『夢を食いつづけた男』

植木等著 『夢を食いつづけた男  おやじ徹誠一代記』




植木等の父徹誠の息子の目を通しての伝記であり、また等自身の自伝としても読むことができる。従って植木等のファンや彼に興味のある人にとっては必読であろうし、またそれだけけでなく大正から昭和というあの時代に、市井にこんな反骨の理想主義者がいたのかという驚きと抜群の面白さを持って読むことができる。

「あとがきにかえて」で本書の執筆者である当時朝日新聞論説委員の北畠清泰が本書出版の経緯について触れている。北畠が原田伴彦の「宗教と部落問題」という論文を読んでいたところ、植木徹誠について述べられており、そこに徹誠の子が等であることも付け加えられていた。徹誠がどんな人物であったのか興味を持った北畠が植木等にインタビューし記事にしたところ読者からの反響が大きく、等や等の妹(つまり徹誠の娘)真澄とその夫で歴史学者の川村善二郎らと徹誠の足跡について調査取材をした結果が本書である。


「自分は部落民ではない、と思うことが、すでに相手を差別しているということだ」と徹誠が考えていたと書かれている。これは部落差別のみではなく、現在でもあらゆる差別問題に通ずることであろう。差別問題が起こると「私は○○ではないがこれはおかしい」という抗議の仕方をする人がいるが、「○○ではない」と言う必要のないことを言うこと自体に(たとえ「善意」で発した言葉であろうとも)差別心が含まれているとするこができる。これについては言うは易し行うは難しで、そう言わないことによって自分が差別されることになるかもしれないという恐怖心もあるだろうし、また「善意」で発した言葉なのに差別が含まれていると指摘されることによって態度を硬化させ、かえって差別に向かうというような例もあったりする。

キアヌ・リーブスが「ゲイ疑惑」についてあえて否定しなかったというエピソードはよく語られる。その理由は称賛すべきものだが、もし自分が有名人のヘテロセクシャルで「ゲイ疑惑」が出回った場合、この態度を貫けるだろうかと想像すると、正直僕には胸をはって大丈夫と言い切れるだけの自信はない。キアヌ・リーブスは強い人なのだろうし、幾度もの逮捕や拷問にも屈しなかった徹誠は比喩的にではなく文字通りに強い人であったのだろう。

と、こう書くと何やら聖人のようなイメージが沸いてきてしまうが、実際の徹誠は破天荒な生涯を送った人で(だからこそあの「強さ」があったともできるのだろう)、これがまたたいそう面白いのである。


「前口上」から長く引用してみよう(以下引用は単行本から)。


昭和五十八年夏、鎌倉の円覚寺で、おやじ植木徹誠について講演する機会があった。さて、演題をどうするか、あれこれ思案したすえ結局、「支離滅裂」とすることに決めた。
 この演題は、われながら良くできていると思う。おやじの人格と人生は、思い返せば確かに「支離滅裂」なのである。
 若い頃、おやじはキリスト教の洗礼を受け、神の下僕となった。ところがキリストとの関係が清算されたのか、はっきりしないまま、僧籍に入り、仏弟子となった。しかもその間、社会主義者として労働運動、部落解放運動の真っただ中に飛び込んでいったのである。真宗僧になってのち、おやじは昼間、お年寄りたちに地獄・極楽を説き、日が暮れてからは若者たちを集めて社会主義革命を説いていたそうだ。思想のうえで、まさに「支離滅裂」もいいところだと思う。
 おやじはまた、日常生活においてもたぶんに「支離滅裂」だった。人間平等、部落解放、戦争反対を主張して、幾度となく検挙され拷問を受けても、おやじは血を流しつつ節を曲げなかった。いつでも、どこでも、おやじは信ずるところを叫んだ。その生き方は無垢な求道者そのものである。
 ところが半面、おやじは決して石部金吉ではなかったし、生身の人間との接触を嫌って人無きところで名言貞説を吐く砂漠の聖者でもなかった。それどころか、プロの義太夫語りになりたいと思いつめて煩悶したり、色恋に涙したりする、いわば蕩児でさえあった。おやじは人生の楽しみを味わい尽くそうとしたと思う。
 この点においても、おやじの生き方は「支離滅裂」だったというほかない。
 しかし人間とか人生とかいうものは、もともと逆説に満ち満ちているものなのだろう。一見豪放な人間が実は非常に繊細であったり、粗野とみえた人間が心底やさしかったりする例は、身辺、枚挙にいとまがない。
 おやじ、徹誠の場合にしても、一見「支離滅裂」な言動に、貧しい、弱い、生身の人間に対する共感、という強靭な一筋の糸が通っていたことを、私は近頃、しみじみ感じているのである。



のちに徹誠と名乗る植木徹之助は明治28年に三重県の回船業者の家に生まれる。子沢山一家で、五番目の子であった徹之助も遊びにいくときは背中に一人、手に引いて二人、弟か妹の面倒を見ていた。ある夏のこと、徹之助少年は一泳ぎしようと波打ち際に二人を寝かせ、一人をおぶったまま海に飛びこんだ。寝かされている子は波にさらわれそうになるし、背中の赤ん坊はアップアップになっている。これを見た近所の人が仰天し、あんなことをしては子どもたちが死んでしまうと親に御注進し、大目玉をくらう。徹之助少年は「ぼくが水に潜っている間は赤ん坊も息をとめていて、ぼくが海面に浮かんでフーッと息をしたら、背中の赤ん坊も一緒にフーッと息をついているものかと思っていたもんで」と答えたそうだ。以降 徹之助少年は浜の松の根本に三人をひもでまとめてゆわえつけて泳ぎに行ったという「マイペース」っぷりであった。
また小学生時代には徹之助、保之助兄弟は学芸会で大人気となったそうだ。この芸達者ぶりは後の人生でも発揮されることとなり、また息子に受け継がれたとすることもできるだろう。


徹之助は小学校を卒業すると、13歳で母方と縁のあった東京の御木本真珠店付属工場で働くことになる。これを創設した御木本幸吉は故郷の偉人であった。
徹之助は東京の工場とその寮での生活にすぐになじんだ。工場も厳しい徒弟制度的というよりは先輩が後輩を指導するといった雰囲気であったようだ。給料は高くなかったものの、風呂食事付きだったのでよく遊ぶこともできた。

徹之助はなかでも義太夫に夢中になり、工場内でも仕事をさぼっては三味線を抱えては唄っていたそうだ。もともと声がいいうえに熱心だったためにみるみる上達していく。ついには植木東響なる芸名を名乗り、コンクールに出て上位に入る。そして徳川夢声が弁士を務める映画館でのアルバイトまで始めるのだが、声で関係者にばれて工場長からお小言をくらってバイトはそれまでとなる。しかし徹之助は女義太夫語りといい仲になり、ついにはプロの義太夫語りになりたいとまで思うようになる。もちろん両親は大反対で、父はそんなことをすれば今後植木姓を名乗ることは許さんと怒り、母は泣き崩れたそうだ。徹之助もこうなってはいかんともしがたく、布団をかぶっておいおいと泣き続けた。家のあっちこっちでおいおい泣く様子は、他の兄弟からするとあわれであり、どこか滑稽でもあったようだ。
後に僧侶になるつもりであった等が芸能人になりたいと言い出すと、「馬鹿野郎。なまいきいうな」と言ったそうだが、それにはこんな過去があったのだった。


徹之助が熱中したのは遊びだけではなかった。工場の寮友会は機関紙を出し、図書室もあった。ここで寮生たちは大杉栄や安倍磯雄、クロポトキンなどの思想書や、キリスト教や仏教といった宗教書を互いに貸し借りしあった。「なんとか主義、なんとか教について講釈できないようでは、思春期の頭脳明晰な少年たちの間で遊んでもらえなかった、という雰囲気だったのだろう」。

御木本は上昇気流に乗っており、工芸界の権威であった小林豊造(小林秀雄の父)を工場長に迎えていた。豊造は労働者の地位向上をはかりしたわれていたようだが、大正7年に退職する。後任には次長が昇格するが、これがすこぶる評判が悪く、ささいなことから工員を解雇したことから不満が爆発し、ついに全面的なストライキに至る。まさに大正デモクラシーの時代、労働者の意識も大きく変り始めていた。

これを収めたのが斉藤信吉という人物であった。経営者の幸吉の弟で、かつて一度工場長を務め、その時は西洋にかぶれと同時に赤穂浪士を理想化するなどいささか珍妙な人物であり、家庭生活の破綻の傷心のため工場を離れ沖縄に渡っていたあの人物が、5年ぶりに別人のようになって戻ってきたのであった。失意の最中に聖書に出会い熱心な信徒となり、工場内にも半ば強引に信仰を広めていった。徹之助もこの時に他の工員とともに受洗したようである。
信吉はピューリタン的ともいえる理想主義を掲げ、工員の待遇のみならず生活も改めようとした。工場は求道的雰囲気に包まれていったが、今になって考えるとこれは「実は労務政策の必要性から作為的にかもしだされた」ということであったのかもしれない。

徹之助はこの頃影響を受ける出会いをしている。沖縄出身のクリスチャン、比嘉加秀が工場に講演に訪れ、半年ほど寮に滞在していた。比嘉は「君たちは、あの世の幸せじゃなくて、今の世の幸せをつかまなきゃ駄目だ」と語っていたそうだ。
そして工員の中には、キリスト教が微温的に思え、社会主義に接近し始める者もでてくるようになる。徹之助も様々な研究会に参加し、その中の「バガボンド会」では「伊藤野枝や、彼女との恋愛で有名なダダイストの辻潤、俳優大泉滉の父、大泉黒石にも会った。伊藤は、すでにこの頃、辻と別れて大杉栄と一緒になっていたが、たまたま辻と同席することがあっても、さすが平然としていたそうだ」。


伊藤は大杉と共に関東大震災後の混乱に乗じて殺害されてしまうことは周知の通りだが、植木一家の運命も関東大震災で大きく変ることおなる。

徹之助はまだ義太夫に熱中していた頃に結婚している。家族からそろそろ身を固めてはという話が出てきて、三重県の西光寺の住職の長女、いさほとの縁談が進む。徹之助はまだまだ遊びたかったようだが、「親戚一同わいわい言って新婦を押しつけた」。徹之助25歳、いさほ18歳であった。結婚して一週間目、二人の新居に三味線のお師匠さんだという女が「あたしって者がありながら、こんな小娘を引っぱりこんで、くやしーっ」と泣き叫びつつ飛び込んできた。後に等がこの話を出すと、父は「忘れた」とひと言いっただけだったという。いさほは「西光寺の嬢やん」といわれており、隣のしゃれた洋館に住むフランス人女性から西洋料理を教わり、花嫁修業もなしに嫁いだいさほはこのフランス人女性からさまざまなことを教わったというエピソードはなんだか朝ドラめいた雰囲気である。

植木夫妻には長男徹が誕生しており、そして次男勉が生まれた4日後、関東大震災が起こる。日比谷公園に避難していた徹之助に、幸吉は「冠が大丈夫かどうか、工場へ帰って確かめてこい」と命じたが、徹之助は「冠みたいなものは潰れたって作り直しがききますが、人間の体ってものは作り直しはきかないんだから、私は嫌です」と拒否した。もちろん生まれたばかりの息子のことなどが気がかりであったこともあろうが、資本家の冷徹さへの反抗という面もあったのだろう。

いさほの母はお産の手伝いにきていたが、この震災で東京は怖いところだとすぐに帰ることにし、いさほも生まれたばかりの勉を抱いて同行することになった。東海道線の各駅では避難者のためにと炊き出しが出ていたが、いさほの母はこれを有料だと思いどうぞと勧められても手にしなかったのだが、いさほがこれはただですよと教えると、両手に持ちきれないほどのにぎりめしを持って西光寺に帰ったそうだ。

御木本の工場は震災の影響で閉鎖となり、一家はしばらく名古屋でうどん屋をしていた弟のもとに身を寄せる。名古屋大学近くで簡単な丼物を出す店だったようだが、「甘辛食堂」といういい加減な名だが、「革命うどん」「改良どんぶり」なんてメニューを出していた。これは弟が左翼的であったというよりも当時の大学生がそういった冗談(?)を好んだ時代であったということなのだろう。


大正13年に再び上京し、腕のいい職人だった徹之助は自宅を工場にして仕事を再開したが、震災後の混乱期に宝石の石止めを作る仕事はそうは舞い込んでこず、生活は苦しかった。にもかかわらず、あるいはそれゆえにというべきか、徹之助はますます社会運動にのめり込んでいく。
治安維持法に反対するデモを行おうと考える。掲げるのはやはり真紅の旗でなくちゃということで家の土釜で染めるが、土釜にも染料が染み込んでしまい、二、三日ごはんをたくとこれまで赤く染まってしまった。なんだか君が悪いご飯だね、と思いながら食べていると、一家みんなお腹を壊してしまったそうだ。

この頃徹之助は上野広小路の夜市で堺利彦や山川均のパンフレットを売り、また自宅を「東京合同」の事務所としてここで勉強会が開き、講師として徳田球一など創設されたばかりの日本共産党の党員がやって来ていた。左翼の大物たちが講師としてくるものだから、自宅周辺にはよく特高が張っていて、これをまくのが一苦労だった。

徹之助は無理がたたり過労と粗食のため肺結核となってしまい、東京を離れ、伊勢や名古屋などを転々とする生活に入る。震災の4日前に誕生した勉が病気で亡くなり、入れ替わるように誕生したのが等であった。等は名古屋で大正15年12月25日に生まれたのだが、出生届の提出を頼まれていた叔父がうっかり忘れてしまっていたために戸籍上は昭和2年2月25日生まれとなってしまっている。両親が名古屋時代の話を一切しなかったために、このいきさつを等は長らく知らなかったそうだ。貧しさに病、子どもの不幸まで重なり、思い出したくもなかったということだったのだろうか。

一家は結局妻の実家の西光寺に戻り、ここで妹の真澄が誕生する。この頃御木本の工場が再開し、かつての工員が呼び戻されているということが風の噂で伝わってきたが、徹之助に声がかかることはなかった。徹之助は東京に未練があり、熟練の腕を活かしたいとも思っていたが、危険思想の持主と敬遠されたのだろう。6,7歳だった長男の徹を散歩させていると、近所の人が「徹ちゃん、どこへ行くの」ときいてくる。徹は「銀座だよ」と答える。御木本の工場で働いていた頃銀座によく散歩に行っていたため、徹は父と散歩に行くことが「銀座行き」のことだと思っていたのだ。鬱屈している徹之助にはさぞ複雑な思いだったろう。


徹之助が部落差別問題と出会ったのはこの頃であった。ある日「未解放部落」で横柄な態度を取っている役所の納税係を見かけた。「君、君。どこへ行ってもそういう態度なのか」ときくと、この役人は「門構えに家へ行けば、自然に態度は変ります」と答えた。徹之助は部落の人たちとともに、こんな人間を寄こすならもう税金は払わないという運動を起こすぞ、と抗議に行く。こうして解放運動に加わるようになり、生涯の友となる西中六松と出会う。
昭和4年、町議選に六松の兄が出馬しこれを応援するが落選してしまう。そしてこの選挙直後に、酒に酔った元県議が部落差別発言をする。六松や徹之助は抗議を行うが、元県議は暴力団を雇ってこれに対抗する。徹之助らはこれに屈することなく、ついに元県議は「謝罪演説会」をすることになる。ところがその演説会の当日、六松と徹之助は罪名のさっぱりわからないまま警察に身柄を拘束される。六松は警察から暴行を受けるが、西光寺の娘婿である徹之助には暴力はなかったようだ。しかしあちこちをたらいまわしにされ、六松は40日で釈放されたものの徹之助はその後も留置されたままだった。腹を立てたいさほは生まれたばかりの真澄をおぶったまま警察に抗議に行き、その10日後に徹之助も釈放される。

堂々たるいさほに対して西光寺の檀家はこれに動揺した。「嬢やんの亭主をいつまで置いておくのか」といさほの父徳月を責め、学校では教師が「西光寺に危険思想の持主がいる」と生徒たちに言った。西光寺は共産党だ、アカだとの大合唱が始まったが、徳月は徹之助に批判がましいことは一切言わなかった。徳月もまた、「差別がまかり通るようなことではいかん」と檀家に説くような人物だった。
徳月も徹之助の思想に共鳴し、徹之助もまた徳月の親鸞主義に影響されていった。こうしてついに徹之助は名古屋の本願寺別院に一年間修行に出て得度し、名を徹誠(てつじょう)と変えることになる。もっとも徳月は長男がまだ15.6歳であったために、娘婿の徹之助を中継ぎにしたいという実際的な理由もあったようだ。


得度したとはいえ妻の実家の居候には変りはない。そんな徹誠に徳月は住職の口を二つ持ってきた。一つは檀家が裕福でその言うとおりにしていれば苦労なく過ごせるところ、もう一つは小さく檀家が裕福とはいえない寺であった。徹誠がどちらを選んだかは言うまでもないだろう。

常念寺は小さな山寺とは覚悟していたが、実際に行ってみると想像を絶するものだった。引越ししようにもトラックが入ることができないため、ひとまず荷物をおろして檀家たちが家財をかついで山道を運ばなくてはならなかった。雑草に覆われた石段が続き、「まるで妖怪映画のセットのようだった」。嵐の日には風雨が吹き込み、子どもたちは「西光寺に帰ろう」と泣いたが、晴れた日には一面に緑が広がり、一家にはしばらく牧歌的な歳月が流れた。

徹誠の信念は変ることなく、本堂で行われる年二2,3回の説教の内容をつきつめると「人間平等」であった。
寺を訪ねてきた檀家に「人間が皆平等で、日本中にある財産を平等に分ければ、あの山にも道がついて、村人の生活も、ずいぶん変わるのだが」と話した。戸主たちには小作人たちに山を売り、小作人制度をなくしてくれとかけ合った。むろんこれを戸主が承諾したことはなかっただろうが、後年徹誠がこの地を訪れると、村の老人たちは「植木さんの方に足を向けて寝られない」と話していた。またよほどの財産家でなければ村会議員に立候補などしないというのが当時の常識であったが、徹誠は「この寒村から村議候補を立てようと主張し、各戸を回って説得をした」。この地域が結束すれば村会議員を二人当選させることは可能だとふんでおり、そして実際に二人を当選させたのであった。

逆に警察がこのような人物を快く思うはずもなく、老若男女が徹誠の演説の会場に向かおうとすると、「あれは説教ではない、共産党の演説会だ」と道を阻み追い散らした。徹誠をしたいながらも警察の威圧によって常念寺へ行きづらくなってしまった人もいたという。

一方でこんなエピソードもある。常念寺時代に、徹誠は日比谷公園での訣別以来久しぶりに御木本幸吉と再会する。寄付を頼みに行ったのだが、実際には強要に近かったようでもある。幸吉のほうもこれに応じた。たとえ気に食わない思想であっても、天下国家のためとわらばそれを軽侮したり揶揄することはなかったという時代の空気があったのかもしれない、と等はしている。「幸吉は、私のおやじが僧衣をまとうようになったいきさつを深いところで理解していてくれていたと思う」。戦後、
徹誠は、仕事場にマルクスの肖像でも飾っていそうなものだが、幸吉の肖像写真を飾っていたそうである。

幸吉と徹誠との関係はどこか後藤新平と大杉栄のそれを思わせるところもある(すでに書いたように徹誠は伊藤野枝とも面識があった)。また大杉も人間的魅力にあふれ、思想を異にする人からも一目置かれた。同時にこういう人にありがちなように、よく言えば豪放磊落で奔放、悪く言えば自己中心的で身勝手な面もある。下半身事情という点では大杉も徹誠も褒められたものではない。そしてこういう人物は、他人からすると魅力的であっても身内にすると辛いものでもある。

等は理不尽としか思えない怒られ方をしたことを憶えている。自転車を買ってほしいとねだると徹誠はこれにすぐに応じてくれて、ボロボロの中古とはいえ買ってくれた。等は足がペダルに届かなかったので「三角乗り」の練習をする。徹誠から乗れるようになったかときかれたので「まだ三角乗りしかできない」と答えると、「一日かかって練習して、たったそれだけしかできないのか。この情けない奴は」と言って自転車ごと等を石段の上から突き落としたということがあった。後になぜあんなことをしたのか、よほどいらいらしてたのか、こんな倅生まれてこなければよかったとでも思っていたのかときくと、「ニヤッと笑っただけで、何もいわなかった」そうだ。

当然ながら一番苦労したのは妻のいさほだろう。「「おやじが、いくら革命だ、主義だといっても、所詮、彼も時代の子、明治生まれの男である。そしてその時代の気風は、男女同権などとはまるで無縁だった」。
真澄は自分は手をあげられることはなかったものの、母が徹誠から髪の毛をつかまれて引きずられていたことを憶えており、この点では絶対に許せないと言っていた。等も母の死後に徹誠が「あいつは馬鹿だったから」と口にしたのを耳にし、「何が人間平等だ」と反発した。もちろん徹誠の男尊女卑的傾向は否定できないものである。しかし等は最近になって違う思いにもかられてきたともしている。徹誠は同時にいさほを「あれは本当に竹を割ったような気性だった。曲がったことのできない生一本な人間だった」とも語っていた。お寺の「嬢やん」として育ったプライドや負けん気も強かっただろうし、苦労のし通しでなぜこんな人と一緒になったのかという後悔もあったことだろう。それでも不器用にも耐えている妥協のない姿が、「おやじの目には「馬鹿」とも「生一本」とも映ったのかもしれない」。
兄妹は母を殴っていた父に対するわだかまりをずっと持ち続けていたが、等は本書の取材のためにゆかりの人々を訪ね歩くうちに、それがいくらか溶けていった。

徹誠の「闘友」であった西中六松は「植木さんの家は、かかあ天下だった」としているのである。「植木さんも、いさほさんには、ぼろくそにやられていたな」とまで。
「いさほさんは植木さんにきついこと言ってましたよ。自分の家の者も食べさせられない人間が、世の中の貧しい人間に食を与えよなどと、何を思い上がったことを言っているのですか。それじゃ、うかがいますがね、うちの家族は食べられているのですか。賽銭箱からいくばくかをくすねているような人が、人のために尽くす献身をするのと、まあ、あきれたもんだ。いさほさんがこんなことをぽんぽんいうと、植木さんはグーの音も出ない」。

「六さんからこの、この話を聞いた時、私も真澄も大笑いした。ああ、きょうは何といういい話を聞いたことだろう。そう思った。暴君だとばかり信じていたおやじが、おふくろにやり込められている姿を想像して、私たち子どもの心が、バランスを回復したわけである」。

いさほは家宅捜索に来た警官が土足のまま上がり込もうとすると、「靴を脱ぎなさい」と叱りつけるなど、「お寺の奥さん」の武勇伝は有名であった。もちろん現在の価値観からすると徹誠のいさほへの行為はいかなる理由があろうとも正当化できるものではないが、当時としては似合いの夫婦と映っていたのかもしれない。


こうして植木一家は貧しいながらも幸せな時を送ったのかといえば、それは時代が許さなかった。昭和が一桁から二桁に移ろうとしているころ、徹誠は常念寺を離れ三宝寺へ転居することを決める。激しい差別に苦しんで人々を支援するためだった。
「私は死人の供養に来ましたが、同時に、生きている人びとの良き相談相手になるつもりでもいます。おたがいに友達同士として、困ったこと、苦しいこと、なんでも相談にきて下さい」と、三宝寺についた初日に檀家に向かって挨拶した。徹誠は「死者の供養を大事なことと考えていた。しかし僧侶の仕事は、葬儀屋の助手をつとめることではないとも考えていた」。

転居直後、真澄は学校で差別に合う。机は教室の端に置かれ、体育にも参加させてもらえなかった。いさほが教師に抗議に行っても取り合わない。ところが植木家が「未解放部落」の出身でないことがわかると、この教師の態度はころりと変ったのであった。「奥さん、あそこのこと知ってて引っ越してきたのかね」と先生が聞くのでいさほが「知っています」と答えると、先生は「あそこのは、うさんくさい連中の集合地ですよ」と言うのであった。教師がこの態度であるのだから、他はなにをかいわんやであろう。

激しい差別にさらされてきた人びとがついに立ち上がり、「朝熊闘争」が始まる。徹誠はこの中心にいた。
行政側がのらりくらりとかわすだけでなく、警察は弾圧を開始する。全く関係のない無政府主義者による事件にかこつけて無関係な人を逮捕していくが、それでも弾圧をはねかえす気力を持ち続けた。
昭和12年12月から、三重県でも人民戦線事件で大量の逮捕者が出たが、これは明らかに「朝熊闘争」の指導者を狙い撃ちしたものだった。徹誠によると、檀家の誰かが寺にきてヨーロッパの人民戦線について書かれた新聞のことを話題にしたところ、それが日本での人民戦線の結成の協議をしたという嫌疑で治安維持法で逮捕されたというのである。

等は学校の先生に引率されて伊勢神宮に参拝に行く途中に号外を拾い、そこに父の写真があることを発見する。ある先生は「君のお父さんは立派な人だ」と言ってくれたがこのような反応は少数で、「アカ」「共産党」と後ろ指を指されることになる。

徹誠はここで拷問を受けるのだが、若い頃は当時のことを話さず、晩年になってぽつりぽつりと話すようになった。凄惨な体験を言葉にするには長い時を必要としたのだろう。
それでもすっかり参ってしまったのではない。三年以上拘束され続けたのであるが、時おり帰宅を許されると、その時は警察のサイドカーの横に乗ってふんぞりかえるようにして家に帰ってきたという。

戦争熱が高まっている頃のこと、檀家の人が「召集令状がきました」と挨拶に来ると、「戦争というものは集団殺人だ。それに加担させられることになったわけだから、なるべく戦地では弾のこないような所を選ぶように。周りから、あの野郎は卑怯だとかなんだとかいわれたって、絶対、死んじゃ駄目だぞ。必ず生きて帰ってこい。死んじゃっちゃあ、年とったおやじやおふくろはどうなる。それから、なるべく相手も殺すな」と言っていた。
戦争は異常な精神状態をもたらす。「しかし、異常だ異常だとはいっても、周りで皆が異常になった時に、それを異常だというのは、たやすいことではない。おやじは、その難しいことをやったと思う」。

駅前で出征兵士の壮行式があると、特高か地方保護司が徹誠に目を光らせていたが、それでも「戦争は集団殺人である……」と一対一で話しているのと同じ内容のことを言うのであった。
いさほは「おとうさんはもうぼつぼつ出てこられるか、やっと出てきたか、という時になると、また検挙されるようなことを仕出かすのだから」とこぼしていた。そんな徹誠も真澄には自分が連行される姿を見せたくなかったようで、「納豆買ってこい」などとおつかいにだし、真澄が居ない間に連行されていった。

等の生活も大変だった。父が検挙されたり社会運動に出ている間はまるで「漫画に出てくる一休さんのよう」に、小学生でありながら檀家回りをしなくてはならなかった。「徹誠さんのお経なら五十銭払ってもいいけれど、等さんのお経では三十銭やなあ」などと値切られることもあったが、逆にある貧しい家を訪ねると、お経をあげているとお婆さんが団扇で風を送ってくれて、お経を終えると畳みに額をこすりつけるよにして「ありがとうございました」とお礼を言って一人前の僧侶として扱ってくれることもあった。

檀家回りをするのは学校が終わった後なので、冬などは日が暮れて暗い中を歩かねばならない。すると地面にさっと縄を張り足をひっかけようと、腕白小僧たちが等を狙うこととなる。ある日見事この罠にかかってしまい、鼻血まみれになる。復讐心もわいたがそのまま静かに立ち去った。一つには檀家回りは続けなければならないので鼻血を出したままでいるわけにはいかず、寺に早く帰って手当てをしなくてはならなかったからだ。そして母からは、「衣を着たときは、たとえ子どもでもお坊さんなのだから、喧嘩をしてはいけません。背筋を伸ばして堂々と歩かなくてはなりません」と言われていたためでもある。血まみれで家に帰ると、いさほは黙って手当てをしてくれて、「よく辛抱したね」といって等を抱きしめた。母の目からは涙がぽろぽろと落ちていた。


この頃兄の徹は名古屋の学校を卒業していたが、すっかり身を持ち崩していた。頭も良く運動神経も抜群だったはずの徹が不良たちとつるみ、その後さらに不品行は悪化し家財道具を持ち出しては売りさばくようにまでなってしまう。植木家の先祖には騙された相手と偶然出会うとそのまま切り捨てたという伝説を持つ人物がいるが、兄はこの先祖の気性の激しさを受け継いでしまったのか、あるいは家庭環境がそうさせたのか、すっかり荒れはてていく。その徹はやがて招集され戦死することになる。戦地からの母への詫び状は、戦死の知らせを受けた後に家に届くことになる。


等は小学校を卒業すると東京へ出ることになる。この家計ではとてもやっていけないし、学業もおぼつかなる。そこで東京の寺へ小僧として出ることに決まったのである。上京する直前、いさほは一人警察署におもむくと、署長に父子のわかれの挨拶をさせてやってほしいと談判する。これが認めれ、等は面会室でひどくやつれたが依然として昂然とした父と対面するが、警官の監視つきだった。徹誠は家族の話だからお前は必要ないと警官を追い出した。特別表情は変らなかった徹誠だが、目からは涙がこぼれていた。

このころになると三宝寺周辺の雰囲気もすっかり変っていた。徹誠に対する中傷も出回り、植木一家をここに留まらせておくか出て行ってもらうかの話し合いが行われ、石もて追われるようにして、いさほと徹と真澄は宇治山田へと移らざるを得なくなった。さすがの徹誠もこのときばかりは獄中で、「もういっそのこと、壁へ頭をぶちつけて死んじゃおうかなあ、なんて思ったことも、たまにはあったんだ」と振り返っている。このような経緯もあり、等は二度とここには来るまいとわだかまりを抱えていたが、これも本書の取材によって溶けていくことになる。


等は真浄寺へと修行に出る。当時の住職慧眼もまた戦争に反対で、召集令状の来た青年に「絶対に死んではいかん」と語りかけていた。もっとも特高も慧眼が「主義者」ではなく、極力政治に触れないようにしていることを知っていたために検挙されることはなかった。
慧眼は「君がお父さんのことをどう思っているか知らんが、君のお父さんは実に立派な人だ、ただ、いまの時代に合わないだけだ。だから君も一所懸命修行して、お父さんのような立派な人になりたまえ」と言った。徹誠を立派な人だと言った人は前にもいたが、「お父さんのようになれ」と言ってくれたのは慧眼が初めてだった。

徹誠は出所すると造船所のアルバイトをしていたが、御木本時代の友人がうちで働かないかと声をかけてきてくれた。それは機関銃の弾を作る工場であったらしく、本意ではなかったのだろうが背に腹はかえられず、こうして一家は再び東京で暮らすこととなった。

昭和19年に等の東洋大学進学が決まると、住職は千五百円もの祝い金をくれた。徹誠は学費を全額払おうとする等を止めて前期分だけにさせ、1トンもある機械を買った。しかしこれを使う間もなく、全て空襲で焼けてしまった。

昭和20年になると等は援農学徒として北海道に渡り農作業に従事し、そこで終戦を迎える。ようやく東京への帰途につく途中の船では、派手なアロハシャツに錨の刺青をしたアメリカ人が荷物検査をし、「ヘイ・ユー」などと言っては欲しいものを見つけると持ち去っていった。

戦時中から等は大学で軽音楽の同好会を作り、軍需工場の慰問などをしていた。ギャラはでないが銀シャリやステーキにアイスクリームなどにありつけることもあり、女子作業員にももてた。
終戦後にテイチクの新人歌手のオーディションがあり、等はこれに合格する。徹誠は怒ったが、これには自身の体験の影響もあった反応だったのだろう。
等がNHKに始めて出演する日、どういうわけかスタジオには等の妻と共に徹誠もいた。「歌は植木等さんです」と紹介されると、ミキサー室にいた徹誠がパッっとと立ち上がったのでドキッとして、等はあやうくとちりそうになった。なんで立ったんだいと聞くと、「なんだか自分が呼ばれたような気がしたものだから」と言ったそうだ。徹誠はこの時どんな気分だったのだろうか。

二の線で売っていたはずの等のもとに、「スーダラ節」を唄わないかというオファーが来る。何度も断ったが押し切られ、録音すると反響が大きく、あの男を主役に映画を撮ろうという話になる。徹誠は「そんな映画、誰が見るものか」と言ったが、映画は大ヒット。するとしれっと「だいいち『日本無責任時代』というタイトルが面白いからなあ」と言った。そして「スーダラ節」は親鸞の教えに通じるものがあるとも。
「わかっちゃいるけど、やめられない。ここのところが人間の弱さを言い当てている。親鸞の生き方を見てみろ。(……)うん、青島君は、なかなかの詞を作った」。


徹誠は戦後装飾品工芸の仕事に戻り、後進の育成にも熱心だった。等が目黒に家をたてると、離れを改造して工場として、「有限会社・五協」を設立する。職業訓練校のような役割を果たし、徹誠は相手の年齢や経験、性格に合わせて指導をした。昔のなじみで御木本も下請けの仕事を回してくれたりもした。とはいうものの、かつての生活と「五協」との生活にはかなりの落差がある。「等、こうしてブルジョワ階級のおもちゃみたいな物を作って生活しているなんてのは、もともと俺の本意じゃないんだ。しかし、おまえに経済的な負担をかけたくないから、こうして仕事をしている」と言っていたそうだ。これは照れ隠しでだけではなく本音でもあったのだろう。
しかしまた、六〇年安保のときにはデモに参加し、その後も社会運動とは関わりを持ち続けるなど、政治や社会問題に関心を失ったわけではなかったが、このあたりのことについてはあまり詳しくは書かれていない。


いさほは昭和28年に死去。徹誠はその寂しさからか、酒も飲めないのにネオン街にふらりと消えていくような生活が続いたため、周囲の勧めもあって再婚する。
昭和52年秋に倒れると、翌年2月には死期を悟り、親戚縁者を集めて、「ありがとう、ありがとう。おかげで楽しい人生を送らせてもらった」と言い、その翌日に亡くなった。


と、あまりにすごい生涯だったものでつい長々と書いてしまった。
今では本書は絶版状態のようで、ぜひとも復刊すべきだろう。あの時代や、徹誠のような人物がいたことも、継承していかなければならないのだから。



プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR