『ジョルジュ・ペレック伝』

デイヴィッド・ベロス著 『ジョルジュ・ペレック伝  言葉に明け暮れた生涯』





ペレックの小説『煙滅』はフランス語で最も頻度の高い文字「e」を使わずに長編小説を書き上げた快作(怪作?)であり、邦訳では「い段」(いきしちにひみりゐ)を使わないというこれまたすごいことになっている。

しかしこういった文学作品にはある疑問がつきまとうことだろう、「だから何?」


ペレックの代表作としていいであろう『人生 使用法』を著者はこう評している。

「技術面では、『人生 使用法』は傑作であり、その技芸のあらゆる分野で作家の名人芸を証明することを狙っている。ペレックはおとぎ話を語り、書簡小説を組み立て、冒険物語、商取引の話、夢の連、推理小説、家族ドラマ、スポーツの物語を組み立てる能力があることを示す。喜劇の技法、悲壮なものの創出、歴史の再現、さらに目次から料理のレシピに到るまで、機器備品のカタログ、省察的エセー、辞書の項目、記事の要約、そして(もちろん)書誌と索引を経由して、語りではないエクリチュールの数多くの形態を操作しうることをも証明する。『人生 使用法』はしたがって、特徴ある文体と定義されうるようなものをなにひとつ持たない。模作者としてのペレックの才能が、ここにおいてそのもっとも雄大な、ほとんど目に見えない適応を見出している。言葉の壮大な交響曲におけるように、ペレックは他所からやってきた、それぞれが固有の流儀を持つ主題を調整し、位置づけ、編成する。ナボコフのセバスチャン・ナイトが主張していたように、「重要なのは要素ではなく、それらの組み合わせ」なのだ」(p.591)。

一方でフランス人の記者、フランソワ・ヌリシエは『人生 使用法』を辛辣に評価した。
「『人生』は寒い国からやってきた小説だ。膨大なバルザック、脆弱なラディゲ、巨大なゾラ、か細いコンスタンスは熱に浮かされた、心を奪われた作家たちだった。……ペレックはというと、彼は氷原に住んでいる。彼の小説は今日のフランス小説のどちらかと言うと空虚な地平から出現した巨大な氷山だ。確かに、『人生』はイデオロギーも精神状態も伝達するものではなく、この無菌処理はそれ自体健康的ではある。だが、想像から身を引き離すあまり、創造者はそれを空虚なものとしてしまってはいないか」(p.609)。

「冷たさと人間的な空虚さ」という非難は、アンソニー・バージェスなどペレックを批判する人たちの間でよく使われているようだ。

ペレックは実験文学集団「ウリポ」のメンバーであった。よくいえば数学的論理性と文学との融合を目指すということにもなろうが、文学を「パズル」に、あるいは「ゲーム」に近づけてしまうという危惧を抱いてしまう人もいないわけではないだろう(魔方陣を小説の構造に導入することに何の意味があろうか、という具合に)。もちろん実際にウリポのメンバーの作品を読めば狭い意味での単なる「言葉遊び」に留まるものでないことはすぐに明らかとなるのだが、とはいうものの、個人的には、例えばウリポのメンバーであるイタロ・カルヴィーノの作品ではウリポ加入後よりも初期のもののほうに「愛しさ」というのをはるかに感じてしまうことも確かだ。

そういったわけで、不勉強を告白させていただくと、喰わず嫌いをしていたわけではないがペレックの作品は『煙滅』しか読んでいなかったのだが、この大部のペレックの伝記を読むと、こちらが勝手に抱いていたイメージがかなり変ることとなった。とはいえこれはあくまでペレック作品になじんでいない人間の反応であって、ペレックをきちんと読み込んでいる人にとってはむしろ逆であるのかもしれない。

「日本語版への序文」で本書の執筆の経緯について触れられている。ベロスはイギリス人でペレック作品の翻訳者であった(「訳者あとがき」によると、もともと英語で書かれた本書のフランス語版が出版されるとペレックの周辺から猛反発が生じたようである)。ベロスが翻訳をした『人生 使用法』もそうであるが、ペレックには『Wあるいは子供の頃の思い出』など自伝的経験をモチーフとした作品が多く、ベロスは当時ペレックの生涯について詳しくなかったせいもあり寄せられた質問にうまく答えることができなかった。すると編集者から伝記を書くことを提案されたのだそうだ。

『煙滅』の「訳者あとがき」でもペレックの両親の最後に加え、「『煙滅』の物語内容もユダヤ民族大虐殺を強く喚起していると言える」とあるように、ペレックの作品と実人生との関係は決して読者から遠ざけられ隠されたものになっていたということではないのだが、改めて伝記を読むことでその関連性というものがより強く意識できるようになる。
一般論としては文学作品を読むにあたって作者の伝記的事実は括弧に入れておくというのが「正しい」のではあるが、ペレックの場合は知的で前衛的という作品のイm-ジから予想されるのとは反して、そのような一般論をこそ括弧に入れておくべき作家なのだろう。


ペレック家はユダヤ系ポーランド人であった。比較的ユダヤ人差別の少なかったフランスに一族は移住するが、隣国ドイツではナチス政権が誕生、ついにポーランド侵攻が起こる。ペレックの父はフランスの外人部隊に志願して出征するが間もなく戦死する(フランス軍にすら見捨てられたかのような最後だった)。フランスはドイツに降伏し、ユダヤ系の人々には過酷な運命が待ち構えていた。ジョジョというあだ名で呼ばれていたペレックは、赤十字の列車で先に自由地帯に逃れていた親族のもとへの脱出に成功する。しかし占領地帯に残っていた母は姿を消してしまう。おそらくは強制収容所に送られ、そこで命を落としたのだろう。ジョジョが母と別れたとき、それが永遠の別れになるなどということがまだ幼い少年に想像できたであろうか。

幼少期にこのようなあまりに強烈な経験をした人が、早い段階で自分は作家になるのだと決めるのは、ある意味で不思議なことではないといえるのかもしれない。理解不能な出来事を理解するためには物語の力が必要であるし、また物語の不可能性をあらかじめわかりきっているからこそむしろそこに拘泥せざるをえなくなったのかもしれない。

両親をこのような形で失ったとはいえ、ペレックの少年時代が似たような状況に置かれた人とくらべ著しく不幸であったのかというとそうではないだろう。ジョジョを引き取り育ててくれた伯父夫婦は、戦後まずまずの成功を収めミドルクラスとしての生活を再開する。

ペレックは、おそらくはいわゆる「地頭」のいいタイプであり、その気になれば勉強はよくできたのであろうが、なかなかその気になることはなく、成績は乱高下した。大学に進学は果たしたものの、相変わらず勉強に身が入ることはなかった。すでに作家になることを決意いていたペレックにとっては学業など意味のあることには思えなかったであろう。ペレックはこの頃常に金が不足していたが、それは衣食住に困るということではなく、ジャズのレコードを買ったりする金がないということだった。伯父との関係は当然うまくいかなくなるが、このような関係の悪化は贅沢の産物ととることもできるだろう。

1950年代後半のフランスはアルジェリア問題で緊張が高まっていた。ペレックは徴兵される年齢となるが、ここには複雑な心理が垣間見える。学生は学士を終えるまでは徴兵が猶予されるので、大学に戻って形だけでも試験を受けたりしていれば数年は徴兵を先延ばしにできたが、そのようなことはしなかった。また網の目は狭められていったとはいえ、裕福な者などには逃げ道もないわけではなかったが、ペレックはそのような手段によって徴兵忌避の道を探ることもしなかった。父が戦死しているためにアルジェリアに送られることがないことはわかっていた。ペレックの母も「フランスのため」に死んだということが証明されれば、徴兵は免除されることになる。ペレックはここで「行方不明」の母について直視するべき時が近づいてきたことを感じたのだろう。ペレックが積極的に兵役を逃れようとしなかったのは父の体験も影響していたのかもしれない。そしてペレックは過酷で知られるパラシュート降下兵となるのであるが、意外なことにこれに不適応を示すことはなかった。

母が強制収容所に送られたことがドイツの裁判所で認められ兵役を免除されることになるが、兵役の残りの期間はほんの数ヶ月であった。約二年の軍隊生活によって精神が損なわれるというようなことはペレックの身には起こらなかった。この裁判の結果百万旧フランを賠償として受けとると、その金でアパートを購入することになり、このことが後の人生を大きく動かすことになる。

ペレックは結婚し、自分は作家だと考え、彼の周囲もそう考えていた。しかしものを書いて生計を立てることはできず、いくつかの仕事を行うことになる。その一つが社会調査であった。マーケティング調査のようなものだろうが、当時のフランスでは高学歴の左翼などがよくこの仕事についていたようだ。調査表を作り面談をしてデータを集めていくのだが、そこは「作家」のこと、一人で何百人という人物になってしまう(そういえばポール・オースターも似たような経験をしているこをエッセイに書いている)。

1961年、国立科学研究センターCRNは新設された職務にふさわしい人物を探していた。まだ三十代であるにもかかわらず医学部教授で研究組織の長でもあったアンドレ・ユジュランはその話を従兄弟のフランス・ブノワに伝えた。このブノワは当時ペレック夫妻のアパートを間借りしていた。ブノワは家主を熱烈に推薦する。もっとも科学の素養も学歴も職業資格もタイピストの免状すらないペレックは、ユジュランが思い描いていたような人物とは程遠かった。それでもブノワは、「ペレックは分類と検索にかけては巨匠なのだ」と請合った。「文献調査のことで知らないことはない、カード検索方式の王様なのだと」。

こうしてペレックは20年近く働くことになる仕事を得ることになる。お世辞にもいい給料とはいえず、大きな文学賞を受賞しても仕事を辞めないことを周囲の研究者はいぶかったが、ペレックは「自由に書く」ためには定期収入があることが重要であることがわかっていた。そしてブノワが請合った通り、ペレックは独自のカード検索システムを考案し、さらにその改良を重ねていく。このシステムは他の部署からも注目を集め、その技術を盗もうとする人まで現れるほどだった。

今となってはコンピューターによっていくらでも大量検索は可能なのであるが、当時はせいぜいパンチ式カードといった程度であり、効果的な検索はどのようなレファレンスシステムを構築するかがキーとなる。ペレックは学校の勉強としては数学はまるで駄目だったようだが、これも本人がやる気がなかっただけのせいなのかもしれない。数学的感覚なしにこのようなシステムを作ることはできないだろう。ペレックは日常的に理系の研究者に囲まれて、大量の論文を読み込み分類するだけでなく、数学者らとのつき合いも生じることになる。このあたりはすべて後の小説に生かされていくことになる。

もちろんこの後も妻との別れや新しいパートナーとの出会いなど様々な出来事があるのだが、ここからはペレックはパブリック・イメージ通りのペレックになっていくといっていいだろう。


ペレックは生涯に渡って左翼であり続け、ミッテラン大統領誕生の際には大いに喜んだそうだが、1950年代はスターリニズムを擁護し共産党の歓心を買おうとするような、どちらかというと教条主義的な左翼であったというのは、これもちょっと意外な姿であった。
また意外といえば、50年代にはアラン・ロブ=グリエの仕事を「まじめに受けとることを拒」み、「ロブ=グリエは実験室の技術者」だと酷評していたという。アラン・レネ監督の『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』を高く評価していたが、ロブ=グリエが脚本を書いた『去年マリエンバートで』には否定的だったという。ロブ=グリエの実験性と後のペレックはむしろ近さすら感じられなくもないが、これは近親憎悪であったのか、ペレック自身が大きく変化したということなのだろうか。ちなみに78年にペレックはメディシス賞を受賞するが、賛否が分かれる中で受賞できたのはロブ=グリエが一貫して支持し続けたおかげであったとのことである。


後半では『シガレット』の邦訳が出たアメリカ人としは当時唯一のウリポのメンバーでもあるハリー・マシューズも親友としてよく登場する。外見上はモジャモジャ頭に伸びたアゴ髭、歯はボロボロで真っ黒のペレックと、小奇麗なマシューズは対照的に見えるが、この二人は馬が合ったようだ。

またペレックはフランスで始めて出版された囲碁の解説書の著者の一人でもある。ペレックのような人がこのゲームに関心を持つというのは当然という感じか。
ちなみに数式を見ただけでじんましんがでてくるような僕は囲碁のルールが未だに理解できない有様で(何度聞いてもわけがわからない)、やっぱりペレックは遠い存在なのかな、とも思えてもしまったが……


なにはともあれ、すでにペレックを読み込んでいる人にも興味深い発見がいろいろあるだろうが、まだペレックにあまり触れていない人にとっても、その作品を読んでみようと思わせてくれる伝記になっているだろう。




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佐藤太郎(仮)

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