『アメリカン・スナイパー』

『アメリカン・スナイパー』

ネタバレ云々という作品ではないので気にせずにいきますので、未見の方はご注意を。



アメリカでは大ヒットを記録する一方で激しい議論の的にもなっている、という話を聞いた時には、近年のイーストウッド作品を考えると単純な愛国マッチョ作品を撮るとは思えなかったし、この作品を批判している人は現実のクリス・カイルやその回想録に引っ張られすぎているのではないか、と想像していた。

実際に『アメリカン・スナイパー』を観てみると、確かにこの作品をイラク戦争を肯定したものだとまでは言えないが、同時にアメリカのリベラル派の批判が牽強付会なものというわけでもないことがわかった。もちろん現実のカイルと映画とを混同して映画を批判している人もいるのだろうが、一方で(日本で)擁護している人の中にもまたイーストウッドがイラク戦争に反対していたという事を前提とするあまり、この作品の危うさに鈍感になっているのではないかとも思える。


『アメリカン・スナイパー』と最もよく比較の対象とされているのはキャサリン・ビグロー監督の『ハート・ロッカー』であろう。両作品の展開はよく似ている。イラクという戦場とアメリカでの日常とが対比的に描かれ、主人公は戦場に飲み込まれ精神の均衡を失っていく。『ハート・ロッカー』のウィリアム・ジェームズが爆弾処理班であったのに対し『アメリカン・スナイパー』のカイルは狙撃手であるだけに、後者の辿る運命は陰惨なものとなっていく。
『ハート・ロッカー』もまたイラク戦争という政治的文脈を切断していることを批判されもした。政治的文脈を無視する「非政治性」は、中立なのではなくむしろある種の政治的立場の表明であるとすることもできる。

『ハート・ロッカー』よりも想起すべきは、マイケル・チミノ監督の『ディア・ハンター』かもしれない。この作品も政治的文脈の切断が批判され、さらにはロシアン・ルーレットに興じるなどヴェトナム人を残酷なモンスターであるかのように描き、差別的だとの批判も浴びた。

「敵」もまた人間である、というのは戦争映画を単純な勧善懲悪から脱せさせるための重要なファクターであるが、ではそうすることによって「誠実」な印象を与えるかというと、必ずしもそうとは限らないだろう。
ヴェトナム戦争に従軍したオリバー・ストーン監督は、自身の体験をふまえた作品を撮った後にヴェトナム側の視点を取り入れる『天と地』を撮ることになるが、このような試みはむしろ傲慢なものだと受け取ることもできる。
「敵」を「人間」として描こうとして、例えば本作における元オリンピック選手のシリア人スナイパーを、彼の私生活などを描くことによってどこからともなく現れたモンスターではなく一人の人間なのだという部分を入れていれば、『アメリカン・スナイパー』がアメリカのリベラル派からも受け入れられたのかといえば、そうではないだろう。むしろ本作が彼に「言葉」を与えなかったのは、オリバー・ストーンが陥ったような括弧付きの「誠実」さという傲慢さを避けたものだとすることすらできるかもしれない。
いずれにせよ、やはり『アメリカン・スナイパー』が批判されているポイントはここではない。

『ディア・ハンター』は個人的に非常に好きな作品ではあるのだが、では帰還兵のPTSDを描いているからこれは反戦映画であり、この作品に加えられた批判は不当なものなのかというと、そうとは言い切れない。もちろん差別的な面があることも否定できないであろうし、何よりもやはり、ヴェトナム戦争の政治的文脈を切断してしまっていることは批判されてしかるべきだとも思っている。そして『アメリカン・スナイパー』の危うさもここにある。


イーストウッド当人は当初からイラク戦争に批判的であり、現在でも肯定などしていないのであろうが、では本作がイラク戦争を批判的に捉えたものであるかといえば、そう受け取るのには無理があるだろう。

クリス・カイルは1998年に起こったケニアとタンザニでのアメリカ大使館爆破に衝撃を受け軍に志願し、2001年にはワールド・トレード・センターの崩壊をニュースで見る。しかし彼の戦場となるのはイラクである。ところが、カイルがなぜイラクで戦っているのかという疑問は提示されることすらない。ブッシュ政権の虚偽の主張やカイルがそれを無批判に信じてしまう場面を入れることは時間的にもストーリー的にもそう難しくはなかったはずだ。しかしブッシュ政権の欺瞞は作中には一切現れない。


『アメリカン・スナイパー』は日本の戦争の記憶のされ方と似ているのかもしれない。
日本ではアジア・太平洋戦争は主に被害者として、悲劇として記憶され、加害者としての意識はファナティカルな右翼ではない人であっても薄い傾向にある。
映像作品では学徒出陣や特攻はしばしば描かれるが、南方で餓死した兵士が描かれることはほとんどない。南方での惨状を描けば無能にして無責任な軍上層部などの姿が露となり、自国の兵士にすらこの仕打ちであれば、他国の民間人には何をかいわんやということになってしまい、共通体験/認識としての「悲劇」から逸脱してしまうせいであろう。
学徒出陣や特攻は保守派も加害責任意識の薄い左寄りの人にとっても共通して「消費」できる「悲劇」なのである。『永遠の0』は右派の側からその「悲劇」の「消費」を逆手にとって換骨奪胎したものとすることができよう。

日本の事例が示しているのは、一兵士の悲劇を描くことと戦争の正当化を行うことが両立してしまうということだ。従って『アメリカン・スナイパー』が一兵士の悲劇を描いているから、それが即(イラク)戦争を肯定するものではないとまでしてしまうのは、あまりにナイーブだろう。だからといってイーストウッド(と本作の製作陣)がこの作品を通じてイラク戦争の正当化を行っているといっているのではない。しかし意図してのものかはともかく、右派からの、起こりうることが容易に想像がつく利用に対してあまりに無防備であることは間違いないだろう。


さらにこの作品の「問題」として、本作が優れたエンターテイメントに仕上がっていることもあげることができる。
これもすでに多くの指摘がある通り、『アメリカン・スナイパー』は西部劇の構造をなぞっている。賞金稼ぎとそのライバルの滅法腕の立つ悪漢との追いつ追われつの手に汗握る追跡劇から、復讐譚へとなっていくかのようだ。イーストウッド作品ではエンターテイメント作品の範疇から逸脱するかのような異様な描写や展開が起こることが多いが、この作品はあくまで正統的なエンターテイメント作品に留まり続ける。ドリルでの殺害場面などもあるが、このあたりも観客の一面的な感情を強化する作用を果たしている。観客は傷つき死んでいくアメリカ兵に感情移入しやすく、カイルの復讐が成就することを願うようになる。

イラク派遣の回を経るごとにカイルの意識は微妙に変化していく。とりわけ最後のイラクでの任務では、国のため、隊のためというよりも、傷つき死んでいった戦友のための仇討ちを優先させているかのようだ。不合理であろうとも、命令を無視しようとも、友のために自らの命を投げ打ってでも、どんな犠牲を払おうが復讐は果たされねばならない。

しかしここで「愛国心」が相対化されることはない。カイルは作中で二度、子どもを撃つべきか撃たざるべきかの選択を迫られる。アメリカ軍に危害を加える者は子どもであろうが射殺するし、攻撃の意思を失ってようやく見逃される。子どもを撃つことへの心理的負担は大きいが、子どもたちがなぜアメリカ軍相手に武器を取ろうとするのかについての葛藤がカイルに生じることはない。仇討ちを果たす前もその後も「友」と「敵」の区分は安定したままである。そしてついにはアラモの戦いめいた、絶望的とも思える壮絶な死闘が繰り広げられるのであるが、そこで襲いかかってくるのはまるで「悪いインディアン」、「悪いメキシコ人」であるかのようなな「蛮人」どもだ。

カイルは最後まで「愛国者」の仮面を外すことはない。イーストウッドはメタ的な視線でそれを相対化することがないばかりか、むしろそれを強化する形で映画は幕を降ろす。時の政権によって間違った理由で始められた戦争の結果として星条旗に抱かれて葬られることのグロテスクさを忘れさせようとしているかのように映りかねないだろう。

『ハート・ロッカー』の次作である『ゼロ・ダーク・サーティ』では、ビグローは前作とは対照的に、最後に空虚感を映し出す(ジェシカ・チャステインはまるで生きながら棺に入れられたかのようだ)。しかし『アメリカン・スナイパー』のエンディングは、荘厳なる「愛国的」光景として映ってしまう(少なくともアメリカの右派はそう受け取ったし、これは必ずしも誤解に基づく反応ではないだろう)。『ディア・ハンター』のエンディングは、チミノが何を意図したかはともかく、「愛国」的なものなのか、「愛国」的なものに裏切られたことへの反応だったのかについては様々な見方が可能でもある。『アメリカン・スナイパー』での葬儀の模様は『ディア・ハンター』の「寂しさ」と比べると、意図としても結果としてもあまりに危うい。

何よりも、最も比較したくなるのが、『父親たちの星条旗』だ。民主主義とファシズムの戦いという大儀が広く信じられている戦争でありながら、ここでは兵士のPTSDに加え、「愛国心」を動員するための道具に使われたことによる二次被害までをも描き出す。

旗を掲げたとして祭り上げられたドクの息子は経緯を知り、父を看取った後にこう言う。
「おそらく父の言うとおりだ 英雄なんてものはいない 皆 父のような普通の人間だ 父が英雄と呼ばれるのを嫌がった気持ちが分かる 英雄とは人間が必要にかられて作るものだ そうでもしないと命を犠牲にする行為は理解しがたいからだ だが父と戦友たちが危険を冒し 傷を負ったのは仲間のためだ 国のための戦いでも 死ぬのは友のため 共に戦った男たちのためだ 彼らの栄誉をたたえたいならありのままの姿を心にとどめよう 父がそうしたように」

西部劇の時代のガンマンたちの闘いと違って、政治が絡む戦争というのは個人の生き様の問題だけではすまない。その視線は『父親たちの星条旗』にはあり、『アメリカン・スナイパー』にはない。これは元になった史実や脚本家の違いだけなのかというと、そうとも思えない。イーストウッドが信奉するリバタリアニズムと愛国心というのは微妙な関係にあるし、イーストウッド自身も長い年月の中で様々な揺れが見られるが、この二つの作品のエンディングの印象の違い(仲間との無垢なる記憶の再現と、星条旗に抱かれて葬られる)は、その揺れを示している。


『許されざる者』などにあったように、人を殺すことは地獄であり、その呪いに絡めとられると抜け出すことはできない。『アメリカン・スナイパー』はまさにこの地獄を描いた作品であることは間違いない。そういう点で本作を反戦的な作品だとすることが全くの誤りだとまでは思わないが、同時に政治的文脈を切断し、戦争を抽象化し、一般論としてしまうことで、イラク戦争という個別の戦争を見えにくくする機能もまた担ってしまっている。戦争による悲劇を描き出すが、ではその悲劇を生じさせたのは一体誰なのかという問いはここにはない。

クリス・カイルは、そしてイラク戦争に参加した兵士たちは深く傷ついた。あらゆる戦争が兵士たちにこのような傷を負わせるものである。しかし『アメリカン・スナイパー』では、ブッシュ政権とその追従者によって引き起こされたイラク戦争よってアメリカ合衆国が与えた「傷」とアメリカ合衆国という国家が負った「傷」は、不可視化されたまま幕を降ろしてしまうのである。


繰返しになるが、この作品は事前に想像していた以上にエンターテイメント性が高く(僕自身もとても引き込まれた)、そうであるがゆえにより一層孕まれるこの作品の「語り」の危うさに、とりわけ日本ではもう少し敏感であってもいいのではないかと思えてしまったために、『アメリカン・スナイパー』への反応やその受容のされ方などへの視線が中心になってしまった。このあたりは個人的に、とりわけ近年になっていろいろと考えていることでもあったためにそちらに引き付け過ぎてしまっていることは自覚はしているが。



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佐藤太郎(仮)

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