『ビアフラ戦争』

室井義雄著 『ビアフラ戦争  叢林に消えた共和国』




チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『半分のぼった黄色い太陽』はビアフラ戦争を背景に1960年代のナイジェリアを描いた小説である。この作品は奇をてらった手法は取られていないので、ストーリーを追ううえではナイジェリアやビアフラ戦争についての予備知識がなくとも困ることはないが、より深く理解するためにはある程度の知識もあったほうがいいことも確かであろう。

ということで『半分のぼった黄色い太陽』を読んだ後ではあるが、本書を手にしてみた。
ナイジェリアという国の成り立ち(それはもちろんヨーロッパ列強の植民地主義の歴史でもある)から、同じ「国」とはいえ数百にも及ぶ部族がおり、他言語多文化、さらには宗教の違いなどきわめてあやういバランスのうえにあったナイジェリアの状況が概観でき、イボ人を中心とする東部が「ビアフラ共和国」の成立を宣言して分離独立を試み内戦に到るまでの過程がわかる。


アディーチェはイボ人であるが、ビアフラ共和国やその指導者となったオジュクゥ将軍を理想化しているのではなく、避けることができた戦いだったともしているようである。

本書ではビアフラ戦争での死者を二百万としているが、これだけ大量の死者を出した要因の一つが戦争の長期化である。もともとビアフラが経済的に豊かであり、また「国民」の多くの士気が高かったことも長期化の理由の一つでもあろうが、その裏ではナイジェリア、ビアフラの国外からの影響もあった。

内戦が起こって舌なめずりをするのは武器商人たちである。とりわけビアフラ側には怪しげな人物たちが接近したようだ。もともとはドイツ-アメリカ間の国際線のオペレーターであったウォートンもその一人だ。内戦が勃発する一年前に東部州に武器を空輸する契約を結び、フランスの武器商人フェビエールからライフルと弾薬を買い付けて空輸を試みるが、1.4トンも重量を超過していたためかカメルーン上空で燃料切れを起こし不時着。ウォートンはカメルーン当局によって武器密輸の罪で罰金と禁固一ヶ月の刑に服する。
出獄するとウォートンはリスボンのホテルに事務所を構える。通称「ビアフラ航空」と呼ばれるようになるこの会社は三機のスーパー-コンステレーション輸送機を有し、「ヨーロッパと連絡する貴重な「パイプライン」として、武器、密使、現金、ジャーナリスト、そして医療品や救援節など」を運ぶことになる。パイロットの大半はアメリカ人とドイツ人だった。ウォートンは一回のフライトに2万5千ポンドの料金を請求していたが、戦局の重大な時期に地対空放火の激化を理由に週一便に減らすばかりか報酬の値上げを要求しオジュクゥの怒りを買い、また食料などの民需物資と武器類とを混在させるというやり方が国際的な救援組織から批判を受けるようになり、オジュクゥは契約を破棄する。

またローデシア(現ジンバブエ)に移住していたイギリス人のウィックスも、ローデシアの航空会社を使って武器を空輸する計画をたてた。ウィックスは最初のフライトの際、帰路に燃料補給のため立ち寄ったトーゴの空港で当局に不審を抱かれ検査をされ、機内から大量の紙幣と武器が見つかったため逮捕となった。このとき一緒に逮捕されていたローデシア人パイロットのムロックは出獄後に再び武器の空輸を始めるが、雇っていたカナダ人パイロットに25万ドルもの現金を持ち逃げされて、それまでとなった。

もっともこれらは間抜けだったために逸話として残っているだけで、うまくやりおおせて大もうけした連中もいたことだろう。

このようにビアフラ共和国のウリ空港には様々な地域から物資が流入していた。逆にいうならば、ウリ空港を破壊すれば戦争は早期に終結したはずであった。なぜナイジェリア軍は圧倒的な戦力を持ちながらウリ空港を制圧できなかったのだろうか。様々なカモフラージュが功を奏したということもあったが、白人傭兵たちが破壊を躊躇したことのもその理由であるようだ。

オジュクゥやナイジェリア軍を率いたゴウォン将軍など両軍の高級将校は「「コンゴ動乱」の時に国連平和維持軍の一員として白人傭兵と戦った経験をもっており、彼らの性格や限界を知っていた」。またゴウォンはナイジェリアの国内問題なので諸外国は介入しないようにと呼びかけていた手前、白人傭兵を雇いたくはなかった。とはいえ、とりわけパイロットの必要性から背に腹は代えられなかった。ソ連から提供されたミグには、ソ連が軍事秘密が漏れることを警戒して欧米人のパイロットを拒否したためエジプト軍のパイロットが乗ることになった。また戦争後半にはソ連の要請を受けて東ドイツからもパイロットが加わった。非共産圏から調達したアメリカ製の戦闘機にはイギリス人、ベルギー人、アメリカ人、南アフリカ人、ローデシア人などが乗り込み、常時12から20人ほどの白人パイロットが雇われており、月千ポンドの報酬はスイス銀行の口座に振り込まれた。

一方のビアフラ側には、ド・ゴールの特別補佐官のフォッカルトが白人傭兵の話を持ちかけていた。
フォッカルトを通して、ビアフラ共和国に第二次大戦やアルジェリア、イエメンなどでの戦闘経験を持つフランス外人部隊の将校ファルケスが紹介された。百人の傭兵を六ヶ月間十万ポンドという契約を結んだが、実際に来たのは49人、しかもフランス政府が帰国勧告を出したためわずか6週間で4名を残してビアフラを去った。ファルケスは残りの傭兵を派遣することもなければ、差額分を返金することもなかった。

残留した4人の中の一人、ドイツ人のシュタイナー大佐はヒットラー青年団に加入し第二次大戦に従軍した後、外人部隊の一員としてインドシナやアルジェリアで戦っていた。ディエン-ビエン-フーの戦いで片肺を失い、アルジェリアでは反ド・ゴールのテロリスト組織に身を置いていた。このシュタイナーとウェールズ生まれの南アフリカ人ウィリアムズ少佐はビアフラ軍第四奇襲旅団、通称シュタイナー軍団を結成し、ゲリラ戦術でナイジェリア軍と対峙しようとした。しかしオニチャ奪回作戦が失敗に終わるとビアフラの高級将校たちとの対立は深まり、シュタイナーは持病の神経衰弱を悪化させ酒に溺れる日々となりついには国外退去を命じられた。「ビアフラ共和国は、白人傭兵の調達に貴重な外貨を支出したが、その見返りは少なかった」。

またビアフラ空軍には、第二次大戦では敵同士として戦った「カミカゼ・ブラウン」の異名を持つチェコ人とドイツ人のヘルツが参加していた。

さらにビアフラ戦争に関わった白人の中には、カネのみが目的ではなかった人物もいた。「ビアフラ熱」といわれるように、熱狂的なビアフラ支持者も加わっていた。すでに60歳で孫もいたローゼン伯爵は十字軍の流れをくむ家系に生まれ、スウェーデン王室とも親交があり、17世紀に建てられた広大な森と湖のある古城を所有していた。当初は救援団のパイロットをしていたが、意見の相違から一度は帰国する。しかし連邦軍の空爆に胸を痛め、オジュクゥの友人のエチオピア皇帝、ハイレ-セレシエの親書を携えウムヒアへとやってきた。練習機をパイロットを育成するという名目で調達すると、それを改造して「ビアフラの赤ん坊」の異名を持つ「ミニコン」機に変身させ、「ミニコン隊」を結成して活躍することになる。

ローゼンなどのミニコン隊の面々は無給のボランティアだったので厳密には「傭兵」ではないかもしれないが、白人傭兵をめぐる話はこのようにB級アクション映画でも見ているかのようなエピソードが多いのだが、これが現実に行われていたというのはグロテスクさを一層浮かび上がらせる。

この白人傭兵たちがなぜウリ空港を破壊することを躊躇したかというと、もしここが破壊されえば「高収入の源」が断たれることになるからであった。またナイジェリア、ビアフラに雇われた傭兵たちは、コンゴなどで一緒に仕事をしたかもしれない間柄でもあり、そのことの影響していたようだ。著者はウリ空港が破壊されていたらビアフラ戦争は一年ほどで終了していただろうとと推測している。当然その分死者の数も少なくなっていたはずだ。


このようにビアフラ戦争は、ナイジェリアの内戦であると同時にヨーロッパ植民地主義によって種がまかれ、またグロテスクな武器商人や白人傭兵のエピソードに代表されるように、各国の思惑によってさらに陰惨なものになっていったという性格も強かったのであろう。


なお「あとがき」でも触れられているように、「フランシーヌの場合」はヴェトナム戦争への抗議で焼身自殺をしたフランシーヌ・ルコントをモチーフにしているが、フランシーヌの自殺はまたビアフラ戦争への抗議でもあった。「彼女は、ビアフラ飢餓の切抜き記事を手にしながら、死んでいった」のであった。





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佐藤太郎(仮)

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