五木寛之・村上春樹対談

『村上さんのところ』が間もなく発売になる。村上春樹がこちらで書いているように、電子書籍がコンプリート版で紙の書籍のほうはセレクト版になるとのことで、紙書籍版に収録されているのかわからないが、メールのやりとりの中で五木寛之との対談について触れていたものがあったと思う。
この対談は1983年に行われたもので、五木の対談集『風の対話集』に収録されている。この『風の対話集』は他に五木と中沢新一、高橋源一郎、北方謙三、中上健二との対談が収録されていて、全体として良くも悪くも80年代だなあと思わせるようなものとなっている。

村上にとってこの対談はあまり思い出してほしいものではないのかもしれない……なんて印象を勝手に持っていたのだが、当人が触れているということは黒歴史というわけではないのだろうし、ここ最近の村上の発言を考えるうえでもいろいろ興味深い所も多く、『風の対話集』は絶版ということで長めに引用しながらいろいろ考えてみたい。





まずはウォーミングアップ代わりにこんなところを。


五木 〔……〕ところで、ぼくは、以前に読者からハガキをもらったことがあってね。中央線沿線の何とかっていう喫茶店が好きで、そこに通っていたら、それがなくなっちゃって、自分の居場所がなくなったような淋しい思いをしていた、と。あるときたまたま千駄ヶ谷で喫茶店に入ったら、その店は、絶対あの店の人がやっているというふうに思えた。それでいろいろ調べたら、村上さんがやっていた店だということがわかって、とってもうれしかった、という。その読者の人の勘もいいけれども、そういうこともあるんだね。昔の、途中で消えちまった女に、偶然ほかで会ったようなもんだったんでしょう。
村上 店というのはね、閉店しちゃうのが楽しみなんですよね。
五木 ほう。
村上 はじめから、何年か経ったらもうやめちゃおうと思っているわけです。ふた月くらい前に、二ヵ月後にやめますって言うわけですよね。それがね、わりに楽しみなんですよね(笑)。
五木 残酷な楽しみだな(笑)。
村上 というか、お客のほうもね、それを望んでいるんじゃないかって気がするんですよね。結局、音楽にしても、その周辺のものにしても、どんどん変わっていきますし、変わるのが本当だと思うし、変ったものを見せられるよりは、なくしちゃったほうが本当の親切というもんじゃないか、という気がするんです。まあ、ぼくはわりに極端な考え方するほうかもしれないですけど。



変ったものを見せるくらいなら店を閉じてしまえとはなんたる親切心! 贔屓の店が閉まってしまうのを望んでいる客なんていないでしょ、と思うのだが、まあこういう「極端な考え方」は村上らしいといえばらしいのかもしれないが。

村上がやっていたジャズ喫茶・ジャズ・バーである「ピーター・キャット」のかつての客や元バイトからメールが来ていたが、僕は70年代後半生まれで、いわゆる喫茶店文化のようななものがすっかり廃れてしまった後に成人したもので、ピーター・キャットがどんなものであったのかというのはイメージってできるようで、うまくできない感じでもある。ロールキャベツとコンビーフのサンドウィッチは食べてみたかったなあなんて思うのだれけど、ジャズなんてまったく聴かないし、70年代後半にあのあたりをウロウロしていたとしても、ピーター・キャットに入ることはなかったのだろうが。


といったあたりで、ここからが本題。


村上 〔……〕ぼくの最初の二作は、「他人に何かを語りたい」、「でも語れない」というギャップで成立していたようなところがあるんですけど、ふたつ書き終えたあとで、実はそうじゃないんじゃないか、という気がふとしたんですね。で、三作目では、徹底したストーリー・テリングをやりたいと思ったわけなんです。それやって、本当にホッとしました。

村上 日常生活そのまま、意識を映していけば、なんか小説になっちゃったという感じはありますね。だから、一作目、二作目を書いても、自分が小説家という感じはなかったですね。ただ、それだけでいいのか、よくないんじゃないか、という気持ちはすごくあったんですよね。小説というのは、世界に対してもう少し親切であるべきじゃないかってことですね。ちょうど村上龍氏が『コインロッカー・ベイビーズ』を書いて、やはり同じようなことを考えていたんじゃないかと思いました。


このあたりの初期二作についてや、『羊をめぐる冒険』で長編へと、物語性を強く打ち出した方向へとなっていくことについてはよく語られているところである。

ところで五木は村上作品の印象についてこう語っている。


五木 ぼくは村上さんの小説を読んでいるうちに、この人はわりと東洋っぽいところがあるな、とふっと感じたんです。いくら横文字が出てきても、国籍不明みたいな街が出てきても――他力、という言葉があるんだけれども、大きな流れというか、動きというか、そういうものの中でね、書く、という言葉と、書かせられる、という言葉の狭間で仕事をしている意識がどこかにあるんだな、という気がしました。


今でこそ村上の「日本性」や「東洋性」についてはよく語られるが、80年代前半といえば「バタ臭さ」の権化のようなイメージが強かったことだろう。にもかかわらず五木が「 この人はわりと東洋っぽいところがあるな」と指摘しているのは慧眼とすべきだろう。
五木はこう続ける。


五木 言葉というものに対する考え方が、日本の場合には、言〔こと〕の葉〔は〕でしょう。コト、というのは誰かが書いていたけれども、事実とか行為ということになる。事を起こす、というコトですから。それの葉っぱだからね。葉っぱっていうのは、森があって、木があって、枝があって、その先の葉っぱであるわけだ。しょせん、日本の「言葉」という語に対する心の底にある無意識のものは、言葉は言葉にすぎない、という感じなんだ。本当の事をあらわしているのではなくて、事の影だという感じしかないわけですよ。
 たとえば、中世の阿弥や歌人たちみたいに、片方で政治的なものすごく激烈な動きがあっても、自分はひとつの美の世界へ、現実と切り離されていられるという、言葉と行為が分けられる世界を信じているわけで、物語ることは、行為するということと別の次元にあるという考えです。言葉の世界にいる限りは、片方の王国に生きられる。事の世界と葉の世界があり、事の世界の王者に対して葉の世界があり、事の世界の王者に対して葉の世界で自分が王者になれば、事の世界の王者の下に屈伏することはないんだ、と思えるわけです。
  〔……〕
 村上さんの小説を読んでいて、どんなにそれがコスモポリタンの雰囲気があったとしても、やっぱり葉の世界の仕事をしている人なんだな、と。その意味では、ものすごく日本的な作家だ、という感じがしたのです。で、ぼくらはやっぱり、そういう日本的な中で、その日本的ということさえも意識せずに仕事をしていけば、おのずから事の世界に拮抗できる小説世界っていうのができるんじゃないかな、という夢を持っているわけなんですが。



これに対して村上は必ずしも同意していないようだ。この五木の「葉の世界の仕事をしている人」という見立てに対しては、村上についての一般的なイメージからするとかなり意外な返答をすることになる。


村上 ぼくの場合、一番の原体験の文章っていうのは、戦後憲法なんですよね。
 ぼく、昭和二十四年生まれなんですけど、小学校入ったときに、先生が憲法を説明してくれるわけなんです。日本は非常に貧しい国である、国際的な地位も低いし、原料も産出しないし、工業もまだ低いし、平均収入もアメリカの何十分の一である、ただ、戦争放棄している、そういう国は日本しかない、というふうに説明してくれる。非常に感動するわけなんですね。それが最初の言葉なんです。それが言葉であって、それが社会だと思ったわけです。
五木 それはもう、基本的なヨーロッパの考え方ですよね、言葉は行為であるという。
村上 ええ。それ以外にありえない、分離はありえない、と思ったわけです。それが、齢とっていくにしたがって分離しはじめるわけです。
 最初に気づく大きなきっかけというのは六〇年の安保ですよね。そのときはテレビがあったんです。で、樺美智子さんの死んだとことかが全部映って、それを見ているわけです。ぼくが小学校六年生ぐらいですね。そのときに、言葉と現実の分離というのをね、テレビの画面ではっきり感じたわけですよね。
五木 それはどういうふうにですか。
村上 戦争を放棄した、ということはない、基本的人権、そういうのも習ったけれども、違うんじゃないか、と思ったんですよね。事と葉の分離といういまのお話と少し違うかもしれないけど、分離の感覚というのは、そこからですよね。



確かに現在は「葉の世界」に近いところにいるのかもしれない。しかし最初の感覚としては「言葉は行為」であって、「分離はありえない」というところからスタートしていたのであり、その原体験として戦後憲法があったとしている。しかし日本という国がその憲法の理念と「分離」していることを痛感させられていったのであった。
 

村上 お伺いしたいんですけど、五木さんの世代は、戦後憲法が後天的に入っいるわけですよね。
五木 そうです。
村上 あの文章に対しては、どういうふうな感じをお持ちになっていましたか。
五木 言の葉だと思っていましたね。なぜかっていうと、その前に、軍人勅諭というのがあったり、教育勅語っていうのがあったりして、それはぼくらにとって、あなたのおっしゃったように、事であり、行為であったわけです。神州不滅であり、天皇は神であり、そしてわれわれはそのために死ぬ者であり……。ぼくらが少国民のころ、十二、三歳くらいで憶えた軍人勅諭っていうのは、魂の記憶として刻まれて、もう絶対に抜けないんです。
 〔……〕こういうふうに、体で結局、事を覚えて込まされてしまったわけ。朝鮮銀行券っていうのを、ぼくらは使っていた。紙幣というのは価値の実体だったんです。つまり、お金と価値は一体だったわけね。それがあるとき、これは全部ただの紙だよって言われて、それでソ連軍の軍票というのを使わせられたわけですね、赤票、青票って言ったんだけれども。
 そうなると、そういう憲法に対する観念よりも、もっと端的に、お金というものさえも、要するに影であるという発想になってしまったら、そういう世代の人間が、大藪春彦、生島治郎だとかって、みんなエンタテイメントのほうに行っちゃったというのは、ぼくはとてもわかるような気がするんですが。そのあとで新憲法を見せられても、これはもうね、嘘も方便という言葉があるけれども、如才なく、それと折りあってやっていくしかないという、そういう感じがありました。



戦後憲法について、戦中戦後の混乱を経験した五木の世代はある種のシニシズムが内面化されていたが、村上の世代はそうではなかった。しかしそれが大きく揺さぶられたのが樺美智子の死に代表される60年代であったのだが、村上はすぐに「分離」へと向かい、あっさりそれを受け入れたのではなかった。


村上 結局、さっきの続きなんですけど、六〇年から七〇年のあいだの十年というのは、それをもう一度くっつけるという可能性を信じていたわけですよね。 
 だからこそ、六九年に向けていくわけですよね。テレビで樺美智子さんが死ぬのを見て、もう一度、必ずくっつけられるはずだ、という気はあったわけです。そのあいだに高度経済成長があるわけなんですけど、そこでもね、ひとつ裏切られたんです。というのは、日本は貧乏な国だけれども、という前提がひっくりかえっちゃうわけですよね。貧乏でなくなっちゃうわけです。そのへんで、もう何がなんだかわかんなくなって、七〇年はどたばという感じですね。



五木 〔……〕ぼくらにはやっぱり、これは仮の夢で、最初のころに思ったように、まわりは荒地で、女はガード下で客をひき、小説を書いている人間は食えなくて、梅割りとかメチル・アルコールなんか飲んでいて、というそこへ、ふっと、いつか戻るんじゃないかと。いや、戻ってほしいって願望も、ちらっとあるんだよね(笑)。
村上 ぼくも、どちらかというと、日本は貧しい国だけれどという前提に、もう一度、戻ってくれれば楽なんだろうな、という気はありましたね。結局、高度成長のパイの分け前をほしくないというね、つっぱりがあったんですよね。六九年頃には。



「村上春樹=ノンポリ」というイメージを決定づけたのは『ノルウェイの森』だろう。初期三部作では「僕」は一応はデモに参加して歯を折られたりした経験を持っていたのだが、『ノルウェイの森』のワタナベは学生運動に対し始めから距離を置き、過激なことを言っていた連中が4年生になると伸ばしていた髪を切り整え、大手商社やマスコミに就職しようとすることを冷ややかに見ている。さらにミドリはそのセクシズムを目の当たりにして「革命」を唱える連中の実態を知り、二人は本当に革命が起きたら自分たちは電柱に吊るされてしまうんだろうね、なんてことを話す。
『ノルウェイの森』は少なからず村上の実体験がベースとなっていることもあり、「ワタナベ=村上」というイメージを喚起しやすかった。しかしこの対談(もちろん『ノルウェイの森』が書かれるずっと前に行われている)で村上は、当時斜に構えていたどころかむしろナイーヴなほどの理想主義を抱いていており、それ故に失望も強く、それでも70年代以降の時代の流れに抗う気分を持ち続けたことを率直に語っている。

「日本は貧しい国だけれどという前提に、もう一度、戻ってくれらば楽なんだろうな、という気はありましたね」というのは無責任は放言に聞こえるかもしれないが、幼い頃の貧しい記憶をはっきり持っているがゆえに、確実に物質的に豊かになっていく時代へのとまどいというのは60年代の学生運動の隆盛の一つの要因でもあろう。また日本、ドイツ、イタリアの旧枢軸国で学生運動が先鋭化する傾向にあったが、これらの国々は遅れてきた帝国主義国であり、それだけ封建制の残滓が色濃く残っていたからだという分析もされる。とりわけ日本の場合、明治政府とは擬似王政復古と擬似近代化の混淆体という奇妙なものであり、戦後に本当の近代化を目指そうとした人たちにとって、物質的な豊かさがもたらされることで近代化が擬似的なものに留まり続けてしまうことへの反発と失望は大きかったことだろう。村上にとっては、高度経済成長による物質的豊かさによって理想主義が後退していくことは、「もう一度くっつけるという可能性」が遠のいていくことと映っていたのかもしれない。


またこのやりとりも興味深い。


村上 ぼくは、『羊をめぐる冒険』の中で、右翼的なものを出したんですけど、これもよくわからないですよね。いわゆる右翼農本主義に結びついちゃった新左翼崩れがいますよね。でも、それもぼくはわからないんです。『戒厳令の夜』を拝見していましたら、五木さんの場合は、万世一系の天皇以前の日本という中にいかれてますよね。
五木 そうです。
村上 あれはぼくとしては素直に受け入れられるんですよね。



「文明論」的なものに向かっていく作家などがいるが、このやりとりをみると村上はそれにアレルギーは抱いていないようである。しかし実際には村上はその後年齢を重ねてもそちらの方向へ流れていくことはなかった。


村上 ぼくが最初に五木さんの作品を拝見したのは、『平凡パンチ』に出ていた『青年は荒野をめざす』だったんですけども、道具だてというか、そういうものが風俗的に前衛的な感じがしたんですけど……。
五木 海外旅行がめずらしいころだったからなあ(笑)。
村上 最近は五木さん、だんだん日本的な風土というものに向かわれているような気がするんです。
五木 ええ。
村上 ぼく自身も、最初に書いたときは、アメリカのヴォネガットだとか、ブローティガンとか、チャンドラーとか、そういうものの手法をただ日本語に写し替えるというところから始まったんんですけど、自分自身が非常に日本的なものに向かっているんじゃないか、という気持ちがものすごくあるんですよね。
五木 『風の歌を聴け』から今度の『羊をめぐる冒険』に至るまでの小説を見ていると、よく、これだけの短い期間でこんなに変ってきたな、と思うくらい変ってきてますよ。表には、そんなにはっきり見えないかもしれないけれども、作家の意識が変ってきているというのは、すごくよくわかります。
村上 その日本的なものが何か、というのはね、よくわからないんですけれどね。でも、何か自分が日本の固有のものを目指しているんじゃないかということは、ぼんやり感じるわけです。ただ日本浪漫派への回帰とか、そういうんじゃなくて、自分の体にまず同化したいというところが、いま、すごくあります。自分の体がじかに触れているものだけが本来のものであって、それ以外のものは、結局のところ幻想なんじゃないかっていうことですね。だから、ぼくは自分が手を触れることのできるものに対しては、できる限り親切でありたいと思います。そして文章というのは、そういった一連の行為の帰結でありたいと思うんです。



『ノルウェイの森』は村上が初めて海外滞在時に執筆した長編であったし、これ以降もしばしば海外で執筆を行っている。しかし村上は定期的に長期の海外滞在を繰返しているが、(精神的)亡命者となることはなかった。これが「自分が日本の固有のものを目指しているんじゃないかということは、ぼんやり感じ」ていたことを依然として継続しているということなのかは微妙だが、いずれにせよ「日本」との結びつきを断とうとはしていないことは確かだろう。
海外、とりわけ欧米諸国に長期滞在した結果国粋主義者として日本に帰国するという例は数多くあるが、その一例に江藤淳がいる。村上は90年代にプリンストンで教鞭を取った際に江藤の『成熟と喪失』をテキストとして使っており、当時これに危ういものを覚えた人もいたのかもしれない。しかし村上は「日本浪漫派への回帰」的な安易な右傾化に走ることはなかった。

「ぼくは自分が手を触れることのできるものに対しては、できる限り親切でありたいと思います。そして文章というのは、そういった一連の行為の帰結でありたいと思うんです」というのはなんともヴォネガット的であるが、村上の中にあるこういった「親切心」はこの対談の頃から現在に至るまでブレておらず(店の件は軽口として……)、これこそが亡命者としての道も選ばず、また右翼化もしないということにつながっているのかもしれない。


五木 〔……〕いまの若い、これは作家といわず、ものを考えたり書いたりしている人たちの意識の中に、ぼくらのような、高度経済成長期にスタートした、その波の中をくぐってきた人間に見られない、こうある種の、深い反省があるんだな、と感じました。
村上 ぼくの場合は、子供が産めないですね。産んでいい、という確信がないんです。ぼくらの世代が生まれたのは、昭和二十三、四年なんですけど、戦争が終わって、世の中はよくなっていくんじゃないかという思いが、親の中にあったんじゃないかな、という気はするんですが、ぼくは、それだけの確信はまったくないですね。



この「確信」のなさからくる現実(あるいは政治)との距離の取り方は、80年代においてはシニシズム的、あるいは微温的保守主義として受け取られがちであっただろう。加藤典洋の『村上春樹の短編を英語で読む』は、村上が当初から非常にポリティカルな作家であったことを明らかにしようとしているものだが、基本的には僕もこの主張に同意するところが多い。

近年の村上はポリティカルな発言もかつてと比べると増えてきているように思えるかもしれないが、実際には海外での仕事が増え始めた90年代後半あたりから、とりわけ歴史問題などについて発言を求められることは多く、村上自身もそれを彼なりの「日本人」としての責任として引き受けてきてはいた。とはいえ海外メディアに対しては話すくせに日本ではだんまりではないかという揶揄や批判も浴びてもいた。

この対談で窺えるように、村上はシニシズムに捉われていたが近年になってそれを脱した結果としてポリティカルな発言が増えたのではなく、理想主義者であるからこそ後退戦を強いられてきたのであり、それは作品にも表れているだろう。『羊』は戦後の日本が羊憑きの右翼(モデルは児玉誉士夫)の支配下にある、戦前との連続性が否み難く残っている国とされており、その支配勢力とのささやかな、しかし犠牲の多い部分的抵抗を行うと同時に、根本的(ラディカル)な抵抗の不可能性を思い知らされるというアイロニカルなものであり、この構造はまさにハードボイルドのそれである。

もっとも、「理想主義者」と言ったがこれはどちらかといえば政治的というよりも精神的な意味合いが強いだろう。政治的にラディカルな人からすると村上の発言はあまりにヌル過ぎると感じることだろうが、とはいえその村上が『村上さんのところ』に収録されているメールでのやりとりで直接的な政治的発言がこれまでになく多かったのは、後退戦を行っていたはずの村上が、前衛とまではいかなくとも前線に近い位置にまで押し出されてしまうほどに日本社会が変質してしまった結果とすることもできるのかもしれない。『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』に収録されている「僕らの世代はそれほどひどい世代じゃなかったと思う」にあるように、理想主義に対して世代的な自負をある程度は持ち続けているのだろうし、それだけにこの変質に対しての世代的責任意識というのも働いているということもあるのだろう。

といった感じで、この五木・村上対談は発表当時、あるいは1995年や2005年に読むよりも、2015年になって読んだほうがいろいろと考えさせてくれることが多いのかもしれない。




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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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