『バート・バカラック自伝』

バート・バカラック、ロバート・グリーンフィールド著 『バート・バカラック自伝  ザ・ルック・オブ・ラヴ』




ジョン・レノンは有名な言葉を数多く残しているが、これはその中でも屈指のものだろう。



「みなさんに手伝っていただきたいことがあります。安い席の方は手拍子を、あとの方は宝石をじゃらじゃら鳴らして下さい」
これが5年後であればたいそう辛辣に響いたかもしれないが、1963年には茶目っ気として受け止められただろうし、ジョンの表情を見ても当人もそう思っていたことだろう。

『バート・バカラック自伝』を読んでいたら、この63年11月4日に行われた「ロイヤル・コマンド・パフォーマンス」(「ロイヤル・バラエティ・パフォーマンス」の方が通りがいいだろうが、本書ではこう表記されている)にバカラックも出演していたことを知って驚いてしまった。もっともマレーネ・ディートリッヒのバックとしてだが。



バカラックとビートルズといえば「ベイビー・イッツ・ユー」だが、バカラックは初めてビートルズと会った時をこう振り返っている。
「マレーネとわたしはスウェーデンに行ってきたばかりで、そこではビートルズのポスターも目にしていたが、当時のわたしはこの男たちが何者なのかも知らなかった。ビートルズ・ヴァージョンの<ベイビー・イッツ・ユー>を聞いたのも、ずいぶんあとになってからのことだ。なぜなら彼らがカヴァーした時点で、あの曲はもう過去のものになっていたし、わたしはいつも「次はなんだ? 今度はなにをやろう?」と考えていたのである」。





この本にはさらにエルヴィス・コステロの証言もある。コステロはジョンのあの発言について、今見ると明らかにリハーサルずみのものだったのだろうけど当時は信じられないくらい生意気な真似をしたと思われていて、翌日には全部の新聞で報道されたと振り返り、さらにこう語っている。

「ここで見逃しちゃいけないのは、バートもマレーネ・ディートリッヒといっしょに出ていたことだ。それに、ジョー・ロス・オーケストラも。ぼくの父親のロス・マクマナスがうたっていたバンドだ。それから何十年もたって、ようやくバートと初対面をはたしたとき、ぼくは彼に「親父はあなたと63年に共演しているんですよ」と言った。いろんな人たちといろんな曲を共作してきたけれど、なかでも特に際立っているのが、バートと書いた12曲と、ポール・マッカートニーと書いた12曲だ。そしてこのふたりはどっちも、あの晩、ぼくの親父と共演していた。不思議だし、不気味だと思わないか?」(p.73)

え~と思ってウィキペディアを見てみたら(こちら)確かにジョー・ロス・オーケストラの名前がある。この時の映像は見つけられなかったが、どこかに残っているのだろうか。



ご存知の通りこの二人は一曲だけの共作ではなく98年にはついにアルバムまで作ることになるのだが、楽譜をファックスでやりとりしたり留守電にメロディを吹き込むというのは当時としてはごく当たり前のことなものの、今の若い子にとってはこんなエピソードは石器時代のことのように思えてしまうのだろうか。二人は「あきらめが悪」く、同じところで引っかかっていると午前4時にバカラックが電話をしてもコステロは間違いなく起きていたというあたりは、ワーカホリックや不眠症の傾向のあるミュージシャンには今でも共感できるのだろが。





個人的にバカラックで一番好きな曲といえば、あまりにベタだけれど「雨にぬれても」になるかもしれない。この曲についても触れられている。



ジョージ・ロイ・ヒルから電話がありバカラックは会いにいったのだが、オフィスに行くとジョージ・ロイ・ヒルがピアノの前に座ってバッハを上手く弾いていた。ジョージ・ロイ・ヒルはイエール大学でパウル・ヒンデミットのもとで音楽を学んでいたが、ヒンデミットはバカラックがピアノを教わったヘルムート・ブルーメの師匠でもあったのだが、当時はそのことを知らなかった。

「映画にはいくつか、音楽の間奏部を思わせるシーンがあった。そのうちのひとつでは、ポール・ニューマンがキャサリン・ロスをハンドルに乗せたまま、自転車で草原を走りまわる。ジョージはこのシーンを、サイモンとガーファンクルの<59番街の歌(The Fifty-Ninth Street Bridge Song [Feelin' Groovy]>に合わせて撮っていた。映画の作業をはじめてからも、わたしにはジョージがそのシーン用に別の音楽をほしがっているのかどうかわからなかった。/ ムヴィオラで何度も何度もそのシーンを見直していると、曲にできそうなメロディが聞こえてきた。わたしの場合はメロディが聞こえると、それに伴うアレンジも同時に聞こえてくる。この曲をウクレレでスタートさせ、タック・ピアノでホンキー・トンクっぽい感じにすることは最初から決まっていた。あのころのわたしはよく、なんの意味もないけれど、自分の曲に乗せると響きがよく聞こえる言葉で仮の歌詞を書いていた。たしかポール・サイモンも、同じ手を使って曲の方向性を決めているはずだ。わたしは全てのメロディを書き上げたが、その間、終始脳裏をよぎっていたのは、「雨だれが頭に降りつづける(Raindrops keep fallin'on my head)」というフレーズだけだった」(pp.180-181)。

雨のシーンどころか日が差していたが、それでも曲によくあっていたため、ハル・デヴィッドにメロディを渡した後もこの歌詞は残り続けた。スコアを書き上げた後に20世紀フォックスの社長のディック・ザナックと顔を合わせると、あまりにも型破りで危険が大きすぎるという声が出たために、あの曲を使うために会議で熱弁を振るう羽目になったと言われたそうだ。結果的には映画史においても屈指の名シーンとなるのだが、案外こういったものなのだろう。また当初は当時人気沸騰中だったレイ・スティーブンスに歌を依頼したが、スティーブンスは映画も歌も気に入らず、もう時間がないのでセプター・レコード所属で話が通しやすかったB・J・トーマスを起用することに決められた。こういうのもよくあることとはいえ、逃した魚の大きさに気付いたレイ・スティーブンスの気持ちはいかなるものだったのだろうか。


『バート・バカラック自伝』は娘のニッキーが未熟児として生まれるところから始まる。ニッキーは奇跡的に生きのびたものの後遺症で視力がひどく悪く、性格的にも両親の手に余り、施設に入れたりした時期もあったのだが、もしかしたらアスペルガーなのかもしれないと気付いたものの、2007年に自ら命を断ってしまう。バカラックは結婚離婚を繰返しており、また必ずしも模範的な親とはいいかねるところもあるのだが、本書にはバカラックの贖罪の気持ちというのもこめられているのかもしれない。


あとちょっと気になったことを。
バカラックが2012年のビルボードでの日本公演で、群集をかきわけて近づいてきた女性ファンから、あなたの音楽はとても大きな意味を持っているのでいつの日かまた日本にもどってきてほしいという手紙を渡されたものの、連絡先がわからないのでこの手紙にどれだけ心を打たれたかを伝えられないでいる、という部分がある(p.311)。
これについて注があり、これはバカラックの記憶違いで実際には2008年にあったことで、手紙の送り主は椎名林檎であるとしてあるんだけど、これって「記憶違い」じゃなくて別人のことという可能性はないのだろうか。注にあるように椎名林檎が2008年にバックステージでバカラックと会ったことは事実だろうが、時期も状況も違いすぎるし(2012年は震災後であり、「またもどってきてほしい」という言葉には切実なものを感じたことだろう)、おまけにバカラックはこの面会の後の2008年に椎名林檎に曲を贈っているので、心打たれたことを伝えられずにいるというのもおかしい。その可能性を示唆するだけならともかく、「記憶違い」と言い切るからにはその根拠も書くべきだったのではないだろうか。こちらの性格が悪いせいか、「大人の事情」で挿入したようにも見えてしまい、ちょっとなあと思えてしまった。




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佐藤太郎(仮)

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