、戦後まで生きのびていたら、津田左右吉のような微妙な扱いになっていたのかもしれない。すでに触れたように、石橋湛山や河合栄治郎といった同世代の自由主義者と比べてもその保守性が目立つという印象は否めない。


もちろん現在の視点から清沢を断罪せよといっているのではなく、ただ清沢を理想化するのではなくその限界も同時に見つめることも含めて『暗黒日記』は読まれるべき本であろう。





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