『ヒア・アンド・ナウ』

ポール・オースター  J・M・クッツェー著 『ヒア・アンド・ナウ  往復書簡2008-2011』




ポール・オースターとJ・M・クッツェー、この二人は近いようで遠い、遠いようで近い作家なのかもしれない。

オースターは1947年アメリカ合衆国生まれ、クッツェーがは40年南アフリカ生まれなので、地理的には遠く隔たった場所に誕生しているのだが同世代といえば同世代、しかし第二次大戦中に生まれるのと終了後に生まれるのとでは時代が違うとすることもできるかもしれない。クッツェーはイギリス、アメリカへ、オースターはフランスへと、共に二十代に長く外国に暮らした経験を持ち、また共に文学的出発点は詩でありながら、生まれた国へ戻り小説家となる。とはいえ、オースターがアメリカへ帰るのと、クッツェーがアパルトヘイト体制化の南アフリカへ戻るのとでは意味合いは大きく異なるだろう。とりわけクッツェーの場合はアメリカからの帰国は望んでのものではなかったが、しかし他の国へ逃れるという選択はこの時は行わなかった。
80年代までの作品は、共に大きくはポストモダン小説とくくることもできるかもしれない。しかし自由な創作ができたオースターと、厳しい検閲にさらされていたクッツェーの作品とを同じカテゴリーに入れていいものだろうか。オースターは比較文学の修士号を持ち、クッツェーはベケット論で博士号を取得している(二人を結びつけたのは共通するベケットへの関心である)。オースターはアメリカの作家には珍しく大学で教鞭を取ることはなく、クッツェーは大学教師となった。オースターはアメリカの政治、社会に不満をもらしつつもアメリカに(というよりはニューヨークにとすべきか)留まり続けているが、クッツェーは2002年に南アフリカを離れオーストラリアに移住した。


オースターは相変わらずの超アナログ人間で、この書簡もタイプライターで打ち郵送している。クッツェーはイギリス時代にコンピューターのプログラマーとして働いた経験も持っているほどなので当然ながらメールを使用し、オースターの妻シリ・ハストヴェットにメールを送ってそれをオースターに見せるという面倒くさい形で始められたのだが、シリもパソコンについては少々怪しく、やぎさんゆうびん状態になりかけたりもしたことから、クッツェーはファックスで手紙を送ることにする。
このようなクッツェーだが携帯電話の存在は快く思っていないようで、作品の中に登場させることにすら抵抗感を持っているようだ。一方オースターは自分は携帯を持たないが(一度持ったが使わないので娘にあげてしまったとしている)作品に登場させることにはそう抵抗感はないとしている。


とりわけ前半部で多く語り合われるのがスポーツについてである。スポーツをすることについて、見ることについて、人はなぜスポーツに惹かれ続けるのかが様々な角度から考察される。オースターのスポーツ好きは知っていたが、クッツェーがこれほどスポーツ好きとは知らなかった。

また二人の共通する関心の一つが映画で、何本もの映画の感想を語り合ったり、薦めあったりしている。クッツェーがヨーロッパでサイクリング旅行をしたと知ると、オースターは『ヤング・ゼネレーション』を勧めていて、クッツェーの反応があまり芳しくないと知ると少々いい訳めいたことを書いている。確かに映画史に残る大傑作かというとそうではないのだろうが、とてもチャーミングな映画なのだから、「ポールよ、恥ずかしがらなくていいんだよ」なんて思ってしまった。


オースターがバスケットやアメリカン・フットボールなどのアメリカ発生のスポーツが時間を厳密に管理するルールなのに対し、サッカーはそうではないとしているのは、僕もよく感じているところだった。
「サッカーで僕が混乱する点は、時計の役割だ。試合は休止なしでどんどん進み、選手たちはぶらぶらし、ぐずぐずし、ゴールを決めるたびにチーム全体で抱き合ってピット上を転げ回り、その挙句、前半と後半の終わりに、審判が勝手に追加時間を足す」(p.186)。

確かにスポーツ文化という点ではヨーロッパとアメリカといのは大分異なる。そういえば北米のスポーツはドラフトやサラリーキャップなど戦力均衡化を志向するのに対し、ヨーロッパのサッカーは弱肉強食型でもある。一般的なイメージにおける「アメリカ的」と「ヨーロッパ的」がことスポーツにおいてはねじれている、といったこのあたりの比較文化論は探せばいくらでもあるのだろうが、考え出すといろいろと面白い。

またオースターが野球に強い愛着を持っている理由が「敗北はしょっちゅうで、失敗は避けられないということ」だとしているのも興味深い。一位のチームでも勝率は六割強で、つまり四割近くは負けてしまうということだ。
「野球のシーズンはとても長く、百六十二試合ある。その六ヶ月間にどのチームもそれぞれ浮き沈みを経験する。好調期と不調期、けが、たったひとつのプレーが原因で喫した手痛い敗北、思いがけぬサヨナラ勝ち。常にやるかやられるかのボクシングと違って、野球はやる、そしてやられるものなので、やられた場合でも、次の日には棺桶から這い出して、またベストを尽くさねばならない。野球において安定した気性があれほど高く評価されるのはこのためだ。敗北をやり過ごし、過度に浮かれることなく勝利に冷静に対処せよ。よく言われるのは、野球は人生に似ているということだ――その心は、野球は運不運を甘受することを教えてくれる。他のたいていのスポーツは、戦争に似ている」(p.195)。

プロスポーツにおける野球の特殊性は何と言ってもその試合数の多さだろう。つまりそれだけ日常の中に溶け込み、一つの勝利や敗戦で七転八倒していては身体が持たなくなる。「戦争に似ている」スポーツに慣れてしまったり、その快感を知ってしまった人には野球のこの日常性は物足りなく思えるのかもしれないが、僕にはやっぱり「やる、そしてやられるものなので、やられた場合でも、次の日には棺桶から這い出して、またベストを尽くさねばならない」という方が合っている。


さて、二人の近さと遠さが最も表れた箇所が「母語」についてなのかもしれない。
クッツェーはデリダの『たった一つの、私のものではない言葉』を取り上げている。これは「一九三〇年代のアルジェリアでユダヤ系フランス人の、あるいはユダヤ人でフランス人の、あるいはフランス語を話すユダヤ人コミュニティに生み落とされた子供としてのデリダの言語との関係」を扱った本で、デリダは「フランス語は彼の母語〔マザー・タング〕ではない/なかったと主張」している。クッツェーは「彼は僕のことを、僕と英語の関係のことを書いているのかと思ったよ」と書いている。

「二十一歳でイングランドに行って住んだとき、僕はこの言語に対して、いまとなっては突拍子もなく奇異なものに思える態度を取っていた。一方で、僕はてっきり自分は教科書的規準からすれば大方のネイティヴよりその言語が上手く話せて、曲がりなりにも書くことができると自信満々だった。ところが一方、口を開くや馬脚をあらわし、異邦人であること、つまり当然のこととしてその言語をネイティヴほど知らない人間であることがばれてしまった。/このパラドックスを僕は二種類の知識を峻別することで解決した。僕は自分にこう言い聞かせた――エラスムスがラテン語を書物から習得したように僕が英語を習得したのに対して、僕のまわりの人間はみんなこの言語を「生まれつき」知っていたんだと。それは彼らの母語であったようには僕の母語ではなかった。彼らはそれを母乳とともに吸収したが、僕は違った」。 (p.75)

自伝的作品である『少年時代』には、英語で教育を受けていた主人公が、政治体制の変化によってアフリカーンス語で強制的に学ばされるようになるのではないかと不安にかられる模様が描かれている。クッツェーはアフリカーンス語を「母語」としていてもおかしくはない環境に育ったが、英語を親によって選らばされたという面と、自身で選んだという面とがある。クッツェーの自伝的小説三部作は英語とアフリカーンス語への屈折した思いが大きなテーマでもあろう。

チョムスキーの言語学的な立場からすると「受容力に富む幼年期に内部に取り込む言語がその人の母語であり、それだけの話だ」ということなのかもしれないが、クッツェーは「母語」はそういったものなのだろうかという違和感がぬぐえないでいる。

オースターは自分の三世代前の曾祖父母はロシア語とポーランド語とイディッシュ語を話しており、「僕が英語を話す国で育ったのは全く偶発的な事実、歴史の気まぐれだと僕には思える」としている。さらに妻のシリ・ハストヴェットはアメリカのノルウェー系のコミュニティで生まれ、シリの母は30歳でノルウェーからアメリカに来て、その母も一緒に滞在していたためにハストヴェット家では一時的にノルウェー語が用いられ、シリが初めてしゃべったのもノルウェー語であった。シリは優れた英語作家であるが、しかし時々前置詞を誤って使ってしまったりもする。フランス人がアメリカの作家の本を翻訳するときに「英語からの翻訳」ではなく「アメリカ語からの翻訳」としているように、オースターは「英語」とはいっても最早それは様々に土着化されたものであるとし、「アメリカに対して僕は多くの不満があるが、アメリカ英語はそこには含まれていない」としている。

おそらくオースターにとってはハストヴェットが時折おかす前置詞の混乱を面白い現象(もちろん否定的な意味ではなく)と思っているのだろうし、そのような混乱も含めて様々な「英語」が血肉化したものが母語となっていることを素直に受け入れられているようだ。
ここにはクッツェーの抱える屈折は見らない。例えばオースターがフランス語で執筆するようになれば、「母語」とは何かという問題をまた別の角度から考察することになるかもしれないが、しかしそれはやはりクッツェーの抱える屈折とは別の問題であろう。

この点だけでなく、オースタは「アメリカ」というものを基本的に受け入れているように思える。もちろんオースターはアメリカ万歳といっているのではない。本書にはチャールトン・ヘストンとの短期間での三度の偶然の出会いといういかにもオースターらしい出来事があるが、オースターはヘストンの右翼性に嫌悪感をむき出しにしている。当時起こっていた金融危機など社会問題についてもいくつか触れられているが、オースターは国内政治については一貫してリベラルな立場である。しかしイスラエル-パレスチナ関係については少々ぎょっとするような粗雑な意見も披露している。といってもオースターはイスラエルを一方的に擁護しているのでもはない。ネタニヤフに代表されるイスラエルの右派を強く批判し、イスラエルがアパシーのような状態に陥りかけていることを懸念している。アメリカにおいては「バランスがとれている」とすらされる意見かもしれない。

しかしやはりここでのパレスチナに対する見方はあまりに一面的すぎるだろう。これはオースターがユダヤ人であるがゆえに目が曇らされているというよりは、「アメリカ」というフィルター越しにイスラエル-パレスチナ関係を見ているせいなのではないだろうか。オースターは現実のアメリカ合衆国の現状には非常に不満を持っており、2004年ごろにはブッシュが再選されたら移住することも考えるというような発言もしていたと記憶している。そんなオースターであっても、「アメリカ」というものに、あるいはここでの文脈でいうと「母語」というものに対しては屈託がなく、まさにこのことこそがクッツェーの屈折なのではないかという気がする。

イスラエル-パレスチナ関係についてはクッツェーもぎょっとするようなことを書いているが、これは本書でも触れられているような、イスラエルがかつてのアパルトヘイト体制下の南アフリカ化しているという指摘に対するアイロニカルな反応なのかもしれない。


最後にもう一点。
クッツェーはサイードの『晩年のスタイル』を取り上げている。オースターも書いているように、サイードは彼のコロンビア大学院での修士論文の指導教員だった。「とぎれとぎれではあったがあたたかいやりとりが、彼が亡くなるまで続いた」(p.105)としているのだが、この言葉を素直には受け取っていいものだろうか。オースターはクッツェーが触れたことで『晩年のスタイル』を「まだ読んでいなかったことを思い出し」、ようやく買って読み始めている(つまり今まで手元にあったが読んでいなかったのではない)。「あたたかいやりとりが、彼が亡くなるまで続い」ていたのだとしたら、サイードの遺稿集でもあるこの本を持ってすらいなかったということがあるだろうか。

オースターはこの書簡のやりとりがされている最中に一度書き始めた小説を放棄し、その代わりにWinter Journalを書いている。こちらでも触れたように、サイードが少し登場するものの、深くは語られない。イスラエル-パレスチナ関係についてはもちろんサイードとオースターの意見は大きく異なったことだろうが、少々奥歯に物がはさまったような扱い(と僕が勝手にかんぐっているだけかもしれないが)を見ると、それだけなのだろうかとも思ってしまう。

このあたりのことはよくわからないが、クッツェーとのやり取りがなければWinter Journalはもう少し違った本になっていたのかもしれず、クッツェーの方もオースターとのこのやり取りからインスピレーションを受けて何かを書くということがこれからあるのかもしれない。





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