『フューリー』

『フューリー』



右も左もわからない新兵が軍隊や戦場にとまどいつつ「成長」を遂げる、濃厚なホモ・ソーシャル感、数的に圧倒的に不利な「正義」の側が創意工夫をこらして戦いを挑む、さらに「正義」の側であっても道徳的には腐敗せざるをえないのが戦争であり戦場である、とこういったあたりは戦争映画においては定番といってもいいだろう。『フューリー』にそういった点での新しさはないし、期待はそこにあったのでもなかった。

なんといってもこの作品において語られるであろうことがリアルな戦闘シーンだろう。『プライベート・ライアン』によって戦争映画は全く新たな段階に足を踏み入れたのであるが、その『プライベート・ライアン』と何かと比較されている。
ただ結論からいうと、『プライベート・ライアン』と比べると数段落ちるという印象であった。

『フューリー』は1945年4月が舞台となっている。連合国の勝利は目前となり、逆にいうなら連合国の兵士たちは勝つことよりも自身が生き残ることに意識が向かっている状況でもあろう。
『プライベート・ライアン』では激戦となったオマハ・ビーチでの戦いをくぐり抜けた後に、軍事的にはさして意味のない、象徴的な作戦を行わなくてはならなくなる。こういったことを考えると、『フューリー』でも「空しい」戦いが描かれるのかと思っていたのだが、軍事的に重要な作戦に従事し、しかも絶望的な状況にあっても「ウォー・ダディ」ことコリアーは任務に忠実であろうとする。この結果最後の戦いに「大儀」が生じてしまい、いわば「普通」の戦争映画、英雄譚となってしまい、あえて45年4月に設定した意味が薄れてしまっている。

また「リアル」(たとえ括弧付きであろうとも)な戦闘が描かれているとされており、確かにその迫力には息を呑むものがあったのだが、大仰な音楽を多様することによって水を差さしている。『ゼロ・グラビティ』も「リアル」さ(こちらも括弧付きではあるが)を追求しているが、その割には音楽や音響が過剰でかえって興をそいでいた。このあたりのハリウッドの「何か加えておかなくては」という強迫観念めいた演出は、日本のテレビにおける過剰な字幕やワイプといった演出と似たようなものかもしれない。別に映画における音楽を全否定しているのではなく、個人的にはこのような「リアル」さを追求する場面ではストイックにいくほうが好みであり、また『プライベート・ライアン』のオマハ・ビーチではまさにそのような演出がなされていたことと比べると残念であった。

この作品の目玉の一つがティーガー戦車を使っての戦車戦だ。ここも確かに迫力があるのだが、途中で唐突にドイツ側の視点がドイツ語のセリフによって挿入されており、これが視点のブレになってしまっているように感じられた。同じくデヴィッド・エアー監督の『エンド・オブ・ウォッチ』でもこの点は徹底なされておらず、そうであるならその前から多様な視点を出していけばいいのに唐突に「中立的」な視点が現れてしまうのはどうも居心地がよくない。とりわけ今回の戦車戦の場合、戦車内部の狭さと視界の悪さ、そして車ほどには小回りのきかないところが兵士たちの緊張感を増し、閉塞感と恐怖心もそれだけ高まることになっているだけに、「客観的」な視点が挿入されることによって効果を減じているのではないだろうか。

一番アレだったのは最後の戦闘におけるドイツ軍の無策無能っぷり。ド素人集団でもあんなひどい戦い方はしないだろうし、リアルな戦闘がどうのこうのというのが全部ふっとんでしまった感がある。

ナイフでの格闘を見ても『プライベート・ライアン』を随所に意識していることは確実であり、間違いなくその影響下にあるのだろうが、『プライベート・ライアン』によって更新された戦争映画を新たな段階にまで高める作品かというとそうではなかった。その分「普通」の戦争映画を見たいという人にとってはとっつきやすくなっているのかもしれないが、これは作品の強さよりも弱さを浮き立たせるものとなっている。



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佐藤太郎(仮)

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