『長崎通詞ものがたり』

杉本つとむ著 『長崎通詞ものがたり  ことばと文化の翻訳者』




ペリーの乗船していた旗艦サスクエハナ号に日本の防備船が近づいてきた。一人の男が「立派な英語で、I can speak(talk) Dutch」と言った。男の英語はこれが精一杯のようだったが、オランダ語は熟達しており、通訳にオランダ語で矢継ぎ早に質問を浴びせたのであった。
この男は堀達之助。彼はどのように英語を、そしてオランダ語を学んでいたのだろうか。

本書は低く見られることも多い江戸時代の通詞を再評価するものだとしていいだろう。
長崎通詞は、一つには倫理的な面で問題とされることがある。非常に貴重な品々と日常的に接する特権的立場にあり、密輸出入や横流し、リベートなどの誘惑は多く、それに屈した人も少なからずいたことだろう。また語学的な面でもその能力を疑う証言はオランダ側からも日本側からもある。これも確かに万能の通訳とはいかなかった人もいただろうが、だからといって全てがそうだったというわけでもない。世襲制にあぐらをかき、特権を享受する知的好奇心のかけらもない腐敗した存在というイメージがあるとすれば、その誕生から明治以降の「近代化」を準備した存在としての通詞を描いた本書を読むと、それはかなり修正されることだろう(その他の本と読み比べると通詞の能力をかなり高く評価しているので、そのあたりには慎重さも必要なのかもしれないが)。


「鎖国」前には、平戸や長崎には当時広く用いられたポルトガル語の他にシャム語、中国語、オランダ語などを流暢に使いこなすポリグロットがかなりいたようである。また語学力を活かして明からやって来てそのまま定住した人もいたようだ。通詞の中にもその血を引く家系がある。

本書にあるように「鎖国」という言葉自体が通詞である志筑忠雄(中野柳圃)によってケンペルの『日本誌』を訳す際の訳語として初めて用いられた言葉であるように、あくまで括弧つきで認識されるべきである。本書の刊行は1990年であるが、その後さらに「鎖国」は問い直されているだろう。
「鎖国」とはそれまで大きな貿易相手であったポルトガルを排し、ヨーロッパではオランダと独占的な関係を結ぶことであり、また日本人の海外渡航、及び在外日本人の帰国の禁止令であった。このせいで親が外国人であった子どもは国外に追放されることとなり、「じゃがたらお春」のような例を生むこととなった。一方で、完全に外国との交流が閉ざされたわけではなく、出島を舞台にオランダとのその窓口となったのが通詞たちであった。


通詞は世襲制であるが、実際には養子などの手段がしばしば用いられ、「血」が絶対的であったわけではない。とはいえ家督を継げるのは一人であるから、その他の子は生計を立てる手段を得なければならなかった。もっとも確実なのが、オランダ語を通して西洋医術を学ぶことであった。

通詞への否定的なイメージを広めた一人が、あの杉田玄白である。玄白は通詞から教えを受ける際に、通詞がカタカナを用いたことから彼らがオランダ語の読み書き能力がないかのように語っているが、実際には本書にその写しが収録されているように見事な筆記体でオランダ語を書くことができたし、必要最低限の言葉を口伝えするだけの存在ではなかった。カタカナを用いたのはこれが初歩的なことであり、アルファベットで書く必要性がなく平易な手段を使ったに過ぎなかったようだが、玄白はこれを曲解したのである。
実は玄白は前野良沢と共に江戸の長崎屋で通詞と面会した際に、オランダ語習得の困難さを諭されオランダ語習得を諦め医学に専念するという過去があった。良沢はこの一件で逆に向学心に火がつきオランダ語を学んでいるので、玄白の通詞への低評価はこの件の逆恨み、あるいはコンプレックスからきたものなのかもしれない。

現在ではついつい玄白を西洋医学の偉大な紹介者と考えてしまうが、もちろんそうではあるのだがあくまでワン・オブ・ゼムであり、何よりも西洋の医学書の輸入や紹介、訳語の案出には通詞の貢献が大きかったのである。


通詞が医学を学んだのは実利的理由も大きかったが、医学のみならず自然科学の吸収にも励んだように、それだけが全てであったのでもないだろう。
オランダ語習得に関してもそうで、通詞たちはやがて文法書や辞書の作成にも力を注ぐようになり、大きな成果を残している。またオランダ人も商売にだけ関心があったとされることもあるが、日本語の学習が禁止されていたものの日本への関心がなかったわけではなく、日本人通詞たちと辞書の作成に協力してもいる。

時代は下り、全てをオランダ語経由で済ませるのには限界が近づいてきた。通詞たちの中にはその他の外国語習得の必要性を感じ、独自に英語などの勉強を始める者も出てきた。また幕府も外国の知見の紹介の必要性を認識するようになり天文方を設け、志筑忠雄(中野柳圃)に師事した経験も持つ高い語学力を誇った馬場佐十郎を江戸に呼び、馬場は『ショメール百科事典』などの翻訳を行う。馬場はオランダ語文法をほぼ完璧に身につけており、ちょうど北方からロシアの圧力が迫ってきた時期でもあってロシア語も学び始める。おりしも江戸にはロシアに漂流し長期滞在し帰国した大黒屋光太夫がおり、まず彼から手ほどきを受けた。

ロシア人のゴロヴニンが日本の捕虜となると幕府は天文方の馬場らを派遣したが、馬場にとってはロシア語をさらに高める千載一遇の機会であった。馬場らはフランス語にも通じていたようで、フランス語経由でゴロヴニンからロシア語を学ぶ。ゴロヴニンは馬場がロシア語ができるくせにできないふりをしていると思ったようだが、これは彼らのロシア語の言語習得能力の高さを表しているのだろう。またゴロヴニンにロシアの代表的な詩を暗誦するよう頼み、その音の快調さに酔いしれ、一語一語摺り寄せながらついにほぼすべての意味を理解するようになる。
馬場をはじめとする天文方の役人はもちろんお国のためにロシア語を身につけなければという意識もあったことだろうが、何よりも外国語や言語そのものへの強い関心があったこともうかがわせる。
馬場はその後『俄羅斯語学小成』や『魯語文法規範』を刊行し、「日本で最初のロシア語学者」ともされるのであった。馬場の活躍はこれに留まらず、英・蘭・日の会話集の編集まで行うが、わずか36歳で病没してしまう。
奇しくもその馬場が亡くなった年に生まれたのが、冒頭で触れたあの堀達之助であった。


福沢諭吉といえば蘭学から英学に転じ、現在でも使われる様々な翻訳語を編み出したことでも知られる。もちろん福沢が優れた知見を持っていたからこそできた偉業の数々であるが、かといって日本の「近代化」が突然変異のごとく沸いてきた天才によってのみ担われたということではなく、先人の蓄積してきたものの上に成立したのであり、その代表的存在が通詞たちであったのだろう。




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