『ザ・サークル』

デイヴ・エガーズ著 『ザ・サークル』





「すごい、ここは天国だ、とメイは思った」。

この物語はメイが世界を席巻する巨大IT企業、「サークル」に初めて足を踏み入れる場面から始まる。公益事業局に勤めていたメイは、大学時代のルームメイトでサークルの幹部社員となっていたアニーの助けもあって転職することができた。当初は独特の慣行や風変わりな社員たちにとまどいを感じていたものの、次第に順応していくのだが……。


新しくて古い、古くて新しいテーマを扱った作品だとしていいだろう。
社内のネットワークにはサイバー上に細分化されたコミュニティが無数に出来ており、サークルの社員たちは仕事、私生活、趣味など、悩みを共有したり楽しみを分かち合える人を見つけるのに苦労することはない。しかしこのようなコミュニティ活動、さらには毎日のように開かれているパーティや勉強会などへの参加は半ば義務づけられており、参加度は数値化され順位が公表されている。社員がこのような活動を行うことはビジネスにおいても必須であり優位になるとも考えられている。
プライベートにおいても仕事においてもSNSなどにがんじがらめにされているかのような圧迫感を覚えている人にとっては、メイの出くわす出来事はまさに「今」を切り取ったかのように思えるだろう。

メイは田舎生まれで周囲には大卒者すら珍しいという環境に育ったものの、東部の名門大学に進学することができた。しかし学歴に合わない職業に就くことになるが(少なくとも当人はそう感じている)、両親は彼女が着実に学生ローンの返済を開始できる仕事に就けたのだから、と励ます。サークルへの転職が決まり体調を崩している父親が何よりも喜んだのが、そこがきちんとした健康保険を提供してくれる企業であったからだ。

ジョージ・オーウェルの『1984年』の時代設定は執筆時の1948年の末尾二桁をひっくりかえしたものだが、これは取りも直さず「未来」を描いた作品が「現在」の反映であることを示している。2013年に発表されたこの作品でのメイの立場(多額の学生ローンを抱え、まともな健康保険のある会社に就職できるかどうかが今後の人生の分かれ道になる)はまさに当時のアメリカの若者の不安をそのまま写したものでもある。

そしてディストピア作品のお決まりとして、やはり『ザ・サークル』も管理社会、監視社会、全体主義を描くことになる。ディストピア作品の伝統を正統的に引き継ぎつつ、アップデートしたのが本作であるとしていいだろう。


「サークル」は明らかにグーグルとフェイスブックをモデルに作られているが、作中でのその存在はさらにアップルなどその他のIT関連企業大手をいくつもまとめたもののように巨大である。
廃れた場所に巨大企業が根拠地を構え、ただオフィスを作るのではなく内部で完結したコミュニティを作り上げているかのようだ。洗練された社屋に超がつくほど恵まれた福利厚生の数々に、メイはとまどいつつも感激と感謝の念がつのっていく。おまけにここでは「人間」として扱われるのだ。研修中にメイの上司はこう言う。

「メイ、君も仲間になったからには、この会社の大原則を伝えたいと思う。僕らのここでの仕事も大切だけれど、とても大切だけれど、中でもとりわけ大切なのは、何よりも君がここで人間らしくいられるということだと強調しておきたい。もちろん、ここは職場だけれど、人の場でもあるべきだということ。それはつまりコミュニティを育てていくということだ。(中略)僕らはからくり人形じゃない。ここは搾取工場でもない。僕らは同世代、いや全世代が生んだ最高の知性集団だ。だからこの場所でみんなの人間性に敬意を払うこと、みんなの意見を尊重すること、みんなの声に耳を傾けること……これは収益や株価や我が社のどんな試みとも同じぐらい大切なんだ。陳腐な話に聞こえるだろうか?」

アップルをはじめとするコンピューター関連、ネット関連企業やハッカー文化にはヒッピー文化や60年代的理想主義が大きく影響しているということはよく指摘されている。サークルはそれを戯画化したかのような「理想主義」的な労働環境、コミュニティを築こうとしている企業である。しかし一方で、この上司の言葉に気持ちの悪さを覚える向きもあるだろう。労働環境を健全なものにするのみならず、心身共に「健全」であらねばならぬとばかりに人の内面にまでずかずかと踏み込んでくるかのような不気味さを。


サークルの社員はまた戯画化されたといっていいほどのナイーブさを持っている。社会工学を、テクノロジーを、プログラミングを素朴に信奉し、ユートピア(語源は「どこにもない場所」であり、これは現実には存在し得ないことを表している)が形成可能であることを疑わない。

小型カメラをネットワークで繋ぎ、ありとあらゆる場所にカメラを行き届かせることができれば、犯罪がなくなるだけではなく、独裁政権が人権を蹂躙するのを監視することができる。世界中から監視の目をリアルタイムで注がれれば、もはやどんな政権であろうとも暴力的に人権を抑圧することはできなくなるはずだ。こうして世界はより安全に、より民主的になるはずだ。そうプレゼンをする社員は、健康が衰えた母が拒否しているにも関わらず無断で家にカメラを仕掛け、母親がタオル一枚で家の中をウロウロしている姿を社員たちの前で(もちろん母に無断で)流し、これを冗談として片付けてしまう。サークルはプライバシーなど認めない、あらゆる情報は公開され、共有されるべきで、私生活上での恥ずかしいものであろうとも、情報が削除されるなどということは原理原則的にあってはならないのである。

このような「理想主義」と「ナイーブ」さは対立するものではなく、いわば車の両輪となってサークルを暴走させていく。


エガーズはIT企業の過去の出来事やそれにまつわる個々人や各企業に孕まれる危険性を具体的な事例をもとにしてこの作品を書ている。ではこれらは、近年になって初めて生じた問題なのだろうか。
メイはある事件(を引き起こすこと)によって、「監視」の力を知り、それを肯定するようになる。メイが肯定するようになるシステムはまさにフーコーが『監獄の誕生』で取り上げたことで有名になったベンサムのパノプティコンが現実化したものである。またサークルは「予防」に力を注ぐ。社員の健康問題においてもそうで、無断でチップを飲ませ、そのチップによって肉体の情報収集することに対する葛藤は一切ない。むしろ全ての赤ん坊にはチップを埋め込み、肉体情報のみならずあらゆる情報を収集し、データ化し、最適の人生を送れるようそのデータを活用する未来すら望んでいる。またここでもフーコーの福祉国家批判を思い浮かべることができるだろう。

「全体主義」を作り上げていくのが「国家」ではなく営利を追求する「私企業」である、あるいは一人の「黒幕」によってではなく多くの「善意」によって悪夢的世界が形成されていくかもしれないといった展開に新しさがあるかといえば、過去のディストピア作品を見れば必ずしもそうではないだろう。ある「バグ」ともいえる存在やその正体にしてもそうであるし、サークルという存在が実は……といったあたりも、「古典的」ともいえるものとなっている。


本作において「新しさ」があるとすれば、これらの問題はすでにわかりきったことであり、それを承知のうえで、それでも利便性や「公正」な社会を作るうえで払うに値する犠牲だとする人々に、いかに想像力を働かせるかという部分にあるのかもしれない。本作は近未来SFとすることもできるが、ここで描かれていることは空飛ぶ自動車や宇宙移民と違い、ほんのわずか先には可能になるであろうことばかりだ。


サークルは壮大な「理想」を抱いている。政治家の行動を全て透明化すれば、不正はなくなるではないか。外交を全て透明化すれば、駆け引きや疑心はなくなるではないか。全ての人がサークルに参加するならば、全ての民意を瞬時に計ることが可能になる。そうすれば無意味に時間とカネを浪費する選挙などもう必要なくなる。これこそが真の意味での民主主義の実現であり、さらに素晴らしいのはもっと必要なところに時間とカネを割くことができるようになるではないか。

東浩紀の『一般意思2.0』(実は未読なもので、内容は聞きかじったものだが)は2011年刊行なので東はエガーズに影響されたのではないし、エガーズが東を参照した可能性もほぼないだろう。しかしこれは偶然の一致ではなく、このようなテーマを扱えばこのような発想が出てくることが必然であることの傍証とすべきことなのだろう。

このようなナイーブな社会観、民主主義観はここでは戯画化されているが、これに繋がる道はすでに強迫観念的にSNSなどに飲み込まれていくことなどによって切り拓かれようとしているのかもしれない。
「古典的」という言葉を使ったように、この作品はテーマ的には古臭いとすら映るかもしれない。しかしそういった印象を与えないのは、『ザ・サークル』はまさに「現在」の少なからぬ人々が捉われている意識を露にしているためであろう。この作品は眉間に皺を寄せてしかめっ面で読むばかりでなく、少なくとも中盤まではむしろ「あるあるネタ」的な滑稽な場面も多く、時代についていけない人間の戯言といった感じはない。

ある人物が同僚についての毒を含んだちょっとした一言が誤解を与えたかもしれないと思いいい訳のメッセージを送ったが、返信がないことからパニックに陥り、すでに告げ口されたのではないか、意図的に無視しされているのではないかと疑心にかられてさらにメッセージを送りまくるが、なんのことはない、相手はただトイレに行ってスマホから目を離していただけだったという場面がある。

メールを送ってしまった後に「しまった、誤解されたかもしれない」と後悔にかられたというのは誰もが一度や二度は経験があることだろうし、この一件なども似たような体験をしたことがある人は多いだろう。
ではこれも全く新しい現象なのかというと、必ずしもそうではないだろう。前に夏目漱石の書簡集について書いたが(こちら)、『漱石・子規 往復書簡集』には正岡子規が軽い気持ちで書いた冗談に漱石がマジギレして子規がなだめるというやりとりが収録されている。

一見すると「今」を切り取ったかのような出来事であっても、昔から存在していた問題であったということは多い。かつてであればそのような考えを抱こうにも、実現不可能なことから誇大妄想の一言で片付けられた問題も、テクノロジーの進歩によって実現可能になってくると、真に迫った問題となっていく。エガーズが「現在」を描くのに古典的ともいえる手法を用いたのは、まさにこれを意識してのことだったのかもしれない。

人間の思考法の変化によってではなくテクノロジーの変化によって世界は大きく、そして決定的に変ってしまうかもしれず、そのような動きは思わぬところから生じ、決定的な一歩をそうとは知らぬ間に踏み出してしまうことになるかもしれない。その前にできることといえば、できる限り想像力を働かせることである。古びた表現手法のように思われかねない小説が未だに力を持つことができる理由の一つを、この作品は示していると同時に、これは伝統的にディストピア小説が果たしてきた役割でもあり、こういった点でも本作はまた正統的なディストピア小説といえるだろう。


もう一つつけ加えると、サークルの頭文字の「C」は不完全な円とも見える。そもそもサークルの創業者や社員たちもこのことを意識しており、不完全な円を完全なものとすることがサークルの使命であると考えている。こういうとシルヴァスタインの『ぼくを探しに』あたりを思い浮かべる人も多いだろうし、まさにそのように物語は進行していくことになる。エガーズが直接的に『ぼくを探しに』を意識したのかはわからないが、このあたりも新しくて古い、古くて新しい作品世界を表しているかのようだ。


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佐藤太郎(仮)

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