『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』



原色の赤い文字が浮き上がってくるオープニングはなんともゴダール風。作中でドラムが打ち鳴らされるのみならずドラマーまで姿を現すのは『ウィークエンド』へのオマージュか。業界の内幕もので(擬似)長廻しとくれば映画史をふまえて撮られたロバート・アルトマンの『ザ・プレイヤー』のオープニングを連想せずにはいられない。『ザ・プレイヤー』に次ぐアルトマンの作品が『ショート・カッツ』だが、これはレイモンド・カーヴァーの複数の作品を原作としている。また群像劇もアルトマンの得意とするところだ。

これらはあまりにもわかり易すぎる。そっと目配せするのではなく、見逃しようのない直接的な言及になっている。これを眉間に皺を寄せて真面目くさって撮られては、シネフィル気取りの自己満足に辟易させられたかもしれない。しかし『バードマン』はコメディ、それもスラップスティック型コメディとして撮られている。

『バードマン』は斬新な物語ではないだろう。落ち目の元スターが起死回生を狙って賭けに出る、エキセントリックな役者に引っ掻き回される、創作者と批評家の対立、ネットに距離を置く世代とネットから離れることができない世代とのギャップ、親子の、(元)夫婦の物語、こういったものに珍しさはない。これもやはり、しかめっ面をして撮られては退屈なものになりかねなかっただろう。

配役と設定は虚実入り混じったものとなっている。かつてスーパーヒーロー「バードマン」を演じたリーガンを『バットマン』を演じたマイケル・キートンが。エドワード・ノートン演じるマイクは映画に出ないマーロン・ブランドといった感じだが、ノートンは演技派であると同時に『インクレディブル・ハルク』に主演してもいる。ナオミ・ワッツの出世作は『マルホランド・ドライヴ』でハリウッドに憧れる女優役だったが、『バードマン』ではブロードウェイに憧れるレスリーを演じている。
しかし俳優たち以上に、この作品は脚本・監督であるイニャリトゥ自身の姿の反映、あるいはパロディという要素もあろう。そして『バードマン』の成功の最大のポイントははそこにあるのかもしれない。

イニャリトゥの監督作品は『21グラム』と『バベル』しか見ていないのだが、どちらも好みとは言いかねるものだった。とりわけ『バベル』は、「深遠」で「壮大」な人間ドラマというよりも、単なる「大仰」な作品としか思えなかった。
これまで僕が見たイニャリトゥの過去作は、力の入りすぎというか、きつい言い方をすると見掛け倒しのようにすら思えるものであった。それが『バードマン』では、ノートンの局部をカメラワークで隠したり、キートンをパンツ一丁で街に放つといった「子どもじみた」とすらいえるような笑いを描いている。事前にある程度コミカルなシーンがあるとはわかっていたのだが、まさかイニャリトゥの作品でここまで笑わしてもらえるとは思ってもみなかった。


『バードマン』の最大の特徴は、まるでカットを割っていないかのような擬似長廻しが恐るべき程長時間続けられることだ。
映画における長廻しの効果はいくつかあるだろう。イニャリトゥのライバルともいえる同じメキシコ出身のキュアロンは『トゥモロー・ワールド』で驚異的な擬似長廻しシーンを撮ったが、あの映像には舌を巻くものの、作品に有機的に絡み合っているのかは個人的には疑問に思えた。そのキュアロンは『ゼロ・グラビティ』においてまた驚異的な映像を撮ったが、ここでのオープニングの擬似長廻しは作品との有機的な連結に成功しており、まさに観客に息を飲ませるリアリティを与えている(ここでの「リアリティ」は現実に起こりうるということを忠実に再現したということではなく、あたかも現実にその場にいるかのような感覚を与えるという意味)。

一方アンゲロプロスのような長廻しは、その技術的困難さも含め、むしろ観客からリアリティの感覚を奪い、そのことによって独特の緊張感を生み出している。
『バードマン』では、この長廻しによって未編集の密着ドキュメンタリーを見ているかのような「リアリティ」を与えるのではなく、時間や空間を歪ませる役割を果たしている。アンゲロプロスも『旅芸人の記録』で時間を歪ませているように、どちらかといえばキュアロン型ではなくアンゲロプロス型であろうが、しかしその与える効果はかなり異なる。

冒頭でいきなりリーガンが空中浮遊をし、テレキネシスを操り、彼の耳には「バードマン」の声が聞こえる。しかしこれらがリーガンの幻覚幻聴であることが途中で何箇所かはっきりと描かれる。時間や空間を歪ませているのに、不可解な謎を提示するのではなくあえて論理的な映像を挿入している。これは笑いにおけるそれと同じく「軽さ」の感覚を与えてくれる。


サブタイトルから、「大聖堂」に代表される晩年のカーヴァーのような日常に潜む「奇跡」へと収斂していくのかと事前に思っていたのだが(あるいはこれもアルトマンから強い影響を受けているポール・トーマス・アンダーソン監督の『マグノリア』風大団円のような)、考えてみれば邦題は「奇跡」になっているものの原題はVirtueであり、もとからしてカーヴァー的な「奇跡」とは明らかに異なるものであろうし、実際に(後期)カーヴァー的な世界とは大きく異なるものとなっている。
といってもこれはイニャリトゥなどがカーヴァーを誤読したうえで起こったことというよりは、意図的にカーヴァー的世界から逸脱していったということではないだろうか。

なぜリーガンがカーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」を起死回生の作品として選んだのかが語られるのだが、この話はリーガンの年齢とカーヴァーの伝記的事実を照らし合わせるといささか疑わしくも思える(60代のリーガンの高校時代である40年以上前はカーヴァーはまだほとんど無名で、余程の文学好きでないとその名前すら知らなかっただろう)。またリーガンの持っているカーヴァーの直筆のメモは、それに輪をかけて怪しい。あんなにぞんざいに扱われていればすぐにボロボロになってしまうはずだし、最後までぞんざいな扱いをされたまま物語から消えていく。

アルトマンの『ショート・カッツ』はカーヴァーの複数の作品をオムニバスとしてまとめた群像劇だが、最後に起こるある出来事は映画オリジナルのものであり、試写を見た村上春樹とカーヴァーの妻のテス・ギャラガーはこれに少々とまどったということが村上の『やがて哀しき外国語』に書かれている。アルトマンとしてはカーヴァー作品を魅力に感じながらも、映画としてはこれだけでは弱いと考えた末の改変だったのかもしれない。『ショート・カッツ』全体に漂う終末感について、「この感覚はもちろんカーヴァーの小説世界に負うところも大きいが、基本的にはやはりアルトマンの持ち味だろう」と村上は書いている。

「愛について語るときに我々の語ること」は小説としてはむろん素晴らしいが、映画、あるいは演劇化するには直接的なカタルシスが欠けているとすることもできるだろう。ではなぜリーガンはカーヴァーのこの作品をあえて起死回生の道具立てに選んだのだろうか。

フィリップ・ロスの『素晴らしいアメリカ野球』の原題はThe Great American Novelだが、この挑発的なタイトルが示すように、アメリカでは「偉大な小説」といえばなんといっても長編小説である。しかしカーヴァーはあくまで短編を書き続けた。カーヴァーはアメリカ小説史における重要人物となっているが、「偉大なアメリカ作家」の主流からは外れたところにいるとすることもできるだろう。これが逆にリーガンの野心をくすぐったのかもしれない。カーヴァーのような地味で静謐と思われている作家の短編を「偉大な演劇」に仕上げることによって、より自分の名声を轟かせることができると踏んだのかもしれない。しかし実際に漏れ見えるリーガン作・演出の舞台は、「偉大さ」からは程遠いという印象は否めず、滑稽さに近づいているかのようにすら見える。結果としてこの舞台を救い出すのは「予期せぬ」出来事であったのだろうか、あるいはこのことこそ、リーガンが念じ続けていたことだったのだろうか。演じることの到達点としては倒錯的であり、これは「Ignorance」がもたらしたものかもしれないが、「Virtue」としていいものかは心もとない。


このように、『バードマン』は何重にもアイロニカルな仕掛けが施されているとすることもできるだろう。しかしまた徹底的にシニカルにリーガンやその周囲の人々を突き放しているのでもない。気負いまくっている作中のリーガンと違いイニャリトゥが苦難を経て得た「軽さ」によってリーガンは「救われ」、またそのことによって『バードマン』は快作となっている。



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佐藤太郎(仮)

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