『半分のぼった黄色い太陽』

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ著 『半分のぼった黄色い太陽』




この作品は4部構成となっており、1、3部で「六〇年代前半」、2,4部で「六〇年代後半」が描かれ(つまりABCDという時間の進みがACBDの順で登場する)、年齢、性別、国籍の異なる3人の視点で語られる。

こう書くと前衛的で難解な作品を思い浮かべるかもしれないが、本作は極めてオーソドックスな手法が取られている。各部、各章ごとのナラティブは一貫しているので、時間軸を解体し視点人物の意識をシームレスに移動し、いったいこれは誰の視点で、過去を回想しているのか現在見ていることなのか未来を幻視しているのかといった混乱に読者が陥ることはない。小説を読みなれていない読者にとってもとっつきやすく、また1967年から70年にかけて起こったビアフラ戦争(タイトルは「ビアフラ共和国」の国旗から取られている)を背景に1960年代のナイジェリアが描かれているが、ナイジェリア近現代史に予備知識がなくともこの作品が理解しづらくなるということはないだろう(僕も全く予備知識はなかったが、ストーリーを追ううえでの困難は全くなかった)。

アディーチェはアメリカの大学で創作科を含む複数の学位を取得しているインテリだけに、「野心的」な作品にはなじんできたのだろうし、そのような作品を書くという選択もあっただろうが、『半分のぼった黄色い太陽』は「古典的」とでもいった印象を与える手法で書かれている。「訳者あとがき」によるとアディーチェは「作家です」とはいわずに「ストーリーテラーです」といったりするそうだが、「野心的」な手法を取らなかったのはそれだけ自らが生み出す物語の力を信じているからなのかもしれない。


13歳のウグウはおばの紹介で、大学で数学を教えるオデニボのスクールボーイとなる。貧しい田舎育ちのウグウはオデニボの家で初めて冷蔵庫や水道を目にする。オデニボは「海外であんまり長い年月、本を読んで暮らしてきたため」か、「ちょっとへんてこりんな人」である(と、ウグウには映る)。オデニボは白人が引いた国境を否定する立場からナイジェリア・ナショナリズムを否定し、またパン・アフリカニズムもヨーロッパの概念だと拒否し、政治的にはパン・イボの民族主義と社会主義的な立場を選ぶ。ウグウは「ご主人」の友人たちが繰り広げる会話(あるいは論争)を理解できないが、それでも知的な空気に触れ憧れを覚え、英語を身につけていくことにうれしさを感じる。オデニボはウグウを教職員用の学校に通わせてくれ、その待遇もよそのスクールボーイと比べると大変いい。ウグウは「ご主人」との生活に満足していたが、ここに闖入者がやってくる。

オランナはイボ人の裕福な家庭に生まれ、イギリスで教育を受け完璧な英語を話すことができる。恋人のオデニボの家で同居することになり、彼のスクールボーイのウグウにはこれも完璧なイボ語で話しかける。ウグウはオランナが表れたことに嫉妬し、せめてイボ語が片言であればいいのにと思うが、同時に性的に惹かれてしまう自分もいる。オランナは両親を喜ばせる優等生として育ったがいささか隙間風が生じはじめ、また皮肉屋で白人の恋人を平気で作る双子の姉のカイネネには少々わだかまりがある。そしてある日、オデニボの母が二人の家にやって来て事件が起こることになる。

碧眼の持主のリチャードは、イボ=ウクウ美術に魅了されている作家志望のイギリス人で、イボ語を身につけてもいる。リチャードはパーティでカイネネと出会い、恋に落ちる。


このように、この作品の人物設定や発生する出来事の多くが恋愛、家族との関係、近代化、都市と地方、階級、ナショナリズム、民族主義、植民地主義、人種差別、戦争と戦争がもたらす社会と人心の荒廃、知識人と政治、ビルドゥングスロマンと、多くの国、地域で共有できる普遍的なものとなっている。この作品の断片は、19世紀イギリス、明治時代の日本、革命直後のロシア、崩壊しつつあるユーゴスラヴィア、そしてウガンダやスーダンなど、ここ百数十年の世界の様々な出来事とそれがもたらした心理と共振しているだろう。テーマと手法とがリンクしているとすることができる。アディーチェはアフリカの小説を論じる際にわざわざ「普遍的」に読めるとすることがアフリカへの視線を表していると批判してもいて、確かにそれはそうなのだが、「他者」であるように思われがちなアフリカが欧米、あるいは東アジアと「実は」共通点が多いということではなく、一人ひとりのキャラクターの造形としてという意味では、あえてこの普遍的という言葉を使った。


もちろんナイジェリア固有の問題も前景化されている。百万人以上の戦死者と病死、餓死者を生みだしたとされるビアフラ戦争の原因は旧宗主国のイギリスにある。250とも500以上ともされる民族を一つの「国」に仕上げ、その統治のために相互に争わせ、分断してきた。「訳者あとがき」によると、大きく分けると半砂漠地帯の北部はイスラム教徒文化圏であり、高温多湿の南部にはキリスト教の宣教師が早くから入り西欧式の教育が行われていた。また南部でも西部はヨルバ民族、東部はイボ民族が最大の民族集団を形成していた。さらに事態を複雑にさせているのが、南部で発見された石油である。
一方で宗教や民族が異なるとはいえ隣人同士でもある。旧弊な価値観を持つオデニボの母が出身の異なるオランナを息子の妻として認めたがらない一方で、オランナは裕福なイスラム教徒ムハンマドと恋の鞘当を繰り広げてもいた。

イボ人による(ものとされた)二度のクーデターとその鎮圧の後、北部ではイボ人の虐殺が起こる。「アラーの思し召しだ!」という声のもとで起こる殺戮に、ムハンマドはかつての恋人を守りながら、「アラーの神が許すわけがない。アラーは彼らにこんなことをやらせた者を許さない。こんなこと、アラーの神は絶対に許さない」と怒りに身体を震わせる。
イボ人たちはビアフラ共和国の分離独立を宣言する。オデニボら民族主義的知識人はこれを熱烈に歓迎するが、その戦いの実態はウグウが陰惨にも体験することになる。

ビアフラ戦争に対して、北部に政治権力を与えていたイギリスをはじめとする西側諸国は冷笑的であり、ソ連など東側諸国は政治的に利用することしか考えず、アフリカ諸国は分離運動が広がることを恐れ傍観するのみであった。


ガルシ=マルケスは、「マジックリアリズム」とは南米の状況をそのまま描いたものだという趣旨の発言をしている。ジュノ・ディアスはドミニカのトルヒーヨ独裁政権の実態を描くには、夢幻的な手法を取らなければならなかったと語っている。ガルシ=マルケスが幼少期に祖父母から聞かされた話がナラティブの原型を形成しているように、マジックリアリズムは身体的なものであり、またマジックリアリズムは歪んだ鏡ではなく「現実」をありのままに描くための手法でもあった。
かつての隣人同士が血で血を洗う凄惨な殺し合いとなり、また田舎の村で育ったウグウやオデニボの母が呪術を信じているというエピソードからしても、モダニズム的文体実験やポストモダン的小説の解体とはまた別に、マジックリアリズム的展開を持ち込むこともできたのだろうが、アディーチェはここではあくまでリアリズムから離れることはない。

教育を受けたウグウは、情勢が不穏となり「ご主人」とその友人たちとの間で意見の相違が生じはじめるようになると、気を紛らわすかのようにディケンズの『ピクウィック・ペーパーズ』を読み始める。この状況を招いた旧宗主国の国民的作家の作品をこのタイミングで読むことはグロテスクなようにも思えるが、アディーチェはシニカルにウグウにディケンズを読ませたとは限らないだろう。ディケンズは何よりも、その巧みなストーリーテリングで老若男女、教育水準の高い人から庶民にまで愛された。そして弱き者、虐げられた者へのシンパシーを作品を通してたびたび訴えかけた作家でもある。

1977年生まれのアディーチェはビアフラ戦争を直接は体験していない。なおさら「神話化」への欲求も生まれかねないが、ビアフラ共和国を過度に理想化することなく、必ずしも厳密に史実通りでなくとも、物語によって何が起こったのかを見つめ、伝えようとしている。
これは「ナイジェリア出身の作家がナイジェリアで起こった凄惨な歴史を小説化した」という枕を拒否するということでもあろう。西欧的「普遍主義」を自明のものとして疑わないという立場ではなく、またかといって好意的にしろ否定的にしろ西欧(あるいはその価値観を受け入れた人)とは異質のものとしての「アフリカ」を描くこともまた拒否しているとすることもできるだろう。そのために、「野心的」な文学実験よりも、物語の力を信じオーソドックスでストレートな手法を選んだのかもしれない。


BBCによる「21世紀の偉大な小説12作品」に選ばれていて、そういえば読んでいなかったということで遅ればせながら手にしたのだが、確かにその評価も納得の作品であった。

なおこの作品は映画化されているが、評価のほうは微妙ということもあってか、残念ながら日本には入ってきていない。リアリズムであるだけに映像化が不可能というわけではないが、複数の視点人物がいるように映画にするには時間的制約などからハードルが高かったのかもしれない。2時間弱にまとめているようだが、これには相当な省略が必要だったことだろう。




あともう一つ付け加えておくと、「訳者あとがき」によると、リチャードの造形にはフレデリック・フォーサイスをヒントにしたとのことである。フォーサイスはビアフラ共和国の指導者オジェクを救世主のようにして書いたようだが、アディーチェはオジェクがそうでなかったことは「だれもが知っていた、避けることも可能な戦争だった」と語っているという(ウィキペディアによるとオジェクは亡命した後恩赦され、90年代には二度大統領選挙に出馬しているがいずれも落選し、2011年に死去しているとのこと)。
実はフォーサイスって一冊も読んだことがないのだが、『ビアフラ戦争』はいつか読んでみようかな。




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佐藤太郎(仮)

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