『人間と国家  ある政治学徒の回想』

坂本義和著『人間と国家  ある政治学徒の回想』




2014年10月2日に亡くなった政治学者坂本義和の、2011年に出版された自伝。

義和の父、義孝は南カルフォリア大学に留学中に、やはり日本から同じ大学に留学中だった太代子と出会い結婚することになる。義孝が修士課程を終えるころに結婚を申し込んだようだが、太代子は義孝がコロンビア大学で博士課程に進む予定だったことから「博士号をとるまで結婚しない」と未来の夫に発破をかけたそうだ。さらに義和自身も、後にやはりアメリカ留学中に同じく留学中だった妻と出会い、「自然の「ことのなりゆき」」でそのまま結婚することになる。

と、こう書くと坂本家は代々特権を享受してきたエリートのように思われるかもしれないが、そうではなかった。
坂本家は元々は福島で生糸生産の小企業を営んでいたが、日露戦争の頃に先物相場に手を出し失敗し破産してしまう。義孝は学業を続けるには学費のかからないところを探すしかなかった。当時福島県には「県費制度」という奨学金制度があり、ちょうど上海に新設された東亜同文院に入学することができた。もちろん義孝は頭脳明晰であったので奨学生になれたのだろうが、頭が良いだけでは学業を続けることはできなかった。教育を通じての再分配制度の重要性がよくわかるエピソードだろう。

東亜同文院は「日清の「教育協同」」を掲げる根津一が約20年に渡って院長を務めたように、「欧米の侵入に対する「中国保全」を目的としつつ。同時に、日本の中国への経済・文化進出を含意するプロジェクトだったという意味で、近代日本のアジアとのかかわりの両面性をもっていた」。

アメリカ留学を終えると義孝は東亜同文院の教授に就任する。上海では卒業するとそのままオックスフォード大学に進めるセント・ジョーンズ大学のような、英仏米によるレベルの高い教育機関が設立されるようになり、もともとは中国での日本人教育を目的に設立された東亜同文院も1919年に中国人学生を受け入れる決定がされる。しかし五・四運動など日本への反発が高まっていく時期でもあり、実際の受け入れは1年遅れただけでなく、31年には受け入れ自体を中止することになる。

東北出身の朴訥な人柄であり、またクリスチャンでもあった義孝は中国人からの信頼が厚かったようだが、その分苦悩は深かったのだろう。義和は幼少期に、父が母から「もっと頑張りなさい」と激励されていたことを覚えている。これは同文院に失望しきっていた夫に対する叱咤だったのだろう。両親はともに反軍部、反侵略の立場であり、侵略の先兵的な意味合いを持つ同文院で教鞭を取ることには忸怩たるものもあったのだろう。義孝も日本の官憲から中国人を守ろうとできる限りのことをしていた。そして満州事変以降は、反軍部・反侵略の立場を明らかにすると、周囲の日本人の中には「敗北主義者、非国民」呼ばわりして離れていく者も多かった。

第一次上海事変により一家は日本に帰国し、義孝はスイス領事館顧問などの仕事に就く。この間特高から目をつけられ、家にまでやって来て重慶関係者との人脈を問いただされるということもあった。42年に日本占領下で上海の租界が撤廃されると、義孝はセント・ジョーンズ大学の教授として単身上海に戻る。大学側としては日本との緊張を和らげるという目的があったようだ。

戦局の悪化を受けて義孝は家族を心配し45年4月に日本に戻り、日本で敗戦を迎えることになる。「父は、反軍国主義でしたが、やはり愛国者であり、敗戦を喜ぶというより「来るものが来た」とがっくりした様子でした」。
このあたりは、論理的には日本の膨張主義を批判せざるをえないが、心情的には擁護してしまうという、当時の日本の知識人の多くに見られた傾向から、義孝のような人物ですら逃れられていなかったということであったのかもしれない。

そのせいなのか、義孝は敗戦直後にとっぴょうしもない行動に出ることになる。中国大陸にいる日本人が必死に日本に戻ろうとしているなか、「上海に帰る」といい始めたのだ。もちろん母は反対したが、「中国が自分の生きる場所だ」「中国人は信用できるが、日本人はできない」「中国人は一旦信頼関係ができれば決して裏切らない」と言い張り、8月下旬に日本から中国に向けて最後に飛んだ非武装の軍用機に乗って中国へ戻ったのである。
侵略を正当化し義孝を攻撃した日本人を許せないという思いがそうさせたのか、あるいは自身も結果として侵略政策に手を貸してしまったという罪悪感がそうさせたのか、あるいは敗戦のショックだったのだろうか、このあたりの正確な心理はわからない。

義孝はおそらくは北京に降り立ち、汽車を乗り継いで上海にたどり着いたとみられる。途中で自分の握り飯を他人にあげてしまうなどしてひどく憔悴しきり、知人の家にころがりこむと三日間眠り続けたそうだ。
上海に国民党軍が入城してくるのを薄汚れた中国服を着て見ていた義孝に声をかける者がいた。馬に乗って進駐してきた高級将校が、群集の中から義孝を見つけ出し、馬から降りて「先生、お久しぶりです。先生は、是非上海に残ってください」と握手を求めてきたのだった。義孝は27年の蒋介石による反共クーデターの際、共産党員の疑いをかけられて銃殺されかけた同文院の学生を助け出していたが、あるいはこの将校はこの時の学生だったのかもしれない。さらに時代は下って、83年に義和が中国を訪れると、外交部で会った一人が、「私はセント・ジョーンズ大学で坂本先生に教わった者です」と声をかけてきたそうだ。

上海で義孝はセント・ジョーンズ大学に戻るが、当然ながら日本人がいられる場所ではなくなっており、日本に帰国することになる。日本人は手に持てるだけの荷物しか持ち帰れなかったが、義孝に親切にしてくれたアメリカ人らの配慮で、大きなトランクが送られてきた。
英語が堪能だった義孝は間組に職を見つけたが、体調を崩し46年5月に61歳で死去する。


と、著者の両親の話だけでも小説か映画にでもしたくなるほど波乱万丈なものであり、本書は坂本義和の政治学者としての生き方のみならず、同時代の目撃者としての証言としても興味深く読むことができる。


その中で興味を惹かれたのが、旧制一高にまつわるエピソードだ。このあたりを読むと、旧制高校的なるもののエートスがよく伝わってくる。

旧制一高は全寮制であり、その入寮式は実に8時間におよび、その間絶対に立ってはならないというルールがあったそうだ。入寮式はプラトンが云々という話から寮生活での心構えについてまで様々であったが、朝の九時から夕方五時までひたすら硬い椅子に座って拝聴しなければならなかった。もちろんこれはイニシエーションの一種だったのだろう。前日から水を飲むなと言われていたそうだが、トイレが近い僕のような人間からすると悪夢の時間にしか思えない。

旧制高校といえばやはりこれという、「ストーム」についても語られている。
「入寮式がやっと終わって、食事をして寝ていると、ストームが始まる。寮の上級生が、寮歌を大声で歌いながら他の部屋の寝室に入ってきて、「起きろ!」とみんなを叩き起こす。弁論部の場合は、それに代えて、学習室に呼び出され、「説教ストーム」にさらされる。新入生は椅子に座らされる一方、先輩たちは一段高みにある出窓に腰かけて、上から見下ろす態勢になる。電気は消えており、月の光を背にして、先輩の黒い顔や黒光りする眼鏡がこちらを向いている。/「お前はぜここに来たのか」「今考えていることは何だ」などと訊かれ、一言返事をすると間髪をいれず「それはどういう意味だ」と問い返される。返答すると、また「それはどういう意味だ」と反問され、新入生は、だんだん分からなくなってしまう。単純化すると、説教ストームは、これまで持っていた考え方を、徹底的にぶち壊すのが目的なのです。時代が時代でしたから、「国家のために」と言おうものなら、「国家とは何だ」と訊かれる。ついには「お前は何のために生きるのだ」と問いただされ、とにかく怖いのです。一言返答すれば、必ずやられる。そこで黙っていると「どうなんだ!」と責められる。何しろ新入生で入寮したてなので、立場が弱く、言われるままに「説教」され、それが二晩、三晩続くのです」(上 pp.58-59)。

もちろんこれもイニシエーションの一種で、旧制高校の寮ではこのようにしてホモソーシャル的世界を築いていったのだろう。
また旧制高校の場合、寮生活は単なる人間関係の形成にとどまらず、教育の場という面も持っていた。坂本もこのような体験から焦燥感にかられひたすら本を読みまくることになる。

「私にとって、教育と学習の場として一高がもった最大の特徴は、教室での先生よりも、寮の先輩や同輩が、最良の教師だったことです。弁論部では、すでに寮を去った先輩が残したとされる、哲学的・思想的な伝統と伝説が、上級生を通して新入生に伝えられた。これは、いわば上から下へのタテの教育です。これに加えて大事なのは、同輩の間の、人間的・思想的なヨコの相互学習・相互討論でした。/要するに、優れた学識の先生がおられたにしても、学校の影響は二次的でした。したがって、授業をサボって寮で読書をしても、全く良心の呵責を感じないどころか、教室は「知識」を与えられる場所であって、寮こそ「思想」を探求する、本来の学問の場なのだという自負心をもっていました。寮生が、自分たちでする「教育」に絶大な自信をもっていたこと、そして寮の「自治」というのが、単に制度的なものでなく、知的・精神的な自立に根ざしていたことは、今から考えても、すばらしい伝統文化でした。あの「寮文化」のなかで生活する経験をもったことは、幸運でした」(上 pp.61-62)。

坂本はこの「寮文化」のなかには虚栄心や上昇志向があったことも認めているが、しかし動機がそうであろうとも、学習の原動力になるのなら「必ずしも悪いことではない」としている。
旧制高校といえばやはりこれもという「原書主義」にも触れていて、「これも知的虚栄心がまったくなかったかと言えば、嘘になるかもしれません」としている。とはいえ、一高生が英仏独を原書で読みまくっていたということは確かであり、これも「教育」としては効果的であったといえよう。


ヨーロッパではギムナジウムやパブリックスクールの生活に馴染めずに地獄を味わった経験を扱った作品は多いし、旧制高校でもそういった例はあったことだろう。鼻持ちなら無いエリート主義にもなりかねないものを内面化させることの是非はおいといても、僕は『ソーシャル・ネットワーク』なんかを観て、もしアメリカに生まれて親が金持ちで頭がよかったとしても、アイヴィー・リーグの大学になんか行ったら精神的に耐えられないわ~と思ってしまうたちなものなので、旧制高校を神話化したい人の気持ちもわからなくはないが、こういうのを読むとやはりあの空間に入りたいとは思えない。まあ心配するまでもなく、入れなかったでしょうが。


一方で東大入学後に授業を受けた、来栖三郎(外交官じゃなくて法学者の方)についてのこんなエピソードがある。

「来栖先生は非常に謙虚でシャイな方で、学生の顔を見ず、ひたすら講義案から目を離さない。時に声が突如中断するのでノートをとるのをやめて見上げると、姿が見えない。大きな演壇の机の後ろに身を隠して、洟をかんでおられるという具合でした」(上 p.99)。

来栖は府立高等学校出身なのだが、ここの校風はどんなものだったのだろうか。内気なのか上品なのかはわからないが、学生の前で洟もかめないような人が一高の寮に入っていたらどうなっていたのだろうと思ってしまう。


旧制高校が神話化されるのは、それがもう存在しないからである。坂本は第二次大戦末期に旧制一高に入学し、戦後の学制改革を当事者として体験している。体調不良で一時休学し復学してみると、学制改革以前に、「一高的」なるものはすでに崩壊していたようだ。

戦争末期には、誰かが帰省して米や芋を持ち帰ると、同室の全員と分け合うのが当然のことであったが、戦後、坂本が復学すると、自分で得た食料を平然と独り占めする寮生が現れていた。さらにはベッドの周りにシーツを張り、「共同の部屋をコンパートメントに分断」するという、「寮のアパート化」が進行してしまう。坂本はこれを寮という共同体の崩壊であり、また「私利私欲の正当化」という風潮の始まりだったのではないかとしている。

確かにあのような寮生活になじんだ人間にとっては、このようなミーイズムともとれる動きが横行することは嘆かわしく映ったであろうことは想像できる。とはいえ、食料を共有することならできそうだが、僕の場合は集団生活を営む寮の部屋を個室化しようとする学生にどちらかというと共感を憶えてしまうような。

近年一部でアイヴィー・リーグなどにならってエリート大学で寮を復活させろといったことを言う人がいるが、一高の寮の崩壊過程(と坂本のように一高文化に好意的だった人には映ったことだろう)を見ると、形だけまねても仏像作ってなんとやらになるのは目に見えている。もしエリート文化を復活させたいのであらば、あのエートスをまず呼び起こさねばならないのだろうが、それはもう無理だろうし、また望むべきでもないだろう。

宮崎吾朗監督というよりも宮崎駿脚本というべき『コクリコ坂から』からは、60年代の話なのでもちろん新制高校で、学生は旧制高校よりもやや年少であるが、この頃の一部の高校生にはまだ旧制高校的なものの残滓があったのだろうし、宮崎駿はそれにノスタルジーを抱いていることは明らかだ。僕も頭のよろしい方々がエリート教育を施されるというのには必ずしも反対ではないが、近年のこのような議論は非エリートの切捨ての正当化に使われている観があるので要注意であるし、こういったノスタルジーがそれに棹差すことにもなりかねないことには警戒も必要だろう。エリート学校を作るだの寮文化を復活させるだのという前に、義孝が貧しい家庭出身ながらも海外留学まで果たし博士号まで取得できたようなシステムを作ることの方が先決ではないか……と、すっかり脱線してしまったのでこのあたりで。



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佐藤太郎(仮)

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