『モーリス・ブランショ  不可視のパートナー』

クリストフ・ビダン著 『モーリス・ブランショ  不可視のパートナー』




「モーリス・ブランショについての初の、そして現在までのところ唯一の本格的評伝」(巻末に収録されている訳者の一人である郷原佳以による「伝記的なものをめぐる伝記的エッセイ」より)である。
原著刊行は1998年なのでブランショの90歳の誕生日までしか描かれていないが、ブランショに多少なりとも興味があるならば必読であろう(などと偉そうに書いてしまったが、僕自身はブランショのいい読者とはとても言えないのだが、それでも非常に興味深く読めた)。


ブランショの大まかな伝記的事実に関しては割と広く知られているだろう。1930年代に極右の論客として登場し、また『謎の男トマ』を初めとする謎めいた難解な小説も書く。そして戦後は一転して極左的立場から発言を続け、デリダをはじめとして数多くの哲学者、文学者に強い影響を与えた。また写真を一切公表しない「顔の見えない作家」でもあり(ブランショと写真との関係についてはもちろん本書内でも取り上げられており、浩瀚な伝記にも関わらず本書には写真が一枚も収録されていない)、そのこともあいまって神格化、神秘化されることも多い。と、こういったイメージだろう。

78年に行われた渡辺守章との対話でフーコーは(デリダと違いブランショと直接の交遊はなかったが、やはり強い影響を受けている)、学生たちがブランショの存在自体を知らないことに唖然とし、人物と作品を知らしめるための再評価をなすべきこととしているが(『ミシェル・フーコー思考集成Ⅷ』)、一方で70年代頃にはまたブランショの神格化も進んでいたようである。そしてそれへの反発もあってのことだろう、80年代頃にはブランショが極右時代に書いたものを取り上げ、その反ユダヤ主義やファシズム性の告発も広まるようになり、その代表的なものとしてジェフリー・メールマンの『巨匠たちの聖痕』がある。こういったこともあって、「信頼できる著者による「ブランショの伝記」が強く求められる状況」が生じていたようだ。

ブランショの著作はいくつか読んでいるが、僕の頭の出来ではとても読めたとは言えないような有様であるのだが、それでもブランショに(より正確にいうと、ブランショの著作よりもブランショ当人に、あるいはブランショを取り巻く環境に)興味があるのは、まさにこういった状況ゆえのことでもある。

一般的にはその著作を論じる際にどこまで伝記的事実を勘案するかというのは難しい問題でもあるが、ブランショは小説家であり批評家であり思想家であるとともに、とりわけ30年代の極右時代はジャーナリストでもあった人物でもあり、やはり伝記との照応というのは欠かせないのだろう。そればかりでなく、ブランショは写真の公開を徹底して拒む一方で自らの体験については度々触れてもいる。従って本書はブランショの伝記であると共にブランショ論にもなっており、ビダンにとってはこの両者は切り離せないものなのであろう。


ということでどうしてもブランショがなぜ極右となり、極右時代にいかなる言動を取っていたかということに注目してしまう。

ブランショは大学時代にリトアニア出身のユダヤ人であるレヴィナスと知合い、以降濃淡はあれど生涯に渡って盟友的な関係となる。そのブランショがレヴィナスと知り合った後に極右になるというのは現在の感覚からすれば奇妙なものに思えるかもしれないが、クロード・ロワのこんな証言を読むとそれがいかなるものであったのかが想像できるだろう。
「私は、ボードレール、ジョルジュ・ソレル、そしてモーラスからは民主主義に対する批判を、ニーチェ、バレス、そしてスタンダールからは「エネルギーの称揚」を、ランボーとヴァレスからは安定したものに対する反抗を、プルードンとマルローからは漠然とした暴力的な社会主義思想を、そして、ジッドの『地の糧』からは快楽への許しを、それぞれ借り受けていたのです」。
そして「これらの名はほとんどそのまま、当時ブランショが読んでいたと思しきものである」(p.61)。

反資本主義、反共産主義、そして貴族主義は大衆蔑視から反民主主義ともなっていく。平和主義を嘲笑し、毅然たる強さを求めることは当時のフランスのある種の知的な若者を惹き付けたのだろう。この時代のフランスにおいて、極めて高い知性を持ちながら極右化したのはブランショに限らない。そして何よりもブランショは強いナショナリズムを抱いていた。

しかし隣国ドイツではナチス政権が誕生した時代でもある。隣国の極右政権に対してフランスの極右はそのナショナリズムから徹底した批判を行う。戦争を回避しようとする平和主義者などを罵倒すると同時に、ヒトラー政権下でのユダヤ人弾圧を暴き、これを批判した。では当時のフランスの極右が反ユダヤ主義を拒否したのかといえばそうではなかった。ナチスのユダヤ人政策を批判しつつ、同時に反ユダヤ主義的言説もまたばら撒いてもいた。ブランショも参加した『コンバ』誌は、「反資本主義的で「合理的な反ユダヤ中義」に踏みとどまるべきだと主張することで、ファシズムと「卑俗な反ユダヤ主義」に抵抗」しようとするのだが、これは五十歩百歩としかいいようがないだろう。
この時期のブランショが、ユダヤ人の親友を持ちつつも反ユダヤ主義に加担していたことは否定できない。そしてこのような人物像はブランショのみではなく、フランスの極右にはよく見られたようでもある。そして30年代半ば以降は、ミュンヘン協定などをめぐってフランスの極右のナチス・ドイツへの考えは分裂していく。

30年代半ばまでの、その知性が傲慢さと結びついて極右化するブランショの姿はありありと想像することができる。しかし本書を読んでも、30年代後半から40年代前半にかけてのブランショがいかなる姿であったのかは判然としない印象がしてしまう。ブランショは30年代後半には極右から距離を取り始める。しかしその人脈を完全に断ったわけではない。また第二次大戦が勃発し、フランスがあっさりと降伏しヴィシー政権が誕生した後、「失業した芸術家たちに救いの手を差し伸べるべく創設された」<若きフランス>に参加している。<若きフランス>は「ヴィシー政権に依存した組織」であるが、これは経済的事情のみのせいだったのだろうか(もちろんブランショに限らず生計は立てねばならず、物書きにはその選択肢は限られたものである)、あるいは「ヴィシーを利用してヴィシーに反逆すること」の無残な失敗例だったのだろうか。またドイツに囚われた親友レヴィナスの家族のために危険を冒すことも厭わなかったが、『謎の男トマ』などの小説を書いていた40年前後のブランショの内面は、はっきりとした像を結ぶのが難しいようにも感じてしまう。


ブランショは戦後、こう書く。
「定言命法は、カントによって与えられた理念的一般性を失いながらも、アドルノによってほぼ次のように定式化された命令になった。アウシュヴィッツが二度と繰返されないように考え、行動せよ。これはアウシュヴィッツが一個の概念になってはならないということ、そして、ひとつの絶対がそこで到達されてしまい、他の一切の権利や義務はその前で判断されるということを含意している」(『問われる知識人』)。

ブランショは戦後は一貫して反ユダヤ主義と激しく対峙していくこととなる。反シオニズム、親パレスチナを掲げていた極左知識人が70年の「黒い九月事件」で急進的な立場をとらざるをえなくなると、「ブランショは極左知識人たちとの関係を即座に断絶したのである。シオニズム問題それ自体はブランショの関心事ではなかったが、反シオニズムと反ユダヤ主義の事実上の結託、すなわち無知、無自覚、あるいは否認による結託と判断せざるをえないものに関しては、ブランショもこれを容認することができなかった」(p.401)。

シオニズム批判、あるいはスラエル批判を隠れ蓑に反ユダヤ主義を正当化する人々がいることは間違いない。一方でイスラエルという国家の政策を批判することがあたかも反ユダヤ主義であるかのような批判を行い、イスラエルという国家へのあらゆる批判を封じ込めようとする人々もいる。こう考えるとブランショの取った態度は硬直したものにも思えるが、それだけ「アウシュヴィッツ」の衝撃が大きく、またナチスのそれとは異なるものであるとはいえ自らが反ユダヤ主義に加担した過去がそうさせるのだろう。

とはいえ、個人的にはこのあたりにもいささか釈然としない思いが生じてもいた。ブランショは自分の極右としての過去を葬り去り、隠蔽しようとしていたのではない。80年代に極右時代の文章が「発掘」されていった頃に書かれた、ブランショ自身の「私が責めを負ってしかるべきテクスト」についての叱責の言葉には、「いささかも曖昧な点がない」。しかしこれらは書簡という形で行われた。結局はそうされたように、公開されることを前提として書かれたのだろうが、「近しい者たちであれ、誹謗者たちであれ、多くの者がブランショに自伝的な事実の解明を期待していた」(p.461)ことに十分に応えたのかについては留保したくなるところもある。もし「アウシュヴィッツが二度と繰返されないように考え、行動」することこそが定言命法であるとするならば、より公に、そしてもっと直接に自分の過去を明らかにし、それと向き合うべきではなかったのだろうか。


ブランショの知人は、彼をドストエフスキーの『白痴』のムイシュキンのようだったと評している。ムイシュキンは作中で死刑がなぜ残酷な刑罰であるかを語るが、これはドストエフスキー自身が死刑を宣告された体験を語ったものでもある。ブランショもまた、死に迫られた経験をした。

1944年6月、ドイツ人将校が少なくとも12人の兵士に付き添われてブランショたちの<城>にやって来る。「彼はブランショが地下出版に関係していると主張し、家を捜索させ、その間ブランショを壁に押しやり、マシンガンを突きつけて脅す」。マキ団による牽制攻撃のため、このドイツ人将校は遠いところにある戦場へと呼び出される。残された兵士たちはここで身元を明かす。彼らはロシア人で、金品の分捕り品に満足した兵士たちはブランショたちの命を奪わずにおく。ブランショと兄はドイツ人将校が戻ってくることに備え幼年時代からなじんでいた森へと姿を隠すのであった。ブランショは後に友人のマスコロに、「私は消え失せたんだ」と語った。「周りでは農場が燃えている。その高貴さゆえに<城>は見逃されたのだ。こうして、運よく、まったくありえそもない可能性によって、ブランショは解放され、死を逃れた」(p.198)。

わかりやすい物語を提示するなら、極右であった、反ユダヤ主義に加担したブランショはここで死に、もう一つの生を受けたブランショは、「アウシュヴィッツが二度と繰返されないように考え、行動」するために生きるようになったのだということになろう。
しかし、ブランショはこの体験を『私の死の瞬間』としてこう書くことになる。「唯一留まっているのは、あの軽さの感情であり、それは死そのものである。あるいはもっと正確に言えば、これ以後つねに待機中の死の瞬間」。後にこれをもとにデリダは『滞留』を書くこととなる。

「死」そのものである「軽さ」がブランショに留まり続けた。「ブランショを救ったのはソヴィエト軍だったが、ブランショはまさに、ドイツ軍の背後に隠れたソヴィエト軍こそ主要な危険であるということを、数年に渡って告発してきたのだった」。
カフカの『猟師グラックス』の注釈で、ブランショはこう書く「私たちは死なない、これこそ真実なのだ。しかしそれゆえ、私たちは生きもしない。私たちは生きている間から死んでいるのであり、本質的に生き残りの者なのだ」(『焔の文学』)。

ブランショは貴族階級であるがゆえに救われたのかもしれない、あるいは作家という職業の貴族性によって(ブランショはこの出来事について、いくつかの異なるヴァージョンを残している)。反共主義に凝り固まっていたブランショが、敵視していたロシア人によって救われる。しかしここでのブランショは、収容所から帰還したロベール・アンテルムの『人類』のなかの、「彼と一緒に安堵に満ちて最後の煙草を吸うロシア人であったのだ」。
「沈黙した、だが強烈なコミュニケーションのなかで彼に残っているのは、それゆえ、こうした接近、こうした聴取を、つまりはこうした友愛を創り出すことであり、この種の接近や聴取はまた、あらゆるエクリチュールの起源にあるあの言語のざわめきのなかで、他者の言語のなかで他者と結婚することである。このように、『死の宣告』の語り手は、スラヴ系の女友だちとのコミュニケーションにおいてこの事態を言い表している。見いだされた無責任性と、軽さの陶酔によって」(p.200)。

この「軽さ」は「アウシュヴィッツ」の重みと矛盾するものだろうか。そうではなく、ブランショは全くの偶然によって生き残ったからこそこの出来事を語ることができ、そして偶然にもただユダヤ人として生まれたがゆえに収容所で死んでいった人々がいる。「アウシュヴィッツが二度と繰返されないように考え、行動せよ」とは、「あらゆる政治的迎合を決定的に不可能にする」出来事から生じた定言命法なのであろう。

ブランショはしかし、一気呵成にこの思考へと辿り着いたのではない。アンテルムの『人類』と出会い、そして拒むこと、「不服従」へと向かっていく。
アルジェリア戦争で起こった拷問をナチの強制収容所や絶滅政策と比較し、「軍隊における不服従の権利」を正当化するためにニュルンベルク裁判を引き合いに出し、「その本質において邪悪で盲目的なイデオロギーたる愛国主義の終焉に署名する」。
「「祖国に奉仕するように推奨していら原理は、正当なものであれ不当なものであれ、狂気のなかで服従よりも理性を保った不服従を選ぶことを知らなかった者たちによって犠牲とされた人びととともに、強制収容所のなかに埋められてしまったのだ」。<宣言>を基礎づけるこの理論は、拒否の権利、「否と言う能力としての最後の頼みの綱」の厳格な使用を正当化する」(p.324)。
ブランショは「無政府状態の責任をフランスの軍政的権力に帰」し、「不法行為」を呼びかけるが、またアルジェリア民族解放戦線をはっきりと支持することもまた拒むのであった。


ブランショのその後を考えると、例えば五月革命の時などはこの不服従を徹底できていたかは疑問かもしれないし、何よりもイスラエルという国家への無制限にも思える支持は矛盾するものであるようにも思える。にもかかわらず、ではなく、だからこそ、ブランショはこの「不服従」へと辿り着かなくてはならなかったのかもしれない。そしてこれは消極的とも見える形を取ることともなろう。ブランショが表面上で自己を徹底的に裁くことは可能であっただろうし、それを望んでいた人もいたことだろう。しかしこのような自己への裁きは自身の救出ともなりかねない。不可能なものへの希求は自らが味わった命の「軽さ」とその後の死の滞留、そしてまた「アウシュヴィッツ」という重みによって形作られようとしたものであるとともに、永遠に定形が形成されるものではないのだろう。


レヴィナスとの思想上とのつながりや、あるいはもう一人の盟友であったバタイユとの関係(個人的にはバタイユについてはどちらかというと共感よりも危うさのほうが強く、これはブランショへのそれとも重なるものでもある)などについても当然考えなくてはならないのだろうが、このあたりは僕の能力ではうまく言語化できないのでこのあたりで。

いずれにせよ、ブランショの伝記にしてブランショ論でもある本書を読むことによって、もう一度ブランショに戻ってみた時に、新たなものが見いだせる様々な補助線となってくれるものであることは間違いないだろう。



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佐藤太郎(仮)

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