『ゴーストと旅すれば』

ジム・ダッジ著 『ゴーストと旅すれば』




『トマス・ピンチョン』(麻生享志、木原善彦編)にはトマス・ピンチョンによるダッジの『ストーン・ジャンクション』の序文が収録されている。こちらに感想を書いた時にはダッジの作品を未読だったもので、ピンチョンがダッジの作品に序文を書くのは意外なことに思われたのかもしれないなどとしてしまったが、この『ゴーストと旅すれば』を読んでみたらあにはからんや、モロにピンチョン好みの作品であった。


「ぼく」は朝起きたときからひどく体調が悪かった。それでも農場に置いてある薪を取りに行かねばならないし、そのための交渉もしなくてはならない。ドラッグを口にしてなんとか車を出したものの、雨の降りしきる中事故を起こして身動き取れなくなってしまう。びしょ濡れのまま途方に暮れていると、通りかかった男が牽引してくれるばかりか着替えまで貸してくれた。謝礼を払いたくとも「ぼく」は金欠状態、そのことを男に告げるとこんな名刺を差し出した。「ゴーストの牽引  人生でできる数少ない無賃乗車のひとつ ジョージ・ガスティン 電話なし 住所不定」。
こうして「ぼく」は、ジョージの奇想天外な話を聞くことになる。


ビートニク的ホーボー精神とヒッピー的利他主義的理想主義の結合ともいえるジョージはピンチョン作品の登場人物であったとしても驚かないであろう。ピンチョンは自らを「ビートに遅すぎヒッピーには早すぎた」としているが、ジョージはビートとヒッピーを繋ぐかのような存在であり、1950年代後半から60年代前半のロックによって両者を架橋しているかのようだ。


「ゴースト」には両義性がある。

「おれが理解してる限りでは(たいしてわかっちゃいないが)、ロックンロールは五九年に終わった。バディ・ホリーとリッチー・ヴァレンスとザ・ビッグ・バッパーがおれの誕生日に飛行機事故で死んだからだけじゃなく、チャック・ベリーがマン法違反をでっちあげられてぶちこまれ、賄賂がらみのスキャンダルが起き、ジェリー・リー・ルイスは十三歳のいとこと結婚しちまった。リトル・リチャードは教会へもどったが、口紅とアイシャドウをつけていたんで、教会側は彼をどう扱ったらいいのかわからなかった。六〇年代初めのアメリカ人の感性からすると、ロックンロールはあまりにも奇妙で始末に負えない、堕落したものになってしまったんだ。それに、“ロックの王様”の退位がある。陸軍から戻ったエルヴィスは、ロックンロールに背を向けて、安っぽいエンターテイナーになり下がってしまった」(p.46)。

このジョージの言葉は二通りに解釈できるだろう。60年代にビートルズやストーンズといったイギリス勢によるアメリカ進出などによってロックがメインストリームに返り咲くのは挫折した革命をやり直す新たなチャンスだったのだとも、既に死んでいるロックの(あるいは精神の)残滓にすぎないのだ、とも。
ジョージの運命を変えることになるのはバディ・ホリー達の事故死、とりわけザ・ビッグ・バッパーの存在である。ジョージも、そして60年代も、両義的な意味で死者たちによって動かされているのである。

ジョージはこうも語っている。ケネディの暗殺が60年代のターニングポイントで、これによって幻滅の時代が始まったとされるが、そうではなかったのだ。確かに幻滅はあったが、その後の展開は予想外のものだったのだ、と。

「おれたちは歴史上で一番特別な世代だった。一番洗脳された世代と言ってもいいかもしれない。おれたちの教えられた歴史は、アメリカの掲げる理想、つまり平等、自由、正義、敬虔なる真実への献身といったすばらしく力強い理想が、つねに勝利を勝ちとってきたという歴史だった。おれたちは、そいつを信じた。そして、こうした理想を実現するには、勤勉さや積極性、冒険心、勇気、自己犠牲の精神、信仰といった有名なアメリカの人の美徳を惜しみなく応用することが必要だということを、おれたちは幼稚園からハイスクールまでずっとたたきこまれてきたからだ」(pp.40-41)。

したがってケネディの死は「殉教」であり、「現実を変えることができる」という信念は揺らぐことはなかった。「黒人が選挙の権利を与えられないでいれば、行って名簿登録の運動をする。インドの人たちが飢えていれば、余剰農産物を送ってやるとともに、農業技術を教えてやる。貧困にあえぐ人たちが、絶望の淵に立たされて圧政者に対して武器を取ったとしたら、彼らは自由を愛するおれたちの援助に頼ることができる。そういうことだ」。

「だが、おれたちは、そうした理想を現実のものにしようとすればするほど、堕落が深く進むということを知った。そして、この理想がすでに望みのない時分たちを裏切る単なるレトリックになりさがったとわかってからも、おれたちはまだ信じていたんだ」。

古い世代はケネディの死が挫折であると感じ、混沌がよみがえってくるのだと考え、嫌気が差してしまっていた。「大きな夢を持たなきゃいかんと育てられた、おれたちの世代はちがうんだが、そのおれたちにしても、そうした夢はいったんもったらしつこく消えないのだということは教えられなかった」。


古い世代は理想を簡単に諦めてしまったとすべきなのだろうか、それとも「おれたちの世代」が、すでに理想が失われた後も、それを直視せずに夢がしつこく消えなかっただけなのだろうか。
「おれたちの世代」としつつも、ジョージは自分をそこに含めていいのかわからないと言う。「まわりが元気づいていくにつれて、おれはしだいに気力が衰えていった」からだ。これはすでにバディ・ホリーたちの死という形で、理想が潰えるということがわかっていたからだろう。

ではジョージが、あるいはこの作品が60年代的な理想主義の欺瞞性を告発するものなのかというと、そうではない。ジョージは死者に導かれ、ある事を思い立ちアメリカ中を走り回る。そして「ぼく」に無私の愛を提供したように、今ではむしろ60年代的、ヒッピー的理想主義を実践しているかのようだ。

「ぼく」が冒頭で朦朧とした頭でドラッグを口にすることで示唆されているように、ジョージの話はすべて「ぼく」の見た夢、幻であったのかもしれない。これは過去の惨めな亡霊〔ゴースト〕の哀れな姿なのであろうか、それとも亡霊たちは、死のうとも我々とともにあり、理想の火を灯し続けているということなのだろうか。


この作品は83年発表であり、90年に発表されることになる『ヴァインランド』のテーマを先取りしている面もある。ピンチョンがダッジを高く評価しているというのも納得の作品であった。
ということで今まで不勉強にも読んでいなかったのだが、ピンチョンファン、とりわけ『ヴァインランド』が好きな方は興味深く読めるものとなっている。

ちなみにこの訳書は91年刊行なのだが、一番気になったのは「訳者あとがき」のこの箇所だった。
ダッジの次作である『ストーン・ジャンクション』の紹介がしてあり、「この作品も福武書店で近刊の予定だ」とある。

う~む、「近刊予定」がいつまでたっても刊行されないというのはままあることなのだが、20年以上前ですよ……。版権が今どうなっているのかはわからないが、どこか出してくれないかなあ。




この作品の原題はNot Fade Away、もちろんバディ・ホリーの歌から取られており、ストーンズのカヴァーでも有名。







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佐藤太郎(仮)

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