『インヒアレント・ヴァイス』

『インヒアレント・ヴァイス』



あのピンチョンの小説をあのポール・トーマス・アンダーソンが映画化するというだけで、これはかなりの事件であるように思えてしまう。

ピンチョンの作品の中では『LAヴァイス』は比較的映画化しやすいものだろう。場所と時間は限定されており、物語も線的に展開している。とはいえこれはあくまで比較の問題で、実際には膨大な登場人物と入り組んだ相関関係を整理して映像化するのはかなりの難作業になる。

原作のある映画の場合、読んでから見るか見てから読むかを迷う人もいるだろうが、『インヒアレント・ヴァイス』の場合省略された人物や出来事も多いとはいえやはり依然として複雑であり、僕も原作を読んでいなければどこまでストーリーについていけたのかはいささか心持たなかったもので、映画をあらかじめ複数回見ることを決めている人以外は原作を読んでからの方がいいだろう。とりあえずどんなものか知りたいという人には佐藤良明氏が「『インヒアレント・ヴァイス』予習」をまとめてくれているので、こちらを参考に。


『インヒアレント・ヴァイス』を見てまず驚くのは、なんといてもピンチョンの原作に相当に忠実なことである。思い切って換骨奪胎する手もあっただろうが、このあたりはPTAのピンチョンへのリスペクトの表れだろうか。

しかし忠実な分だけ逆に原作からの変更点に目がいくことにもなる。
複雑なストーリーを短時間(といっても二時間半あるが)でまとめるにはナレーションの導入はやむをえないだろう。
小説は明らかにハード・ボイルドを模している。ハードボイルド作品の多くに見られる特徴の一つが一人称の視点であり、小説も三人称であるがドックの一人称的な視点となっている。ならばドックがスコセッシの映画ばりにしゃべりまくるという形もあり得たのだろうが、映画では原作では端役のソルティレージュがナレーションを務めている。その結果としてハードボイルド性というのが薄まってしまったようにも感じられてしまった。

もちろんピンチョンのことであるから、この作品をハードボイルドという一つのジャンルに押し込めるようなことにはなっていない。しかしジャンル的雰囲気よりも重要な変更点が、ソルティレージュがナレーションを務めていることによって、映画では全体を俯瞰的に見ることができる人物が存在してしまっていることではないだろうか。
ピンチョン作品の最重要キーワードの一つが「パラノアイ」である。小説、映画共に全てを操る巨大な力の存在を感じてしまうパラノイア性への言及があるが、映画では具体的な登場人物が俯瞰的に見てしまうことによって、パラノイアの二重の恐怖(見てはいけないものを見ているのか、存在しないはずのものが見えてしまっているのか)が弱くなってしまっているようにも思えた。ドックの一人語りを避けるのであらば、超越的な、それでいて「神の視点」になっていない「語り手」を導入するのも一つの手ではなかったか。

またもう一つ弱められているのがピンチョンの政治性だろう。物語は1970年に設定されており、マンソン・ファミリーによるシャロン・テート殺害事件とニクソン大統領、レーガンカリフォルニア州知事への言及がなされている。60年代的理想主義の敗北を象徴する出来事がマンソン事件であり、時代はニクソン-レーガン的な「ファシズム」へと向かっていく。コーイが情報屋になってしまうのはヒッピーたちですら体制に回収されてしまうという悪夢的状況がすでに始まっていることを表し、FBIの垂れ込み屋になるのを拒むドックはそれに抗おうとしている。このあたりは出来事としてもテーマとしてもまさに『ヴァインランド』の前日譚となっている。

『LAヴァイス』の解説でも触れられているように、ジョン・ガーフィールドはドックにとってヒーローである。ガーフィールドは『郵便配達は二度ベルを鳴らす』などで知られるタフガイ俳優で、実生活でも「十代の頃からストリート・ギャングとして大恐慌下のニューヨークを生き抜いてきたという出自を持つ」。そして筋金入りのリベラルでもあり、赤狩りの圧力にも屈することなく、「演劇界の仲間たちを委員会に売り渡すことを最後まで拒否した」。その結果仕事を奪われ、再起を果たすことができないまま1952年に心臓発作で亡くなっている。映画でも赤狩りや転向の問題がちらりと登場するが、こういったピンチョンの左翼性は前景化されてはいない。

原作との最も大きな差異はエンディングだろう。小説ではアメリカの未来を暗示するかのような霧が立ち込める中で、ピンチョンならではの「無政府主義的奇跡」の可能性を示す結末となっている。小説はアメリカ・ロサンゼルス・「黄金の牙」が提喩的、換喩的に絡み合うが、映画ではドックとシャスタの二人の物語を強調するものへと変更されている。「インヒアレント・ヴァイス」という耳慣れない言葉の意味を説明する人物が原作から変更されているのも、これがアメリカを問い直す作品というよりも、より「パーソナル」な物語となっていることを表しているかのようだ。

これは小説を誤読した結果ではなく、ある面を強調し、ある面を薄めた結果だろう。小説のあらゆるテーマを忠実に描こうとしたならば、二時間半にまとめることなどとうてい不可能であり、PTAは原作のエッセンスの中からこの部分を選び取ったということであろう。
このように『インヒアレント・ヴァイス』は、あのピンチョンの小説をあのポール・トーマス・アンダーソンが映画化した!!と力みかえって見るものというよりも、ピンチョンとPTAに共通するオフビート感を愉しむべき作品となっている。

PTAのその映像世界や、70年のアメリカ西海岸の雰囲気の再現という点でも目を見張るものがあると同時に、圧倒的な緊張感や超絶的な山場の不在は、正直に言うとPTAの作品という目で見ると少々物足りなさも覚えてしまった。PTAの「オフビート」な作品というと『パンチドランク・ラヴ』があるが、これは個人的にはあまり面白いとは思えず、オフビートな作品そのものは苦手なわけではないのだが、PTAのオフビート感覚とはちょっと合わないのかもしれない。

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥは「スケールの大きな作品」を撮ろうという野心が空回りしがちな傾向になったが、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』で見事それをパロデジにするかのような「小品」を作り上げた。ポール・トーマス・アンダーソンといえば、現在世界的に見ても、これほど「スケールの大きな作品」が似合う監督は他にいないだろう。こういう作品ばかりを撮っていたのでは息が詰まってしまうというのもわかるのだが、「PTA的物語」を期待して『インヒアレント・ヴァイス』を見ると、その「小品」に少しばかり肩透かしをくらうことになるかもしれない。もちろんこれもPTAの、あるいはピンチョンの作家としての資質の一つでもあるのだが。


なお『LAヴァイス』の邦訳刊行時の帯には「ロバート・ダウニーJr主演で映画化の噂」とある。実際にそのように動いていたようだが、結局ロバート・ダウニーJrがドック役を務めるには「年を取り過ぎている」ということでホアキン・フェニックスにお鉢が回ってきたようである。キャラとしては確かにダウニーJrはドックはうってつけだったと思うし、これで見てみたかったとも思うが、原作ではドックは30歳という設定であり、ロバート・ダウニーJrでは70年にヒッピー的であるというのは少々厳しかったのだろう。とはいえホアキンも良かったし、その他のキャストも素晴らしく、このあたりはやはりさすがだという感じだった。



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