『デリダ伝』

ブノワ・ペータース著 『デリダ伝』





「彼は生まれ、考え、死んだ」、これはデリダが引用したハイデガーによる「アリストテレスの人生とはどのようなものであったのか?」についての答えである。デリダはこう語っている、「ご承知のように、伝統的哲学は伝記を排除してきました。伝記はなにか哲学の外部にあるものと考えられているのです」。

しかしデリダはこのような立場には与せず、「「伝記一般の、とりわけ哲学者たちの伝記の新たな問題設定」を発明するように呼びかけていた」。

ではデリダは自伝についてどう考えていたのだろうか。こう語っている、「実をいえば回想録〔les memoires〕は、ひとがふつう回想録と呼ぶようなものではない形態でありますが、わたしの関心をすっかりひくものの一般形態でして、あらゆることを保っておきたい、回想録の特有の語法のなかにあらゆるものをかき集めておきたいという狂気じみた欲望がそこにあるのです。哲学はといえば、アカデミックな哲学のことですが、わたしにとって哲学は、いつでもこの記憶の自伝的企図に役立つものであったわけです」。

ニーチェやルソーのような「自伝的エクリチュール」を自分でも書いてみたいという羨望を持っていたデリダは、回想録そのものという形ではなく、「割礼告白」や『絵葉書』などに自伝を「散種」していく。

このような羨望があったためか、あるいは順序が逆なのかはわからないが、デリダは強い収集癖を持っており、「自分に送られた通信文をどんな些細なものであれ細心綿密に保管」しており、「たったひとつの書簡を破棄したことを死の数か月前でもまだ惜しんでいた」ほどだった。

これは伝記作家にとっては夢であり悪夢でもあるだろう。目の前には膨大な資料がある、しかしその著作だけでも哲学者としては異例なほど多作であり、また単行本化されていない雑誌・新聞記事等にも目を通さねばならず、さらにデリダは自分が送った手紙の草稿や写しはとっておらず、これらを参照するためにも膨大な労力がいる。ペータースはデリダの著作や関連書(これだけでも凄まじい量で、無論読みやすいものばかりではない)を読み込むことはもちろん、書簡の検討や家族友人知人へのインタビューを行いながら、わずか(と言うべきだろう)三年でこの浩瀚な伝記を書き上げた。この伝記を書くための作業についての本であるTrois ans avec Derrida, les Carnets d'un biographeも書いているが、どんなものか中身はわからないがぜひこちらも邦訳されてほしい。




さらに驚くべきはその質だろう。デリダを読み込んでいる人にとっても満足のいくものであろうし、僕のような気が向いたら時おり手にとるといったレベルの読者にとっても確認と新たな知見を与えてくれるし、デリダの著作をまだ手にしたことがない人にとっても読みやすく、また信頼性の高いデリダ入門ともなっている(いわゆる「フランス現代思想」のちょっとした見取り図くらいは事前に頭に入っていたほうがいいだろうが、それでも予備知識があまりなくとも途方にくれるような伝記にはなっていない)。

「訳者あとがき」には、「ほぼ欠けることなくデリダの人生と作品背景を網羅した決定版の伝記が、これほど早く、デリダの死後十年よりも前に刊行されることは予想外のことでした」とある。さらに、「そのような伝記が、日本ではBD(フランス漫画)の脚本家としてかろうじて知られているペータース氏によって著されたことも驚きでした」としている。僕は最初同姓同名の人なのかと思ってしまっていたのだが、ペータースはロラン・バルトの教え子であり、アカデミシャンとしての訓練も受けているので全くの門外漢というわけではない。とはいえ、「意地悪く、どこか哲学・思想上の欠陥があるかもと粗探ししても、どこにもなく、学術上の参照点として確実な上に、伝記・物語として、主人公ジャッキー君がジャック・デリダ先生からパリで新鋭著述家としてデビュー、ついで世界の思想家となる成長物語(「教養小説」)のように読ませるところも、常人には真似のできない技」となっているのにはやはり舌を巻かざるをえない。




本書はジャッキーという本名を捨て(そう署名するだけでなく、家族や旧友以外からはそう呼ばれることすら拒否するようになる)ジャック・デリダとなるまでの「ジャッキー」、その著作がセンセーションを与え一躍寵児となる一方で激しい毀誉褒貶に晒され続ける「ジャック・デリダ」、パブリックイメージの形成とそれを引き受けるようになるかのような「デリダ」の三部構成になっている。


デリダに少しでも興味がある人はぜひとも読んでみてほしい、ということで以下目についたところをダラダラと。


フランスの植民地であったアルジェリアでユダヤ人として生まれるというのは、二重三重に複雑なアイデンティティが形成されることになるが、時代状況もさらにこれに拍車をかける。1930年生まれのデリダはフランスで対独協力ヴィシー政権の誕生の余波をもろに受けることになる。アルジェリアでは本国以上に厳しいユダヤ人政策が取られ、デリダは突然学校から放逐されてしまうことになる。この衝撃は、デリダの思想上においても最も強い影響を与えた出来事であったのかもしれない。なお後に強い影響を受けるブランショはド・ゴールを蛇蝎の如く嫌い続けたが、デリダはアルジェリアのユダヤ人の苦境を救ってくれた人物としてド・ゴールに一定の信頼感を抱き続けることになる。

デリダはアルジェリア時代の自分の青年時代を不良だったとしているが、これはいささか大袈裟に触れ回っているだけのようだ。有名政治家の家系に生まれた鶴見俊輔は「不良少年」だったことを自称している。デリダ家は貧しいというほどではなかったがまた裕福というほどでもなかったので鶴見が「不良」を気取るのとは少々意味合いは異なるが、こういう自己演出をしたがる傾向というのはある種の知識人にはよくあるものだろう。「不良」を強調するほどむしろ不良ではなかったことが印象づけられ、コンプレックスが目立つことになるのだが。

もちろん小学校時代から成績はずば抜けて良かったのだが「筆記だけはだめ」で、「彼の字体はこの世のものとは思えないと判断され、終生そのままであった」。自筆の手紙の写真も収録されているが確かになかなかのもので、デリダの書簡は「ほとんどは解読が極度に困難なものだった」そうだ。

成績優秀であったデリダは高等師範学校を目指すが、合格のためには本国首都で準備するしかないと思い、49年、19歳でパリに出ることになる。デリダ家の経済状況は楽ではなかったが、必ずしも知的な一家ではなかったものの(家族のほとんどが後に出ることになるデリダの著作を読もうとすらしなかった)両親は息子のためにその負担をする覚悟はできていた。しかし当然ながらパリでは切り詰めた生活を送らねばならない。

デリダはルイ=ル=中高学校でもその哲学の才能を認められるが、「特殊な用法」の「難解な言語」を使いたがる傾向を指摘されてもいる。もちろんこれは試験においては不利に働くことになり、文学にも強く惹かれていたデリダは伝統的な型にはまった哲学を受け入れるかどうかを迫られることになるが、このあたりの問題も悪筆と並び生涯つきまとうことになる。

デリダは金銭上の理由から厳しい寄宿舎生活を送らねばならず、このこともあいまってか「夜に突然の落涙の発作に襲われ、勉強はおろか学友と会話することさえままならない」状態に陥る。典型的な鬱病の症状であるが、デリダは60年代まで数度に渡って鬱状態となることがあった。フーコーも学生時代に真剣に自殺を考えたが、フランスの厳しいエリート教育はそのプレッシャーも凄まじいもので、押しつぶされてしまった人もたくさんいたことだろう。





そんなフーコーの、そしてデリダの力になったのが、フーコーやデリダの比ではないほど壮絶な躁鬱病に苦しみ続けたアルチュセールであった。デリダは高等師範学校に進んだ後に師弟関係となり、さらに同僚となる。アルチュセールは共産党員であり、また同時に教え子を共産党よりさらに左の運動へと送り込むことになる。デリダは当人の意識としても、また実際上の政治的意見としても一貫して左翼であったが(「できるときにはいつでもそのたびに「左翼」として行動する」と、後に書いている)、しかし共産党には入党を考えることすらせず、また左翼過激主義とは距離を置いたように、アルチュセールとは政治的立場は相容れないものであったが、それでも強い信頼関係で結ばれ続けた。あるいは共に鬱を病んだという経験がその結びつきを強めたのかもしれない。アルチュセールが不調に陥った時には、デリダはどれだけ多忙であってもその穴を埋めることを厭わなかった。

アルチュセールは最終的には妻の殺害という衝撃的な事件を起こすが、その後もデリダは親身に対応し続けた。アルチュセールは訴追されることなく病院に収容されるが、デリダは週に一度は面会に通い続ける。また一時退院が許可されるようになった後にアルチュセールが周囲の人間を困らせたのは鬱状態ではなく躁状態に入った時であり、こうなると入院を勧めてもなかなか応じることも難しくなるのだが、デリダが説得するとアルチュセールは素直に応じた。二人の信頼関係がそうさせたのだろう。

なお訳注によると、「傑出した質の伝記」であるブータンの『アルチュセール伝』について、「残念ながら後半部の出る気配のない」としてある。これはずっと待っているのだけれど、もう読めないということなのだろうか。アルチュセールの人生もこれまたすごいもので、前半部だけでも読む価値はあるし、また妻殺害後に書いた自伝も「面白い」ものであるが、やっぱり後半も読みたいのだが……。




デリダはまた後に鬱病と合わせて心気症にも襲われ、病院で検査を受けまくったりもしている。この傾向は若い頃には病弱であったことも影響しているのだろうが、若干パラノイアっぽいところがあったことも否定できないだろう。60年代にこんな出来事があった。アメリカからフランスへの帰路、悪天候のせいで乗り継ぎに失敗するなど、旅はどんどんひどいものへとなっていき、デリダは「いらいらと神経を尖らせ」ていた。飛行機のなかでデリダは「こぶしを全力で固く握」り続けていたので、妻のマルグリットが少しリラックスしたら、とさりげなく声をかけると、デリダは激高してこう言った。「だってお前、わからないのか、俺が大気中の飛行機を自分ひとりの力で安全に保っているのを」(!!)。
この後数年間デリダは飛行機に乗るのを拒否し、アメリカへも船で旅することになる。


デリダは年齢を重ねるごとに健康になっていき、とりわけ80年代後半以降は世界中を飛び回る込み入ったスケジュールをこなすようになるのだが、病弱だった若い日にはこんな生活を送ることはとても想像ができなかったことだろう。それなりに知名度を得た後もキャリアに恵まれず(もちろんこれはデリダがフランスの大学から嫌われたせいであるが、このあたりのフランスでのデリダの受容及び拒絶については、訳注にもあるように少々慎重に扱う必要があるようだ)、イェール大学で教鞭をとることは金銭的にも必要なことであった。しかし世界的なスターとなった後はデリダは金銭に固執することなく、講義の他に講演などを数多く引き受けたのも金銭上の理由からではない。非常に気前のいい性格で、レストランで割り勘にするなどあり得ないことであった。そしてこういった性格の人にありがちなように現実生活は苦手であったが、そのデリダ家の家政を一手に引き受けたのがマルグリットだった(デリダは一度も銀行に足を運ばず、そのせいで銀行員はマルグリットに夫は本当に存在しているのかと聞くほどだった)。

マルグリット自身も知識人であり、翻訳等でデリダ家の家計を支えてもいた。デリダはフェミニズムとは親和性が高かったが、その実生活においてはマルグリットに頼りきりで、その他の点でもフェミニズムの実践という点ではいささか微妙なところが多い。

もっともマルグリット自身はそんな生活にストレスを感じていたわけではなく、数多くの来客を迎えることも喜んで引き受けていたようだ。そのマルグリットが若干不満を感じていたのが夫の嫉妬深さで、少し出かけただけで気に病んであれこれ質問されることになる。こう書くと妻を「所有」して束縛していたように感じられるかもしれないが、アーヴィングの『ガープの世界』を連想させるほど、二人の息子に対しても少々奇異に映るほど安全に気を使うなどし、子離れができない父親であったので、デリダとしては妻を束縛しているというよりは家族の安全を守ろうとしていたつもりなのかもしれない。

ガープは浮気をしてしまうのだが、デリダもこれほど家族を大切にしながらも女性関係は潔癖さとは程遠かった。デリダは散財癖があったわけではないが、かといって贅沢を拒否したわけではない。そして高級ホテルやブランドものの服は(KENZOを高く評価していたそうだ)、女性をくどくのに役立つことともなる。

中でも長期に渡り、また深刻だったのが後にジョスパンと結婚することになるシルヴィアヌ・アガサンスキーとの関係だ。デリダは二人の関係が家族にばれないように気を使っていたようだが、浮気というものが往々にしてそうであるようにバレバレで、シルヴィアヌと一緒にいるところを家族と出くわしてしまったことすらあった(迂闊すぎる!)。さらにはシルヴィアヌは妊娠し(せめて避妊をちゃんとしなさいよ!)、一度は中絶をするものの、84年にはデリダとの間の子を産むことを決意し、デリダとも別れジョスパンと一緒に住むようになるまで一人で息子を育てることになる。デリダはアクシデント的に会ってしまったことを除けばこの息子と会うことはなかったが、これはデリダとしては家族を気遣ってのことで、あたかも外に子どもなどいないかのような態度を取り続けたのであったが、もちろん家族はこれを知っていた。デリダとしては「家族」を守りたかったのであろうが、ではシルヴィアヌとの息子は「家族」ではなかったのかと考えると、このあたりの態度はいかがなものかと思ってしまう。会いに来れば拒まないつもりだったようだが、「家族」を気遣ってのことのようで、むしろマルグリットとの間の子どもたちから母親の違う弟について気を使われる有様であった。

94年、シルヴィアヌとの関係は壊れたままだったが、彼女も出席していたある口頭試問に立ち会った際突然、ダニエルは元気か、あの子の幸せを毎日祈っているよ、と声をかけ、シルヴィアヌとその友人を仰天させた。シルヴィアヌはその六ヶ月前に、以前から同棲していたジョスパンと結婚していた。

デリダは社会党に投票し続け、95年には投票を呼びかけたことすらあったにも関わらず、ジョスパンが立候補した2002年の大統領選挙の際には「候補者全員に対する気分の悪さ」から、生まれて初めて第一回の投票に行かなかったことを明らかにした。

ジョスパンが社会党の有力候補となると彼の伝記が書かれ、そこでダニエルの父親がデリダであることがすっぱ抜かれていた。周囲はみんな知っていたのだが、デリダはバレていないはずだと思い込んでいたので狼狽した。「秘密が守られてほしいと望むあまり、事実そうなっているのだと確信」していたのだった。
シルヴィアヌは選挙運動にも積極的に関わり、キャンペーンのためのインタビュー記事の写真のキャプションには「ダニエルを育てたのはリオネル〔・ジョスパン〕です。彼はあの子を自分の息子にしてくれたのです」とあった。

この選挙では二位にジョスパンではなく極右のル・ペンが入り込むという前代未聞の出来事が起こり、ジョスパンはそのまま政治家引退に追い込まれる。シルヴィアヌは後に刊行された日記の中で、「気分」で投票に行かなかったデリダを罵り、「少なくとも、第二回の〔決戦〕投票の際には、この哲学者がシラクとル・ペンというふたりの候補者を前に、よい気分を取り戻していたことを期待しようではないか」と強烈な嫌味を書いている。

報道機関へのジョスパンの立候補を報告するファックスの送信ボタンを押したのは、ジョスパンの息子となったダニエルだった。デリダは首相時代のジョスパンの政策に批判的であったとはいえ、これが私怨ではないと言い切れるだろうか。一方でデリダが批判するように、シルヴィアヌの2001年に出版された『性の政治学』が「生物学主義と保守主義がはっきり刻まれ」たものであったというのは、私怨とばかりはとはいえないところもあろう。
デリダは「無条件の歓待」の観点からジョスパンの身分証のない人々への政策を批判し、一方シルヴィアヌはデリダの主張が非現実的であるとなじり、「実際の現実を思考することを放棄している」と批判した。どちらの意見ももっともなところもあるが、感情のもつれも作用しているだけに起きなくていい争いが起こってしまっているようにも見えてしまう。

なおシルヴィアヌは著者の取材を断り、またデリダと交わした膨大な量の手紙も公開していない。またデリダはその生涯において極めて例外的に、シルヴィアヌからの手紙を焼き捨てたようだ。
なおダニエルは2004年7月、つまりデリダの死の三ヶ月前に若干二十歳で難関の高等師範学校の入学試験に合格しており、すでに病が進行していたデリダがそれを知らされていたのは確実だとしている。ダニエルはさらにその3年後に哲学教授資格試験(アグレガシオン)にトップで合格することになる。

シルヴィアヌとの一件と関係あるのかはわからないが、デリダは二人の関係が深みにはまりだしたころ、なぜか赤いインクで手紙を書いていて、中にはこれを非常に不快に思っていた人もいたそうだ。気分が荒れていたせいなのか、それとも全く無頓着にそこいらにあるインクを使ってしまったのかはわからないが、赤インクで書かれた手紙というのはなかなかに強烈である。





このようにデリダという人物はエキセントリックな面も多々持っていたのだが、裏を返すとこれこそがデリダもまた「普通」の人間であるということを表しているのかもしれない。徹底して世を拗ねた隠者でもなければ、また度し難い俗物であったというのでもない。他人には伺い知ることのできない内面を抱えたミステリアスな人格でもあり、また下世話な世界に生きる人物でもあったのだ。


フーコーやサールとの論争では陰湿といっていいほどの論法を取ることになる。アメリカでのデリダ受容に大きな役割を果たした盟友でもあったポール・ド・マンが、その死後にベルギー時代に反ユダヤ主義の記事を書いていたことが暴露されたド・マン事件への反応では、その感情的な対応はむしろ火に油を注ぐような恰好になった。僕の個人的な印象ではデリダはド・マンの友人としての立場を優先させ過ぎたのではないかと思ってしまうのだが、言葉を変えると冷静さを失うほど今は亡きこの友人のことを大事に思う友情のなせる業でもあったのだろう。

チェコスロヴァキアの反体制派を支援するために同国に入り、その帰路に当局にはめられて「麻薬密売」の罪で逮捕されたプラハ事件の際は、反目しあっていたかつての友人たちが支援の手を差し伸べる。激しくやり合っていたフーコーとは和解に向かうことになるが(しかし再び友情を築くにはフーコーに残された時間はなかった)、フィリップ・ソレルスとはカクテル・パーティで顔を合わせそうになっても席を外すといういささか子どもじみた態度を崩さなかった。

こういったエピソードは、デリダの理解し難い性格を表すものというよりも、誰の中にでもあるものが少々極端に出る傾向にあることを表しているのだろう。陰湿で底意地が悪い面もあれば、犠牲を払おうとも友情を何よりも大切する面は、誰もが少なからず持っているだろう。


国際問題となったこのプラハ事件が起こったとき、マスコミはデリダのまともな写真一枚持っていなかったというのは有名なエピソードである。デリダはデビュー以来写真の提供を拒否しており、ハイデガーを援用していることもあって神秘化されると同時にどこか不気味な印象も与えたことだろうし、ここにもかえって少々芝居がかったものを感じ取れないこともない。ブランショは生涯に渡って写真の公表を拒否しし続けたが、デリダはこの事件以降写真はもちろん、ついにはテレビにも出演し、密着ドキュメンタリー映画の製作まで許すことになる(ちなみにこの映画で音楽を担当したのは坂本龍一)。




デリダがこのように「スター」としての役割を引き受けるようになったのにはいくつかの理由があろう。自己顕示欲のなせることだというのを完全に否定はできないであろうし、女性関係においても影響を与えた。一方で知識人としての責任を真摯に引き受けるようになったという面もあろう。80年代にはハイデガーのナチス加担の過去が改めてクローズアップされ、前述のド・マン事件も起こる。デリダや「イェール学派」に不快感を持っていた勢力(これはマルクス主義者から保守派からまで、左右に幅広くいる)は、デリダとその一派をナチスと親和性があるかのように激しく攻撃した。こういった事情に加え、ソ連邦の崩壊もあってマルクスの失墜もあり、デリダはここで正面から論じてこなかったマルクスと向き合い、また「正義」の問題に取組むこととなる。対立していたハーバーマスとも共闘するなど、ベタな左翼と見られるのを怖れずに、そしてかつてと比べると遥かに平易な言葉で積極的に発言するようになっていく。

写真や映像の件を堕落だと感じて失望を覚えた人もいただろうし、また伝統的なフランス知識人的な振る舞いをしていくことにもとまどいを感じた人もいただろうが、僕自身は、こういった変化はデリダという人の人間性についてどちらかというとむしろ好意を持ってしまうところでもある。

本書はデリダを聖人化するものではないし、偶像破壊を試みるものでもない。誰においても、人によって様々な評価をされるし、デリダもまた例外ではない。ある教え子はデリダの熱心さと誠実さとを称え、また別の教え子はその権威主義や猜疑心を批判する。友情に溢れた行動を取ることもあれば、人間関係を敵と味方とに分類し、利敵行為と映る言動を取った人とはあっさりと関係を絶ち疎遠になることもしばしばである。よく言えば繊細、悪く言えば感情的な反応を抑えられない傾向にあった。フーコーとは和解に向かったがソレルスと疎遠のままで終わった。また同い年で学生時代からの友人であったブルデューとは一度関係が悪化するとなかなか修復できず、その手掛かりをつかんでも両者ともに近寄ることができなかったようだ。一方で年長で不仲であったリクールとは晩年にいい関係を築くことに成功した。同年代より世代が離れていたほうがかえって何とかなるというのも、よくあることかもしれない。

自分は「ジャッキー」という名を捨てたにも関わらず、息子のピエールが「デリダ」という姓の重みを避け、『オッカムのウィリアム』という博士論文を出版する際に母方からとったアルフェリという姓を名乗ったことにショックを受ける。この話を聞いたレヴィナスはその決断を褒めるのだが、デリダはこれを裏切りのように感じた。息子二人は学業は優秀であったが哲学から離れていく。これは偉大すぎる父親を持つ身とすれば当然のことのように思えるが、デリダにはそうは思えなかったようだ。ラカンの後継者問題を考えても、近親者が同じジャンルにいることはやっかいごとを引き起こすことが多いが、そういった配慮はあまりなく、とにかく子どもを過保護なほど溺愛しがちであった。後にピエール・アルフェリが自伝的な小説を書くと、周囲にこれを読むように勧めていたという。


「自分がフォワードもディフェンスも務めるこのフィールドに場を占めることで、彼は慎重になり、警戒心に満ち、少々妄想的〔パラノイアック〕にさえなった。成功を収めたとはいえ、彼が感じていたのは脅威だった。指導者的な立場にいるときでも、特に制度的な面が絡んでくると、彼はこれまで一度ならず酷い目にあったことから来る被害者意識を捨てることができなかった」(p.577)。

ベルナール・スティグレールは、「彼の態度にはどこか子どもじみたところがありました。それは果てしない愛の欲求です」と語っている。しかし愛されたいという感情は一方的なものではなく、「過度に感傷的で、極度に無私なところがあったのだ」と振り返っている。


あの人があと十年遅く生まれていたら、あるいはもう十年長く生きていたら、というのはつい想像してしまうことであるが、デリダの場合はどうだろう。
デリダは「溜まりに溜まった学生たちの博士論文、修士論文、その他の学生のレポートに加え、取るに足らない書類までどっさり」保存していた。そして古くなったコンピューターも処分することなく取っておいた。こんな収集・保存癖のあった人物にとって、コンピューターは待ちに待ったものであったことだろう。86年にパソコンを導入すると、「途方もない記憶力と文書保存能力」を持つパソコンなしに仕事をすることはできなくなった。「いまやわたしはこの小さなマックなしで済ますことはもうできません。以前にこれなしで自分がどんなふうにやっていたのけていたのか、思い出すことさえもうできないのです」とすら語っている。

パソコンはまたデリダの新しいパラノイアを刺激することともなる。使い始めて間もない頃は、スクリーンにトラブルを示す爆弾マークが現れるとパニック状態に陥ったが、徐々に使いこなせるようになっていく。しかしこれは、「テクストを失うという恐ろしい危険と隣合わせ」であり、最初の頃は実際に何度も起こった。デリダは複数のパソコンにデクストを分けて保存しなければ外出もできなくなってしまう。空き巣や火事にそなえて十個のファイルのコピーを別々の場所に置く。自宅を長期に離れるときにはさらに不安がつのり、複数のフロッピーを、一つは自分で持ち、一つはスーツケースに入れ、さらにもう一つを妻や兄に託した。「テクノロジーの発達に伴うノイローゼともいえます」と自分で語っている。

デリダは「家に水道が通っていないことよりも、ホテルの部屋にテレビがないことのほうを気にするのです」というほどのテレビ中毒でもあった。日曜の朝はエアロバイクをこぎながらイスラム教やユダヤ教の宗教番組を見、アメリカではテレビ伝道師の放送を熱心に見ていた。デリダをもっとも熱中させたのはアメリカの議会中継で、「コントラ」事件の証言も見ふけったが、これらは「証言や偽りの宣誓を取り上げたその後のセミネールに影響を与えないわけがなかった」。

このあたりを読むと、SNSにどっぷりはまり炎上を繰り返してそれをネタに本を書くなんて人がいるが、デリダも長生きしていればあるいは……なんてことを想像してしまったりもする。


デリダは2004年に亡くなるが、同じ1930年生まれのジャン=リュック・ゴダールはまだ元気に新作を撮っている。アルジェリアのさして裕福ではないユダヤ人として生まれたデリダは、家族の尽力もあってアルジェリア情勢が緊迫しているなか兵役期間をアルジェリアで元兵士の子どもへの教育や翻訳などを行う文官として過ごすことができた。ゴダールは銀行家の家系に生まれたお坊ちゃんで、スイスとフランスの二重国籍を持ち、これを利用して兵役を逃れた。デリダと盟友関係にあったソレルス率いる「テル・ケル」はマオイズムの熱狂に染まるが、学生時代の友人に中国の専門家がいたデリダは文化大革命の実態をある程度知っていたようで、熱狂に染まることなくソレルスとは袂を分かち、極左を拒否することになる。『中国女』でマオイストを描いたゴダールは60年代後半以降さらに極左化していく。と、この同年生まれの二人は線が交わることなく生きてきたようだ。

本書にもゴダールへの言及もあるが、デリダはゴダールをあまり高く評価していない。デリダは映画を見るのが好きだったが、ドゥルーズのような「シネフィル」ではなく、映画評論をするのでもなく、もっぱら個人的楽しみとして見ていた。アメリカの娯楽映画が好みであり、映画はあくまで大衆のためにあるべきだという立場だったようだ。デリダにとってはウッディ・アレンですらあまりにヨーロッパ的すぎた。そのウッディ・アレンの『地球は女で回っている』の原題はDeconstructing Harryであるが、デリダはこのような「脱構築」の安易な使用に不快感を持っていた。ウッディ・アレンもデリダにはまっていたわけではなく、こういったアカデミズム内での流行現象を茶化す意図が強かったのだろう(そういえばウッディ・アレンは『ゴダールのリア王』に俳優として出演し、ゴダールはそれを利用してウッディ・アレンのドキュメンタリーも撮っている)。




ゴダールもかつてはデリダを否定的に評価していたが、最新作『さらば愛の言葉よ』ではデリダの『動物を追う、ゆえに私は〈動物で〉ある』からわかりやすい形で引用を行っている。このあたりゴダールに心境の変化があったのか聞いてみたいところだが、まともな答えが返ってくるとも思えないが。

デリダは「動物」の問題に関心を寄せ、「筋金入りの菜食主義者」である友人のアヴィタル・ロネルに触発され菜食主義者だというようにすらなったが、ロネルはこう語っている。「ある日、彼が肉食の頂点ともいえるタルタル・ステーキを食べていたとわたしい告げ口する人がいました。わたしは彼に裏切られたように思ったものです。わたしがそれを彼に話すと、最初のうち彼はわたしを警察呼ばわりしました。でもそのあと、茶目っ気を出してこういったのです。「ぼくは時々肉を食べる菜食主義者なんだ」」。

しょうもないおっさんのようだが、どこか憎めないし、ゴダールにもこういうところがある。付き合うのならゴダールよりデリダの方がまだ楽そうだが、一度地雷を踏むと辛辣かつ陰湿な罵倒が跳ね返ってくるところはどちらも似たようなものかもしれない。別に世代的なものということではないのだろうが。





デリダについて偉そうなことをいえるほど理解しているわけではないが、入門書を一冊あげろといえば高橋哲哉のこれがなんだかんだで今でも一番かもしれない。最近講談社学術文庫に入りましたね。



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