ZEITOUN

デイヴ・エガーズ著 ZEITOUN




エガーズは小説家であり高い評価を受ける文芸誌McSweeney'sの創設者であり、またノンフィクションも精力的に執筆している。ZEITOUNは2005年のハリケーン・カトリーナとその前後のアメリカの社会状況に翻弄された一家を描いたノンフィクションである。


アブドゥラフマン・ザイトゥーンは非常に「アメリカ的」な印象を与える人物だろう。シリアからの移民であり、裸一貫の労働者から始めて今や10人ほどの人を雇う塗装会社の経営者にまでなった。勤勉さと誠実さで仕事においてもコミュニティにおいても信頼を集める存在であった。

叩き上げの経歴だけでなく、その精神においてもまた「アメリカ的」かもしれない。巨大ハリケーンであるカトリーナの接近でついに避難勧告が出され、妻のキャシーと子どもたちは親戚の家に向かうが、ザイトゥーンはこれを拒否し、一人家に残ることにする。彼はこう言う。「うちを見守らないとな。近所の家も。屋根に小さな穴が開いても俺が修理できれば問題ない。でも修理できなければ、家全体が駄目になってしまうだろ」。
セルフ・メイド・マンらしい「自立」の精神は、よくも悪くも一種のヴィジランティズムとも結びつくことともなる。

しかしザイトゥーンはまた「アメリカ的」なものからは外れている一家でもある。アブドゥラフマンはシリア出身のイスラム教徒であり、妻のキャシーはアブドゥラフマンと出会う前にイスラム教へと改宗している。
キャシーがヒジャブを身につけていることからも窺えるように、夫婦は二人とも信仰心が篤い。とりわけ9・11以降は、アメリカ合衆国でイスラム教徒が生きていくのには様々な困難がつきまとうことになるが、この夫婦も様々な差別に直面したこともあった。

本書はハリケーン・カトリーナの接近から襲来とその後の出来事が刻々と描かれる中に、ザイトゥーン一家のこれまでの歩みがフラッシュバックのように挿入される構成となっている。


ちなみにキャシーを改宗に導いたのは日系アメリカ人のイスラム教徒、ユウコである。
日本関係でついでに付け加えておくと、ザイトゥーンの兄は世界旅行をしたことがあり、それを回想するという場面があって数枚の写真も収録されているのだが、そこには「1976 Tsukumi - JAPAN」とキャプションがつけられているものがある。これは大分県の津久見なのだろうか。特に津久見に関するエピソードには触れられていないし、何か目的があって立ち寄ったのかたまたま通りかかっただけなのかもわからない。兄と車と普通の街並みが映ってるだけなのでなぜこれを収録しているのかはちょっと謎ではあるが、日本での写真がこれしか残っていなかったのかもしれない。
さらについでにもう一つ日本絡みでは、ザイトゥーンの娘たちはポケモンが好きなようで、やっぱり向こうで本当に人気があるんだなということも再確認できる。


閑話休題。

ザイトゥーンはカトリーナと対峙することになるが、雨漏りや窓が割れるといった被害はあったものの、家は致命的な損傷を受けることはなかった。カトリーナも去り、もう大丈夫かと思った時に異変に気付く。水が押し寄せてきたのだ。堤防が決壊し、街全体が水没してしまうのである。

ザイトゥーンは以前に購入していたカヌーを漕いで、水に覆われた街の様子を窺う。
フォークナーの『野生の棕櫚』はミシシッピ大洪水を背景にしているし、パリ郊外で洪水が起こるとトリュフォーはカメラを担いで即興で撮影し、ゴダールの天才的編集テクニックによって短編映画「水の話」となった。不謹慎ながら、洪水によるカタストロフィックな神話的イメージという非日常的光景は、少なからぬ人にとって心そそられるものがあるのだろう。ザイトゥーンも水によって閉じ込められていた老婦人を救出したり、孤立して哀しく鳴いている犬たちを見つけ出しては水や肉を与えることに、近年にない満足感を覚えてしまう。

一方キャシーは、避難生活が長引くと親戚とギクシャクし始め、親友のユウコの家にやっかいになることにする。ザイトゥーンの携帯電話の充電は切れてしまったが、生きている固定電話を見つけて連絡を取り合うことができたものの、キャシーはザイトゥーンの言動に苛立ちもつのってくる。
そのうちに、ザイトゥーンからの連絡が途切れてしまう。ニューオーリンズの治安悪化のニュースが伝えられ、夫の身に何かあったのかもしれないと不安にかられていると、一本の電話がある。聞きなれない、緊張した男の声だった。「ミセス・ゼイトゥーンですか」と、名前の発音を間違えている。男は宣教師と名乗り、夫がハントの刑務所に収容されていて、彼からこの番号を教えられたことを告げると、これ以上は何も言えないと電話を切ってしまう。

ザイトゥーンは身柄を拘束されていたのである。
武装した兵士に取り囲まれ、手荒な扱いを受け暴言を浴びせられた。知人と共にどこなのかわからない場所に隔離されると、電話一本かけることすら許されず、屈辱的な扱いを受ける。いったい何が起こっているのかわけがわからない。そして兵士は彼に向かって、ついにこう言ったのである。「お前らはアルカイダだろう」。


エガーズがこの話を描こうと思ったのは、一つにはこの人権侵害が広く認識されるべきで、ザイトゥーン以外にもこのような扱いを受けている人々がたくさんいることを告発したかったからだろう。またそれのみならず、これは非常に「アメリカ的」な話であると映ったからなのかもしれない。やる気と能力があれば移民であろうとも成功できるアメリカン・ドリーム。良き夫、良き父、そして良きコミュニティの一員としての自立した生活は信仰心もその支えの一つとなっている。しかしその信仰が、マジョリティに受け入れられないものであったらどうなるだろうか。とりわけ9・11以降は、猜疑心と恐怖心と傲慢さとが絡みあい、司法手続きは原則的なものがないがしろにされ粗雑に暴走していく。ザイトゥーンの体験は極めて特殊であると同時に、2000年代のアメリカ合衆国の雰囲気を映し出す鏡ともなっているとすることもできるのかもしれない。何よりもカトリーナが生んだ悲劇は、単なる自然災害ではなくブッシュ政権のお粗末な対応によって被害が拡大されたことを思えば、「アメリカ国民の安全を守る」というのがいったい何を意味するのかを考え込まずにはいられなくなる。


本書は2009年に発表され高い評価を受けるが、実は話はここで終わったのではない。本書の中でもキャシーはかなり追い詰められた状態にあったことが記されているが、そのことが影響したのか、ザイトゥーン夫妻はその後離婚してしまう。そればかりか、アブドゥラフマンは他ならぬキャシーから、彼女や息子の殺害を計画したとして告発されてしまうのである(息子はキャシーの最初の夫との間の子)。結局は無罪判決が出たが、こちらの記事を読むとキャシーはこれに納得していないようである。

はたしてこの殺人計画が信憑性のあったものなのか、あるいはキャシーの被害妄想なのか、元夫を陥れようとしたものなのかはわからないが、これがアブドゥラフマンやキャシーの過酷な体験によってもたらされたものだとすれば、「堕ちた英雄」の話ではなく、深刻な後遺症の表れと考えるべきことだろう。


なおウィキペディアにジョナサン・デミによって映画化とあるが、この話はどうなっているのだろう。広く読まれるべき価値のある本だと思うので翻訳も出てほしいが、映画が完成されたらその可能性も出てくるのかな。

あとザイトゥーンのシリアでの幼少期の記憶がノスタルジックにも描かれているが、エガーズが本書を執筆した頃にはシリアが現在のような状況になるとは思いもよらなかっただろうし、そのあたりもいろいろと複雑な感情がよぎる。


ところで本にはZeitounについて pronounced “zay-toon”とあるのだけれど、この動画を見ると「ザイトゥーン」っぽくもあるけど「ゼイトゥーン」っぽくもあるような。





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佐藤太郎(仮)

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