「おじちゃんは太っているねえ、共産党?」

そういえば読んでいなかったなぁということで、米原万里著『終生ヒトのオスは飼わず』を。

前半は猫や犬が見捨てられずにどんどん増えてしまって、てんやわんやの生活を綴ったペットエッセイ。後半は回想的なエッセイとなっている。没後出版というせいもあるのだろうが、前半部と後半部は特に関連はない。

後半部は米原のその他のエッセイ集に収録されているものと重複しているところも多いが、より詳しく語られているものも収録されている。その中から「夢を描いて駆け抜けた祖父と父」と「キュリー夫人を夢見た母」を中心に。


祖父章三は養蚕の改良で財をなした県会議員の六男として生まれるが、幼少期に両親が相次いで他界、親戚に育てられる。他の兄弟姉妹が小学校を出ただけであったが、章三は農業学校を出た後も代用教員を経て東京に出て農業大学と早稲田大学を卒業した。資産家の米原家当主富蔵に見込まれ、長女八重の婿となる。章三は早稲田時代に洗礼を受けたクリスチャンで、曾祖母は幼い万里にまで「キリシタンバテレンを養子に入れて……」とぼやいていたそうだ。

章三には商売の才覚があり、事業の近代化と多角化に乗り出し米原家の資産を飛躍的に発展させた。世話好きでもあり組織作りにもたけていたことから鳥取県政にも強い影響力を持ち、「選挙の神様」とも「鳥取県の政務知事」とも称され、県会議員、県議会議長、貴族員議員にもなる。

章三の息子昶は米原家の次男坊として何不自由なく育ったが、次第にこの環境に疑問を抱くようになる。小学校に上ると、弁当が白米なのは自分一人であとの子は皆麦飯なのにショックを受ける。中学に入ると、貧しさゆえに成績優秀であるにも関わらず進学できず劣悪な労働に従事しなくてはならない同級生を目の当たりにする。一高に進学していたある夏休み、兄譲から英文の「共産党宣言」を見せられ感銘を受け、社会科学研究会に加わる。1929年に昶は学生運動を指導したとして退学処分を受ける。章三は運動から身を引いてフランスへ留学しろと説得するが、昶の革命にかける決意が揺らぐことはなかった。

翌年から昶は地下生活に入り、「偽名を使い、翻訳や家庭教師、鉄工所の工員など職業と住所を転々としながら拷問で重体となった同志の看護や、労働組合の組織化などに奔走した」。
万里は子どもの頃、「地下に潜る」というのを字義通りの意味で捉え、身体の大きい父がどうやって地下に潜っていたのか、よほど窮屈だったろうと思い、まだ残っていた防空壕を見て、「こんなところに一六年間も潜っていたんだろか」と想像してドキドキしたそうだ。

共産党が壊滅状態となると、友人たちと受験生相手の通信教育会社を設立する。そこにアルバイトでやって来たのが、当時東京女子高等師範学校の学生だった美智子であった。美智子の目には、「弘世哲夫」と名乗っていた昶は「ぼろぼろの服を着ているかと思うと、次の日には洋行帰りみたいなハイカラな服装に替わっている、とても神秘的な人」と映っていたが、当時はとりたてて親しかったというわけではなかったそうだ。

美智子は高等師範学校を出て栃木県真岡の県立女学校に理化の教師として赴任する。生徒と遠足に行った際、動物が草を食んでいるのを見つけ「羊がおいしそうに草を食べているわ」と言うと、後ろから「先生、山羊のこと羊だって」という生徒の声が聞こえてきた。都会育ちだったため羊と山羊の区別がつかなかったのである。
戦後間もなく、軍が闇物資を蓄えており、その摘発集会がよく開かれていた。美智子がある集会に出ると、そこにはあの「 弘世哲夫」が「アカハタ」の記者としてやって来ていた。ここで美智子は 「弘世哲夫」の本名が米原昶であることを初めて知ったのであった。こうして再会した二人は結婚することとなる。

敗戦後、昶が16年ぶりに帰郷すると、涙にむせぶ老父母に迎えられた。
戦後昶は正式に共産党員となり、赤旗の記者を経て1949年には衆院議員となる。章三は大政翼賛会県議長を務めていたことから公職追放され、戦後は政界ではフィクサーに徹し、「精力の大半を経済活動に振り向けた」。
章三は昶に板橋の屋敷を買い与えるが、昶はこれを共産党にカンパする。章三は田園調布の土地を買い与えるが、これもカンパしてしまう。万里が生まれた1950年は、「一家は、党員の家の八畳に間借りしていた」。

「赤旗」や「前衛」の編集長など党の要職を歴任していく昶に、章三の周辺からは革命が起きても安心ですな、という冗談が囁かれたが、章三は共産党が非合法化されることを懸念しており、いざという時には子どものいない叔父夫婦に万里とユリを引き取って育てるように言い含めていた。

万里と妹のユリの姉妹は父親のことが大好きで、ユリは「父への愛を全ての太っている男性と共産党へ普遍化していった節が」あった。電車で代々木駅を通過するときには、当時の二階建ての共産党本部に翻る赤旗を確認するのが楽しみで、「ほら、赤旗だ! あそこにお父ちゃんがいるんだ!」と自慢を始め、ついには「民衆の旗、赤旗は♪」と唄い始めるのであった。ユリは小学校へ上るころくらいまで、太った中年男性を見かけると、電車の中だろうが街中だろうが所構わずツカツカと近寄って、「おじちゃんは太っているねえ、共産党?」と話しかけた。美智子の弟はレッドパージで農林省をクビになっていた人物だが、その人でも「万里やユリを遊びに連れ出すのはいいが、アレをやられるから困る」とぼやいていたそうだ。

それにしても小さな女の子から「おじちゃんは太っているねえ、共産党?」なんて話しかけられたほうもさぞびっくりしただろう。事情を知らなければ嫌味でも言われたのかと思ったのではないだろうか。


この後は万里もたびたびその他のエッセイに書いているように、昶はチェコスロヴァキアに派遣され、姉妹は当地のロシア語学校に通うことになり、ここでロシア語を身につける。
幼少期に外国で学校教育を受けた人の全てが優れた通訳になれるのかといえばそうとは限らないだろう。もちろん万里自身のたゆみない努力もあってのことだろうが、こんな家庭環境も影響していたことだろう。
「父も母も語学は堪能でしたね。父は英、独、仏、露の四ヶ国語ができましたし、母のほうは学校で習った英語に加え、仏、露ができた。とにかく勉強が好きな人なんですよ。フランス語は、ラジオを聴いたり、語学学校へ通ったりして、独学で身につけましたもの。外国語の本は、全て原書で読んでましたよ」。

昔の左翼知識人は外国語の二つや三つ当たり前という人が多かったが、夫婦そろってこうというのはよくあったことなのだろうか。

昶の死去後1年ほどして、60歳を迎えていた美智子は単身フランスに留学をする。一人で全て手配し、3,4年行っていたそうだ。留学する前は文化人類学にも興味を持ち都立大の夜間部に通い、講義では一番前に座ると「先生が間違えると大声で指摘して嫌がられてた」という。留学から返ってくると、フランス語を教えながらさらに上智大学の先生からレッスンも受けていたという。家事や税金の申告など実務的なことはからっきしだったようだが、「勉強するのが苦にならない人」だった。


前半部と後半部に特に関連はないと書いたが、唯一あるとすれば、前半で動物たちの世話に追われると同時に母の介護にも触れられていることだろう。美智子は認知症となり、万里が介護をしていたのである。もちろん元気な頃がどんな人であろうが、親が認知症になるというのは子どもにとっては精神的にはたいへんなものがあるだろうが、とりわけ美智子のような知的な人がそうなってしまうと、これは相当にこたえたことだろう。



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佐藤太郎(仮)

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