『セッション』

『セッション』

「ジャズファンでなくとも楽しめるのではなく、ジャズファン以外なら楽しめる、音楽映画の皮を被ったスポ根映画」。とりわけTBSラジオのリスナーにとって何かと喧しいこの作品を見る前は勝手にこういったものだろうと先入観を持ってしまっていたのだが、実際に見てみるとこれは音楽映画としていいのかは微妙なのはもちろんのこと、「スポ根」映画としていいものかも迷うような作品であった。ではいったい何についての映画だったのかというと、それは主人公アンドリューの「父殺し」ならぬ「父探し」の物語だったのではないだろうか。それも歪んだ形の。


以下ネタバレもありますので未見の方はご注意を。




冒頭一人ドラムを叩くアンドリューの前にフレッチャーが現れる。アンドリューの存在を認識はしているが、認められたとは程遠い対応をされる。続く場面でアンドリューは父と映画館にいるが、ポップコーンにトッピングのレーズンを買ってくるものの、最早それはアンドリューの好みではなく、その事を隠そうともしない。仲の良さそうな親子に断絶がすでに生じていることを暗示させる。アンドリューがレーズンを買った相手はニコルであり、この後アンドリューはニコルに告白する。「親密」な存在が父からニコルへと移りかけるのだが、せっかく叶ったかに思えた恋をアンドリューは自ら破壊する。なぜならもう彼には、自分を望む形で受け入れてくれる可能性のあるフレッチャーが、手の届くところにいるようになっているからだ。

アンドリューは認められたい。しかしそれは息子として、恋人として、あるいはアンドリュー・ネイマンとしてではなく、偉大なジャズ・ドラマーとしてである。父親にもニコルにも、彼のこのエゴを満たすことはできない。それができる可能性があるのはただ一人、フレッチャーだけだ。フレッチャーのバンドに呼ばれた後、学校の内部からも外部からも、フレッチャー以外の「権威ある存在」からアンドリューのテクニックが肯定的にも否定的にもほとんど論評されないことに注目してもいいだろう。アンドリューの視界にはフレッチャーしかいない。ここでの「父」とは乗り越えるべき存在としての父ではなく、権威を付与してくれる存在としての父なのである。

アンドリューは自室の壁にロックを否定しジャズを特権化する言葉を貼っているが、これはアンドリューの歪んだ精神性を表しているかのようだ。彼はジャズが素晴らしいからジャズ以外が目に入らずに偉大なジャズドラマーとなることに命を懸けているのではなく、ジャズが特権的な存在であるからこそ偉大なジャズドラマーになりたがっているようにも思えてしまう。大学のフットボールの三部リーグでいくら活躍しようとも無意味であるように、ロックで一流のドラマーになろうとも、それはアンドリューの「偉大」でありたいというエゴを満たすことにはならない。

アンドリューは「父」を求めている。それも彼を一人の人間として尊重してくれる父ではなく、自分を「偉大」だと認めてくれる、少なくともその足がかりとなる権威ある存在を。この作品はフレッチャーのサディスティックな指導法に注目が集まるが、アンドリューとフレッチャーが共依存関係を確立するまでを描いたものだという雰囲気で幕を降ろす。アンドリューがついに「父」を見いだし、二人はバンドを置き去りに二人だけの世界に篭っていく、少なくともアンドリューの感覚では。もっともフレッチャーは「信用できない」人物であることが作中で数度に渡って示されているのだが……


この作品はジャズファンやジャズミュージシャンから相当に辛辣な評価をされることもあるが、これは作中のジャズ考証の杜撰さもさることながら(僕はコルトレーンもいいかもしれないけどやっぱりドアーズとかテレヴィジョンだよね、といった感じなもので、ジャズの知識がまったくなくこのあたりは論じられないが)、単なる無知ではなくジャズミュージシャンやジャズファンへの積極的な悪意とすら思われかねないような部分が癇に障ったのかもしれない。

フレッチャーはスタバで売っている「ジャズ」のCDを馬鹿にするが、その彼が音楽教師として達成できるのはせいぜいウィントン・マルサリスのバンドに教え子を送り込むくらいのことだ。ジャズに無知な僕でも、熱心なジャズファンほどマルサリスのやっていることにどういう感情を抱いているのかはなんとなく知っている。つまり今やジャズをやっている人間も聴いている人間もこの程度のもので、そんな人間がよりにもよって学校で授業を行い/受けながら「偉大」さを求めているというなんとも滑稽な状況を描き、広い世界を見せることなくそこで完結しているかのように、ジャズのイメージをミスリードしているようにも映りかねない。


といっても脚本・監督のデミアン・チャゼルが実際にジャズに悪意を持っているかのどうかは知らないし、現実のチャゼルがジャズというジャンルをどう考えているのかはどうでもいいだろう。ただこの作品を論じるうえで難しいのは(というか難しくしてしまっているのは)、いったいどこまでがチャゼルの意図的なもので、どこからが単なる雑さや迂闊さであるのかというのが見えにくいところにもあるだろう。

ジャズ考証をきっちりやろうと思えばそれほどの手間やカネをかけずとも十分に可能だったはずだが、それを怠ったことは間違いないのだろう。これは「別にこれはジャズを描いた作品ではないから細かいところはどうでもいい」というだけのことだったのかもしれない。
チャゼルが脚本を書いた『グランド・ピアノ』は未見なのだが、音楽映画としては「名作」というよりは「迷作」といったほうがいいようだ。『セッション』の脚本も、とりわけ最終盤の展開は滅茶苦茶とすらいっていいほどだろう。

アンドリューはついにフレッチャーにキレて学校を放逐される。一方のフレッチャーもその指導法により実質的に学校を追われる。二人は偶然再会し、フレッチャーはフェスに出演する自分のバンドにアンドリューを誘う。アンドリューはフレッチャーが自分を必要としてくれていたのだとうれしくなるが、実はこれはフレッチャーの仕掛けた罠なのであった……というのだが、ここはいくらなんでも無理がありすぎる。

アンドリューには教えずに曲目を変更して失態を演じさせ、彼のキャリアを完全に終わらせようとするのだが、これではフレッチャー自身のキャリア(当然すでにかなりまずいところに追い込まれている)も終わってしまうし、仮に彼が自分を道連れにアンドリューを地獄の底に叩き落す覚悟であったとしても、他のバンドのメンバーがこれを受け入れるとは思えない。他のメンバーにはちゃんと楽譜が渡されているのにアンドリューにだけこれがないという状況なのだが、新しいドラマーが入ったにもかかわらずリハーサルなしのぶっつけ本番というのはあり得ないだろうし、しかも緘口令がひかれていなければフレッチャーの計画はご破算になってしまう。他のメンバーには一文の得にもならないばかりか自分たちまでとばっちりをくらってしまうことになるが、どうやって納得させたのだろうか。

フレッチャーというキャラクターはしばしば『フルメタル・ジャケット』のハートマンと比較されるが、ハートマンの言動はただサディスティックに理不尽であるのではなく、「普通の若者」を「兵士」に変貌させるという点で彼なりの合理性に基づいているし、それは「成功」してもいる。一方のフレッチャーの言動はただの理不尽さとしか思えない部分が少なからずあるし、それがうまく回収されることはない。

このように、『セッション』の脚本はよく練られたものというよりはかなり「雑」なものとしたほうがいいだろう。
無駄に長い映画が多い昨今、106分でまとめたというのは評価できるといえばそうなのだが、父やニコルとの関係やアンドリューの心理などをもう少し丁寧に描いてもよかったのではないかとも思う。
細部を大胆に省略することで小気味よさが生まれる作品もあるが、『セッション』では細部がきちんと詰められていないだけという感じもしてしまうし、それが(おそらくは「悪意」ではない)ジャズ考証の杜撰さという形で表れているのだろう。
例えば楽譜紛失事件は、アンドリューの意識的な犯行なのか無意識の犯行なのか本当に紛失したのか真相が明らかにされないが、状況からすると故意を疑われても仕方ないので嫌味を言われる程度で済んでしまうというのは不自然だが、これはピンチをチャンスに変えて、アンドリューを舞台に立たせる以上でも以下でもないのでこれで構わないということだったのだろう。その他にも「細かいことは気にしない」という、大胆さというか雑さが散見される。


しかし同時に、この「雑」さがある種の効果を生んでいる部分もあるだろう。
この作品が「音楽映画の皮を被ったスポ根映画」であって、ウェルメイドな脚本であれば最終盤にはこんな展開を持ってきたかもしれない。

・クソ野郎に思えたフレッチャーは実は生徒思いのいい教師であり、最後にそのことが明らかにされる。
・アンドリューは徹頭徹尾クソ野郎であるフレッチャーと訣別し、眠っていた音楽そのものへの情熱を蘇らせる。
・実際にクソ野郎であったフレッチャーだが、アンドリューの必死の姿に心打たれ、忘れていた音楽そのものへの情熱をとり戻す。

いずれもスポ根ものにはよくある展開だが、前述の通り『セッション』では二人の世界へと引き篭もっていくかのような、奇妙とも思えるエンディングが待っているのである。
この「変な感じ」が魅力になっているといえばそうで、もしこれを「きれいな話」にまとめようとしていたら脚本の「雑」さがノイズにしかならなかっただろうが、むしろご都合主義的に破綻しているかのようなストーリーが、この奇妙な世界の味になっているようにも思えてくる。


この作品に肯定的か否定的というと、僕はどちらかというと否定的な評価に傾くが、かといって虫唾が走るほど嫌いかというとそこまでではなくそれなりには楽しめたし、この作品を好きだという人のことも理解できる。
音楽の使い方は個人的な趣味としては洗練さからは程遠く感じたし、チャゼルは自身もジャズドラマーを目指したことがあったようだが、それこそクラリネットも吹くウディ・アレンの作品のジャズの使い方と比べると「大人と子ども」のような印象もしてしまうのだが、そういった「洗練」さを蹴散らすかのようなエネルギーをこそ描きたかったのだろうし(その結果としてジャズファンの顰蹙を買うことになったのだが)、そのあたりをどう捉えるかは趣味の問題かもしれない。

見終わった後には肯定的にしろ否定的にしろそこまで熱くなるほどの作品なのかなあというのが正直なところであったのだが、こうやって思いつくままにダラダラ書いていると、なんだかんだで結構楽しんだんじゃないかという気分になってくる。
『セッション』は教科書的な意味で出来のいい作品というよりも、いい方向にも悪い方向にも転びかねない危うさと豪胆さとがあり、それこそが魅力とも欠点ともなっている、「変な映画」であるのではないだろうか。


まあアンドリュー君も若いのだから、ローゼズのこれでも聴けばよかったのにね。タイトルも歌詞も含めて。ギターもベースもドラムも超絶テクでヴォーカルはこんな感じだが、やっぱりイアン抜きのローゼズなんてあり得ないもん。





プロフィール

Author:佐藤太郎(仮)
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