『「今泉棚」とリブロの時代』

『「今泉棚」とリブロの時代』




「今泉棚」と称されるほどの独創的な品揃えでリブロ池袋店を特別な場にした今泉正光への、高校時代からリブロを離れるあたりまでを扱ったロングインタビュー。インタビュアーは小田光雄。
出版社や書店に務める人は今泉や小田に同意するかどうかはともかく読んでおくべきだろうし、リブロ池袋店といえば80年代文化を象徴する存在でもあったので、そのあたりに興味のある人にとっても非常に興味深く読めるだろう。


高校時代は受験勉強から逃避するかのように、兄が持っていた筑摩書房から出ていた『世界文学大系』のデカルトとパスカルが収められていた巻を読み始め、友人たちと「離れ」や図書館で読んだ本の話ばかりする生活を送っていた。この頃を埴谷雄高がその乱読史を回想した『影絵の世界』になぞらえている。地方都市では人文系の本は県庁所在地にでも行かなければ実物を見ることもできず、後に東京の進学校出身者との文化や知識の差を痛感させられたという。一方で地方のある程度裕福な家であるからあった「離れ」の存在は一種のアジールのようでもあり、また現在の本好きで孤独な高校生からすると、本について語りあえる友人がいるだけでうらやましさを覚えるかもしれない。東京での浪人生活や大学進学後はこの『影絵の世界』が本格化することになる。

また大学時代に創価学会や原理研などとやり合った経験があり、それが後に出版社との交渉に役に立ったのかもしれないとしているように、ひ弱なインテリタイプというよりはタフなネゴシエーターという印象が強いが、そういった面もこの『影絵の世界』の時代に身につけていったのだろう。


キディランドへの入社が決まるが、なんと入社する前にキディランドが会社更生法の手続きに入ってしまう。キディランドはもともと橋立孝一郎が1946年に「消費組合的発想による書店「読書クラブ」を創設したことに始まる。当時『世界』や『リーダーズ・ダイジェスト』を地方の小書店としては考えられないくらい売ったという。こうして橋立は本格的に書店経営に乗り出し、さらにおもちゃや文房具にも目をつけ急速に成長していくが、そのスピードが速すぎて黒字倒産してしまうのであった。皮肉なことにこれは今泉にとって大きなチャンスとなった。弁護士は商売の管財人の経験がなく、書店経営にも無知無関心であったため、黒字さえ出せば文句を言わなかった。そこで今泉は自由な棚作りが出来たのである。
この頃今泉が担当したフェアは「埋もれた現代の名著――読んでおくべき「知」の源泉あるいは結論を急がない人のために――」というもので、そのままリブロに持っていけそうな企画である。「棚を人間・歴史と社会と芸術、自然などの五つの分野に分けた」、「この時の棚作りが自分の原型」だとしている。合わせてブックリスト作りなどもしていたという。

また今泉が原点としているのは、最初に配属されたのが学参売場だったことだ。浪人・大学時代の読書や、神保町などに入り浸ったことで、人文学などの知識に加えその周辺の雑学も身につけ、本屋のどの棚にどんな本があるかを把握していた。しかし学参売場ではそれが役に立たなかった。客から質問されてもうまく答えられない。また店側でも担当者がいるにも関わらずレジ係りがスリップデータをとって何が何冊売れたといっただけの対応をしていた。そこで今泉はどう質問されようがそれに答えられるようになろうと問題集やドリルを大量に持ち帰り研究した。

「店頭に立ったら、学参、辞書に関して、お客さんに説明できるだけの商品知識を自分で身につけなければプロじゃないと思い、そういうことをずっとやってきましたね。単なる売上げデータの分析だけでなく、どの売場においても、商品知識の充実がまず先にありきだと思うようになったのです」。

当時は旺文社の「傾向と対策」シリーズが配本をめぐって奪い合いになり、春先ともなれば親が学参や辞書を束になって持ってきてレジから煙がでるほどの売れ行きだったという。こういう環境であれば売れればそれで構わないともなってしまいかねないが、今泉はそれでは飽き足らなかったのであった。

この頃キディランドには、後にリブロ、さらにジュンク堂に移る『書店風雲録』などでもおなじみの田口久美子や、リブリを経て古書店に転じた丸山猛などがいた。今泉は丸山と一緒に仕事をしたことがないそうだが、丸山の妻が今泉の部下で、今泉の妻が丸山の下でアルバイトをしていたことがあったそうだ。

田口が先に西武に移っており、77年にキディランドを退職していた今泉はその誘いで移籍することになる。面接は書店と出版社双方のリブロの社長となる小川道明だった。西武と西友のどっちがいいと聞かれ、給料は西武の方が良かったが地方手当てを加えると西友のほうが上になったために西友を希望したという。西武グループの書籍部長だった小川は小さな書籍売場でも社員を三人は置くことにこだわったため、リクルートに熱心だった。こうして今泉はまず前橋に赴任することになる。

前橋には煥乎堂という大型書店があり、地方の老舗大型店はその名望と外商を含む販売力は圧倒的で、総合的に勝つことは無理だとわかっていた。煥乎堂は参考書や辞書も押さえており、キディランドで培った手も使えない。そこで今泉は得意の人文書で勝負するしかないと結論を出す。
まず図書館でどんな本が借りられているのかを調べ、図書館絡みの研究会なども把握する。さらに古本屋も調べた。70年代の大学のある地方都市は古本屋が郷土史の出版なども手がけるなど、新刊書店とは異なる「文化的トポス」となっていた。なかでも「みづの書店」が棚を一目見ただけですごい店だと感じさせるほどで、店主もまた大正教養主義の良い所を体現しているかのようなすごい教養の持主であり、「地域の文化人、知識人、群馬大学の教授なんかもたくさん集まっていた」。

店主とも親しくなり、膨大な在庫のある倉庫にも自由に入らせてもらうようになり、色々なことを教わった。こうしているうちに、煥乎堂の人文書の品揃えに満足のいっていない客層がいることをつかみ、このジャンルで勝負ができることとなる。「前橋西武の書籍売場に今泉という面白い奴がいるから行ってみろ」と口コミで広がり、個人客が百人、二百人とつくようになる。彼らは月々二、三万の買物をするので、三百人の個人客をつかめればあとは怖いものなしだった。
また売場を充実させるだけでなく、シンポジウムや講演会といったイベントも行い、そこでは古本も売ったためにどこからも文句はこなかった。

前橋には読書会などのサークルも多く、公務員や精神科医も参加していて、そこでヤスパースなどを読んでいたという。またある文学青年からはフランス文学を教わり、ブランショなどを再発見していった。「あの時代の前橋特有のことだったのかもしれないけれど」としているが、こういった雰囲気というのは大学のあった街ではよく見られたことなのだろうか。そして今はどうなっているのだろう。


では70年代は出版業界全体が幸福な時代であったのかというと、そうではないことを今泉は身を持って体験する。当時の出版業界は、よくいえばお得意様を大切にする、悪くいうと中小や独立書店に冷淡なものだった。出版社と取次ぎと有力大手書店の結びつきは強力で、新潮社、文芸春秋、講談社などの新刊本を平積みにできる書店は限られていた。せめてもの抵抗は架空客注を書くくらいで、それでも小部数しか確保できなかった。また岩波書店も、特約店は地域に一店と決められていたため、いくら人文書を売っても常備店にしてもらえなかった。こういった悪弊はさすがに80年代には崩れていくのだが、出版社の殿様商売体質というのはその後も残り続けたようで、出版社内でも営業の地位は低く(『どすこい 出版流通』の著者で、筑摩書房取締役営業局長だった田中達治の死去が惜しまれている)、書店員はさらにその下に見られるという状況が続いた。こういう階級構造がプラスに働くことはないだろう。

ある本からこんな引用がされている。
「いったい出版界に構造的な不況を招いた原因はどこにあるのか。この辺りで本当に業界挙げて反省しないと来年は今年に輪をかけた状況を招来しかねない。(中略)いままで何度も指摘したように、企画を大事に練り、時間をかけて内容の濃い出版物をつくり、長くじっくり販売する、という基本が失われたことにあるのだ。他者の成功した企画をイージーに追いかけ、対談などで手軽な本づくりに走る。雑誌も書籍も競争のレベルが、どんどん低次元に落ちていく」。

まるで現在書かれたもののように思えてしまうが、これは小川道明の『棚の思想』からの引用で、これは「八〇年代初め」の発言なのだそうだ。この後ご存知の通りバブルがやって来ることになる。
本書の中で小田光雄は、セゾンの資本力と堤清二の威光があったあの時に、再販制などに変る新しい出版・流通システムを作るチャンスがあったのではないかとしている。これに同意するかはともかく、現在の「出版不況」がここにきて急速に読書人口が減った結果などではなく、しかるべき時期にしかるべきことをできなかった結果なのではないかとも思えてしまう。


82年に、今泉は売上げが伸び悩んでいた池袋店に移ることとなる。ここでは西武百貨店ではなくスーパーの西友から来たということで冷たい目で見られた。リブロ池袋店は時代の象徴的な存在ともなっていくが、直接の書店経営はリスクが高くリターンが少なかったことから西武百貨店内での評価は低く、経営的には利益率の高いアパレルやリスクの低いテナントを入れたいとの要望が強く、バブル崩壊などでセゾンが揺らぐと、リブロ自体の売上げは堅調だったものの、よりにもよってファミリーマートに売却されてしまうのである。

しばしば指摘されるように、百貨店というのはかつてはあそこへ行けば何かがあるという「ハレ」の場だった。もちろん消費者の指向の変化もあることだろうが、百貨店自体がこうした「ハレの場」を作ることに鈍感になってしまった結果としての百貨店の低迷というのもあるのかもしれない。資本が変るだけでなく、ついにリブロ自体が西武から撤退してしまうことになってしまったが、これも書店自体の売上げ低迷の結果だったわけではなく資本同士の事情があったようだ。あのリブロと今のリブロは別物であるとはいえ、西武池袋からリブロが消えるというのはショックな人も多いだろうが、そういった面は百貨店の人間にはどう映っているのだろうか。
もっとも今泉は全盛期には西武百貨店の売上げに貢献していたという自負は持ちつつも、百貨店が本屋を直接経営することが割に合わないとされることは仕方がないことであるとも認識もしている。


こういった後知恵を持ってリブロの最盛期の話を読むと、神話というよりもおとぎ話のようにすら思えてきてしまう。「別冊宝島」シリーズの『現代思想・入門』は一店舗だけで五千冊以上売上げ、あの大部にしてとっつきやすいとはいえない『ゲーデル・エッシャー・バッハ』は初回配本で三百冊仕入れたのが一ヶ月で五百冊を売り、『アンチ・オイディプス』にいたっては「いくら何でも多いんじゃないの」と出版社からも言われた三百部が、なんと初日だけでほぼ売り切れというのは、いったいどんな時代だったんだと思ってしまう(と同時に、『ゲーデル・エッシャー・バッハ』や『アンチ・オイディプス』をどれだけの人が最後まで読んだのかとも思ってしまうが)。

今泉はこの状況に乗っかったのではなく、むしろ作り出す側にいた。浅田彰の『構造と力』が出る際には、出版社は初版三千部を予定していたが、売れるからもっと刷るべきだと進言し、五千部となる。『構造と力』と中沢新一の『チベットのモーツァルト』はリブロ池袋店の一番目立つ所に平積みにされ、これが全国の書店へと波及していった。

もちろんこれはただ勘を働かせただけなのではなく、根拠のあることだった。堤人脈から安東仁兵衛や伊藤光晴もよく来店し情報を交換していたし、池袋という土地柄、蓮実重彦など立教大学で教鞭を取る大学教師とも知り合い、その人脈を広げるとともに、また書店員として曜日や時間帯によっての客層や売行きなどを注意深く観察し、立ち話をしている客がどんな本を手に取っているかなども頭に入れていた。単なる売上げデータだけでは見えてこないものを、勉強会や客との情報交換などを通して発見していったのである。さらにインプットとして、往復三時間の通勤時間を読書にあてていたという。酒やゴルフなどはやらずに接待などとも縁がなく、ひたすら書店員として邁進したと言う感じで、当人も天職だと感じていたことだろう。当人も認めているように、上司に持つとかなり厳しかったのだろうが。

93年には店長から本部へ移るが、予想がつくように、店長クラスならまだしもその上にくるとこういった人は当然経営陣との摩擦は大きくなるし、その中で消耗していくこととなる。またセゾングループの苦境の中リブロ自体が翻弄されていくのであった。
その後今泉はリブロを退社しあの煥乎堂に移り、さらに長野の平安堂に勤め退職したとのことである。


僕は70年代後半生まれなもので、「80年代的」なものにはアンビヴァレントな気分であることが多いのだが、本書を読んでいると、もしリブロの全盛期に自分が大学生であったなら、どんな気分でリブロに通い、その後の混乱を見たのだろうかということを想像せずにはいられなくなってくる。はたして、あの頃を身をもって体験していた人はどのような思いで本書を読むのだろうか。



プロフィール

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

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