『6才のボクが、大人になるまで。』

『6才のボクが、大人になるまで。』



邦題の句点がちょっとイラっとさせるが(『少年時代』が嫌だったら原題をそのままカタカナでいいじゃん)、作品は素晴らしかった。

リチャード・リンクレーター監督自身の「ビフォア」シリーズやトリュフォーの「ワントワーヌ・ドワネルの冒険」、日本では「北の国から」など、同じ俳優を使って年齢の経過を見せる作品そのものは珍しくはない。しかし12年に渡る歳月を一本の作品で見せてしまうというのはそうあるものではないだろう。これをやりたいと思う人はいるのだろうが、現実にするには様々な障壁がある。そしてこの作品を成功させているのは、そういった困難な試みを実現したものでありながら、過度の野心からは逃れているところかもしれない。
12年という文字通りに超のつく長きに渡る撮影でありながら緊密で一貫したテーマでまとめあげたり、あるいは「リアル」さを徹底して追及してドキュメンタリー調にして当人の経験をそのまま作品に持ち込むことで虚実を転倒させようといったことをやりたくなりそうなものだが、リンクレーターは壮大なことをしつつもまた謙虚でもあるかのようだ。


2000年代アメリカ史という趣もあり、イラク情勢や大統領選挙などが話題にのぼるが、口角泡を飛ばす議論が延々と続けられることはない。テキサスという場所でリベラルであることの困難さもほのめかされるが、これ自体が作品の主要テーマであるとまではいえないだろう。

アメリカの「今」を、その「現実」を描こうとするならば、飛びつきたくなるようなテーマが前景化されてはいない。
母親は思わぬ妊娠から学業を終えることができず、離婚してシングルマザーとなる。まさに貧困化する典型例だが、実家が裕福であることもあって貧困状態に陥ることはない。苦学しながら修士号を取ったところでそう簡単に就職先が見つかるとも思えないが、そのあたりの苦労は描かれない。おそらくはリーマンショックの余波で家計が苦しくなり生活を見直さなくてはならなくなるが、破産の危機にまでは至らない。
父親はミュージシャン志望で腰の定まらない生活を送っていたと思われ、子どもたちから仕事をしてるのかと訊かれてもまともに答えられない有様だった。『アンヴィル』のあのような中年生活を送ることになりそうなものだが、少なくともカネに困ってはいないようである。

ある意味ではリアリティの欠如、一種のファンタジーと化しているのだが、しかし子どもの目から大人の世界をのぞくと、世界というのはこのように映っているのかもしれない。
このように、一人の少年の成長を追うことでアメリカの「今」を、「現実」を描き出そうとした作品であるというよりは、普遍的な成長の記録の物語だとしたほうがいいのだろう。


時の移り変わりを字幕などで説明することなくシームレスに転換していくのだが、個々のエピソードはぶつ切りになっているものも多い。かなり悲惨な状況なのを知ってか知らずかとり憑かれたように唄っていた少女が大きくなって再登場したり、ヒスパニック系配管工との思わぬ再会といったものもあるが、これらは例外的である。

意味ありげに登場したかのような人物が次々とフェイドアウトしていく。これも子どもの世界ではよくあることかもしれない。仲の良かったクラスメイトと、何かトラブルがあったわけでもないのにクラス替えをしたというだけでなんとなく疎遠になってしまいそれっきりという経験があるが、子どもというのは一つ一つの経験が世界の全てであるかのように思えるほど巨大なものであると同時に、新たな世界のインパクトも大きく簡単に上書きされていってしまうものでもある。後になって振り返ると、一つ一つの出会いや別れが自分にもたらしたものについて感慨を抱いたりもするのだろうが、いざその真っ只中にいると意外と気づかずにあっさりと流してしまうものだ。

最初の年のエピソードの中でメイソンは年上の友人と一緒にスプレー缶で落書きをする。大きくなったメイソンはグラフィティに興味を持つことになるが、当のメイソンがあの時の記憶を持っているのか、あるいは無意識のことなのかは深く追求されることはない。この友人とは引越しの際に意味有りげな別れ方をしているのだが、再会することはなく、それどころか憶えているという描写もなければすっかり忘れているという描写もないのである。

親などから自分が記憶していない小さかった頃の話を聞かされると妙な気分になるものだ。あるいはメイソンも母か姉から昔スプレー缶で落書きをしていたことを聞かされたことがあったのかもしれないし、そうであればなんだか不思議な気分になったことだろう。
我々の趣味嗜好というのは幼少期からのこうした無数の出会いや別れや経験の積み重ねによってできあがっていくのだろう。その一つ一つが大きなものであるのか些細なことであるのかはその時はわからないし、すっかり記憶から消えてしまっていることが自分の生き方を決定づけているということもあるのかもしれない。あるいはそのように思ってしまうのは、事後的に自分で文脈を作り出し手しまっているということなのかもしれない。
この作品全体が、幼少期から思春期、そして大人へとなっていくことを、テーマとしてではなく経験を身体化するという手法で描きだしているかのようである。


このような作品は往々にして「野心」が空回りすることになってしまいがちであるのだが、そういったことからは逃れている。おそらくはメイソンを演じるエラー・コルトレーン自身の体験を撮影ごとに取り入れていってるのだろうが、「リアリティ」を出そうとドキュメンタリー調であったりアドリブを活かそうというものではなく、各エピソードはしっかりとドラマとして作られている。また長大な撮影時間を表そうとあえて退屈な場面を延々と挿入したり、上映時間そのものを長大なものにしようといったことも行われていない(2時間半超えは長いことは長いが、監督によってはもっとすさまじいことをしようと考えたかもしれない)。

これを最もよく表しているのが音楽の使い方かもしれない。確かにその時々の流行の音楽も使われており、「時代」を表す記号としての役割も果たしてはいるのだが、ではビートルズについての言及に必然的な意味があっただろうか。イーサン・ホーク演じる父親はビートルズ世代というわけではないし、テキサスでとりわけビートルズが禁忌となっている、あるいは好かれているということもないだろう。メイソン自身が父親の影響でビートルズ好きになったのかどうかはわからないが、過剰な意味づけは行われてはいない。人との出会いや別れがどのような形でやってくるのかがわからないように、音楽との出会いもそうであろう。このあたりもコントロールフリークによる神経症的なこだわりを感じさせるものではない。
こういった大らかさとというかやわらかさとでもいったようなものは「ビフォア」シリーズとも共通する雰囲気でもあり、この作品もリンクレーターならではの手触りを与えてくれている。


それにしてもこの作品が大きな賭けによって成立していることをよく表しているのがエラー・コルトレーンの外見だろう。もちろん成長に合わせて話を考えていったのだろうが、6歳の頃のエピソードと18歳の時のエピソードとが違和感なく組み合わさせることができている。『シックス・センス』のオスメント君の外見上の軌跡を考えると、よくぞああいう感じに育ったものだと思う。




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佐藤太郎(仮)

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