『ゴーン・ガール』

『ゴーン・ガール』

ネタバレ気味のところもありますので未見の方はご注意を。





原作はベストセラーとなったミステリーであり、作者のギリアン・フリンは脚本も担当している。映画もストーリーテリングで引きつけるものとなっているが、それでもこの作品はやはりデヴィッド・フィンチャーのものだという印象が強かった。

とか言いつつ原作は未読なもので比較はできないのだが、原作は時系列を含め文字通り忠実に映像化するのは難しい構成になっているようだ。日記体や書簡体で書かれた小説を映像化するとたいていの作品は不恰好になってしまうし、この作品も前半部はいささかその気配もあったように感じてしまったのだが、「現在」の出来事と日記を通しての回想が平行して描かれているのは実は……といったあたりはミステリー映画としては巧みなものになっている。

中盤以降はミステリーというよりもサイコスリラーといった趣になっていく。「リアリティ」からは離れていくし、ある意味では「B級」的とすらいえるものになっていくが、これは否定的な意味ではなくむしろこの作品の魅力だろう。エイミーのツバ吐き場面は爆笑ものだし、笑わずにはいられないような出来事がいくつか起こるのだが、フィンチャーはあくまでフィンチャー的映像世界を貫いている。この原作を映像化できるのはフィンチャーしかいないというのではなく、他の監督であったらかなり印象が異なる作品になっていただろう。いかにもフィンチャーといった禍々しさとスラップスティック的笑いとが共存するというのはなかなか新鮮な体験だった。

異質なものの共存といえばキャラクターもそうかもしれない。なんといってもこの作品の勝利はベン・アフレック演じるニックのキャラクターにある。よく言えば人当たりのいい人物、悪く言えばその軽薄さによって人生を渡ってきた人物だろう。あんなところで笑うなよ! とか、消してくれと言う前に気づけって! と、善人か悪人かというよりは「俗人」とでもいったところか。双子の妹は気に食わない兄嫁のカネによって経営されているバーで働いているように、人生がうまくいっていたとは思いにくい。この双子の兄妹は陰と陽の関係にあるが、対立するものというよりは相互依存的な関係にある。これは「俗人」たるニックと、欠落感を抱えたセレブであるエイミーとの関係においてもそうだろうし、二人の関係は物語が進んでも本質的には変化がないとすることもできるだろう。

映画としては前作にあたる『ドラゴン・タトゥーの女』の場合、シリーズ全体がキャラの強烈さが存在のインフレと化してしまう作品だっただけに、一見フィンチャーと相性がいいようでその世界とはいくらか齟齬があったのかもしれない。『ゴーン・ガール』の登場人物の多くが「人間が小さい」のであるが、むしろそれこそがフィンチャーの映像世界とぴたりとはまっていくかのようだった。


もう一点付け加えておくと、『ゴーン・ガール』は女性蔑視の作品だという批判がある。エイミーが古典的ともいえる「妖婦」として描かれていることを考えると、この批判は正しい。一方でこれに反論することも可能だろう。ベン・アフレック監督の『アルゴ』では、身を持ち崩していた主人公が使命に目覚め、英雄として回帰する。物語の「型」を正統にも踏襲した『アルゴ』は観客の感情移入を巧みに誘う作品であり、それだけにマッチョなナショナリズムへと誘導する危うさも持っている。『ゴーン・ガール』ではニックはあくまで「俗人」であり、彼の能力もせいぜいその場しのぎにすぎない。後半にニックは責任ある「男」に、あるいは父性に目覚めていくかのように描かれているが、必ずしも「英雄」となるわけではないし、観客の共感もニックに集中するような作りになっているとまではできないだろう。『ゴーン・ガール』は一人称的に撮られながらも、登場人物を相対化する視点で語られているともできるだろう。

とはいえエイミーの造形が「女性」への悪意の典型例の表象となっていることも間違いないので(「その気にさせる」一方で「虚偽の告発」を計算高く平然と繰返すといったあたりはまさにそう)、エンタメ作品なのだからカタいことを言うなということではなく、そういった面に批判的な視座を持ちつつ受容されるべき作品ではあるとも思う。



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佐藤太郎(仮)

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