『インヴェンション』

高山宏 中沢新一著 『インヴェンション』




高山宏と中沢新一による対談集。この二人が対談したら、というのを想像してみて下さい……そう、本書はその予想通りのものとなっている。つまり二人のファンにとってはたまらないものであろうし、逆に興味がないという人には「はあ、そうですか」ということにもなるかもしれない。また中沢に対して倫理的に許せないという人にとっては、まだそういうことを平然と言うかと感じる部分もあるだろう。


二人のことをよく知らないという人にはとりあえずこんなところを。

高山 『ハリー・ポッター』なんか、日本でもあんなに人気があるのにちゃんとした批評が出ないのは、イングランド対スコットランドの本当の問題が理解されていないせいだよね。だいたい「ポッター」って、壺つくりのことだよ。人間が土からこねて作るという、要するにゴーレム思想みたいなものだね。一方で「ハリー」って悪魔のことだからね。特に「オールド・ハリー」といったらサタンのことだ。だから「ハリー・ポッター」って聞いただけで、とんでもないストーリーだってことがわかるはずなんだ。ロマン派本流です。アースダイヴしてる(笑)。現に、ほとんどの話は地下で進むわけでしょ。
中沢 三巻目からはちょっとがっかりしてしまったけど。
高山 最初の二巻は錬金術の基本的な教科書みたいなものだけどね。特に『秘密の部屋』は素晴らしい。そもそものお話の始まりはロンドンのキングズ・クロス駅だけれど、あれ東京でいったら上の駅だよね。
中沢 あそこから北へ向かっていく。
高山 あのかかっている時間を計算すると、だいたい行き先はエジンバラとかのあたり。つまり、魔術があるのはスコットランドですよという、『マクベス』以来のイングランド人の思い込みだ。ジェイムズ一世というのは悪魔の研究家なんだよね。ジェイムズ六世というのがスコットランドの王様だったのを、エリザベス一世に子どもがないのをいいことに、「俺、縁者だよ」とかいいながらロンドンに入り込んできたわけだ。日本でいえば、伊達政宗が江戸城も支配しちゃったみたいな状況なんだよね。江戸っ子にしたら「ぶっ殺すぞ、てめえ」っていう話じゃない(笑)。/そういう当たり前のことが全然わかっていないから、『ハリー・ポッター』はおろか、ピクチャレスクの問題もわからない。ピクチャレスクというのは、戦争で勝っちゃったイングランドがスコットランドをなぜ欲しいと思うのかという問題でもある。そのといの理屈が、「スコットランドにはピクチャレスクな新しいタイプの美がある」というものなんだね。だからそれ以降、貴族が土地をとりにいくときには、必ず測量技師一人と、職業になったばかりの風景画家というのを一人連れていくようになるんだ。
 (pp.63-65)


また「たとえばイギリスはイングランドとスコットランドの弁証法がきつくて、ロンドンとエジンバラはいわば敵と味方、天国と地獄。日本にはそれがないから。お上と下々なんて曖昧な概念を口にしたって、実際は中心と周縁なわけだ。その周縁もmarginalよりもeccentricの方が面白い」(p.127)と、高山の専門が何かと考えれば当然のごとく、イングランドとスコットランドに触れている箇所も多い。


そういえば『ハリー・ポッター』の著者のJ・K・ローリングはスコットランド独立反対運動に多額の寄付をしていたことが明らかになって話題になったし、また先のイギリスの選挙でもスコットランドは何かと注目を集めた。
なお本書収録の対談は1999年に行われたものもあるが、基本的には2013年に行われたものなのでスコットランド独立問題などについては触れられていない。


高山は「都立大学と呼ばれた大学の消滅の末期、石原知事と闘っているときにいちばん問題があったのが経済学部」だったとふり返っている(p.154)。
経済学部の一部から「英文科の人間なんかに、英語を教わりたくない」と言われ、経済学を「九九%数学としか見ていない連中」はマルクスの『資本論』を読んだことがなく、『ロビンソン・クルーソー』のダニエル・デフォーの話をすると「何でそんな子供向けの冒険小説を、われわれ金融工学の人間が知っていないといけないんだ」という反応だったことに呆れている(このあたりは少々戯画化している気もするが)。高山はデフォーの『グレイトブリテン全島周遊記』を経済学部に限らず教養課程で全学部生に読ませるべきものであるとし、そういった教養にまるで関心を示さない経済学者との間に「共通の言葉はないな」と嘆息する。

高山が「つまり、スコットランドの経済学を、イングランドの経済学がダメにしちゃった」と言っているように、アダム・スミスなどが本来の文脈から切り離された形で古典派経済学の始祖として切り張りされて都合よく使われているという批判は多いのだが、上記のような「金融工学の秀才」たちはそんなことには一切関心を持てないのだろうが。

現在の経済学の理論において『資本論』や『ロビンソン・クルーソー』が直接に「役に立つ」か否かという問題ではなく、様々な学説にはそれが起こり、広まり、またすたれるにはそれ相応の文脈があり、その成り立ちや経緯を学ぶことは現在の主流、あるいは常識となっている理論を相対化する役割も果たしてくれる。そしてそのような文脈を一切無視するというのは、アダム・スミスの恣意的な誤用に象徴されるように、実は極めて「政治的」な行為でもある。

人文学を学ぶことの意義はまさにそこにある……なんてチンケなことは高山は言わないし、僕個人としても「面白い」と思うからこそこういう本を好き好んで読んだりしているわけでありまして。



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