『吉野作造』

「ある日吉野が雪道を学校から帰ってくると、下駄に雪がはさまって緒を切らし、困りぬいている若い女性がいた。吉野は即座にハンカチをひき裂いて与えた。その女性こそ阿部たまのだったのである。吉野の親切に感謝したたまのは、後日母とともに吉野の下宿先に御礼に行った。それ以来恋が芽生えたたという」。

と、ベタというかなんというかという出会いであるが、これは田澤晴子著『吉野作造』からの引用。そう、この「吉野」というのはあの吉野作造のことであります。さらには「これは地元の新聞に「スッパ抜かれ」、二高の特待生と小学校教師の恋愛は「恋愛事件」として報道された」そうだ。


このあたりはスラップスティック風ラブコメ的展開としてすぐにでも朝ドラにでも使いたくなる人もいるかもしれないが、吉野作造をモデルに朝ドラでも作ろうものなら、こちらのエピソードはある種の人には涙なしには見れないかもしれない。

東大を首席で卒業した吉野は大蔵省や日銀などに就職しようと思えばたやすく、教授からの推薦状も得ていた。しかし吉野は学問を続ける希望を実家に伝える。吉野家はもとは裕福であったがこの頃はすでに傾き始めていたものの、息子の願いを聞き入れることにした。しかし実家の周辺ではこの出来事で作造の株は暴落したようだ。品行方正で小学校時代からほぼ首席の座を守り続けた作造は周囲からしても希望の星であったが、それは作造が出世をして実益をもたらしてくれることを期待してのことだった。ところが親に苦労をかけてまで学業を続けるという行為は理解されず、冷ややかな視線が注がれるようになる。晩年には地元で「アカ」呼ばわりされることになるが、あるいはこのあたりにも遠因があるのかもしれない。

どうもこの時、吉野は一級上の上杉慎吉が学部卒業と同時に助教授に任命され洋行まではたしていることから上杉と同じような待遇を期待していたようだが、そうはならなかった。妻だけでなく二人の子どもを抱えた吉野は大学講師や翻訳のバイトをしながら経済的に苦しい生活を送ることになる。なんだか現代のポスドク問題を彷彿とさせるような状況にあったのである。

ただこの時作造がすんなりと東大に就職できていたならば、その後の歩みは大分異なったものになっていたのかもしれない。日露戦争が勃発すると雑誌への執筆を開始し、「政治評論家」としての顔を持つようになる。さらに吉野の経済的苦境をみかねて、袁世凱の息子の家庭教師の職が紹介される。この仕事自体はトラブルが多く苦労が耐えなかったものの、吉野の約三年間の中国体験は後の仕事にも影響を与えたことだろう。ちなみにこの頃、吉野の窮状を助けようと知人の斡旋で、受験術を題材にした『試験成功法』をペンネームで出版している。意外な人がその昔生活のためにハウツー本なんかを書いているなんてことがあるが、吉野もその一人だったのである。


少し真面目になると、吉野作造が日本の民主主義の歴史においてその可能性を示す人物なのか限界を示す人物であるのかについては様々な意見があるが、このあたりについては僕も未だに明確な像は結べないでいる。まあ偉そうなこと言えるほど吉野について知っているわけではないのですが。

あと不勉強ながら本書で初めて知ったのだが、吉野の娘の信は当時としてはめずらしい女性建築家になったのだそうだ。信は高等学校を卒業すると、基礎的な語学を学んでおくべきだと父から勧められ、アテネ・フランセに通いフランス語を学んだ。そして建築家の土浦亀城と結婚すると、自らも建築家を目指し、フランク・ロイド・ライトの元で学ぶためにロサンゼルスに渡った。この時普段は寡黙な作造が、「やるならちゃんとやってこなきゃいかんよ」と言葉をかけ、「路行かざれば到らず、事為さざれば成らず」と書いた色紙を渡したという。

信については『ビッグ・リトル・ノブ――ライトの弟子・女性建築家土浦信子』という本が出ているので、これも機会があれば。



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