『開国と英和辞書  評伝・堀達之助』

堀孝彦著 『開国と英和辞書  評伝・堀達之助』





著者は堀達之助の玄孫。著者の父堀豊彦は東大法学部在学中に、達之助の残した日記や手記などの貴重な資料を吉野作造にあずけていたものの、不運にも関東大震災が起こり、『英和対訳袖珍辞書』の初版などとともに灰になってしまったという。著者は「晩年の父に向かって、たとえ師の吉野教授に対してであれ、中身をメモすることもせずに貸与したのは、政治学志望の学生としても、またほかならぬ吉野教授の弟子としても軽率の謗りを免れまいと言って、まことに嫌な顔をされた」そうだ。確かに他に存在しない一次資料であることを思えば軽率だったのかもしれないが、まさか震災に加え大火事が起こり、吉野研究室が灰燼に帰すなどとは想像もしていなかっただろうし、その悔しさもあっての「まことに嫌な顔」だったのだろう。

完全に失われたと思われていた、達之助が中心的に編纂した『英和対訳袖珍辞書』の原稿が2007年に発見された。著者の前著は「全生涯を史・資料をして語らせつつ明らかにしようとした」『英学と堀達之助』であるが、これに新資料など新たな知見を加えて綴った評伝が本書である。



蘭通詞は形の上では世襲制であるが、実際には不出来であれば嫡男であっても廃嫡されたり、養子をやりとりして優秀な人材を迎え入れていた。達之助も中山家から堀家に入った。
通詞の家系に生まれ幼少期からオランダ語を仕込まれていた達之助ははわずか13歳で受用銀を得ている。蘭通詞の不足という事情もあったようだが、それだけ優秀であったということでもあろう。

この頃すでにオランダ語一本では立ち行かなくなっていたことは明らかであり、通詞たちは英語などを学び始めていた。密航してきたアメリカ人、ラナルド・マクドナルドが捉えられ長崎に送られ、アメリカ出身者としては初めて英語を教授する。この時に達之助も教えを受けたとさることもあったが、現在ではこれは否定されている。著者は本書でこの時期に達之助は浦賀で翻訳に従事していたことを明らかにしている。これはどうも堀家の他の人物が授業を受けていたことから誤解が生じてしまったようだ。なおその後因縁浅からぬ森山栄之助はこの時にマクドナルドから英語を教わっている。


ペリー来航に先立つこと7年、アメリカ東インド艦隊司令長官海軍大将ビッドルが開国を要求しに浦賀に来航する。この時ビットルはあっさりと引き下がり、それが強い批判を招いたことも、後のペリーの強硬姿勢に影響したようだ。ビットル来航時に通訳を一人で仕切ったのが達之助であった。またビットルが持ち込んだ文書は公式には英文を逐語的にオランダ語に訳し、そのオランダ語訳を和訳したのだが、別に英語から直接翻訳も行っており、これも達之助が担当した。もちろん英和辞書などあるはずもなく、英蘭辞書を頼りに英文和訳を行ったようだが、いずれにせよこの時点ですでにそれなりの英語力を身につけていたことは間違いないようだ。
ビットル来航時に対応した中島三郎助などのチームがそのままペリー来航時にも応対することになり、達之助が首席通詞に抜擢されていることからもわかるように、この時点での評価は高かったのだろう。

しかしペリー来航時には、達之助はアメリカ側から辛辣に評価されることになる。ウィリアムズは『随行記』の中で、達之助を「頼み甲斐のない相手で、何かを手にいれようと頼んでみても、骨惜しみばかりする」「心の狭い優柔不断の男」だとしており、また達之助の卑屈とも見える態度も心証を悪くした。一方新たに加わった通詞、森山栄之助についてはその英会話能力を含め高く評価している。もっとも森山の先行ぶりがかえって混乱を増させたという面もあるようだ。
通詞そのものが歴史的に様々な毀誉褒貶にさらされてきたが、達之助も、そして森山もその例外ではなかった。

またかの有名な「I can speak(またはtalk) Dutch」とサスケハナ号に叫んだのは達之助だが、ではなぜ「I can not speak English」ではなかったのだろうか。これについて、交渉の言語をオランダ語で行うという明確な意図を持ち、双方にとって第三の言葉であるオランダ語を使うことで平等に立とうとしたのではないか、という斉藤兆史のコメントが、NHKの番組を基にした『サムライと英語』から引用されている。
確かにその通りだろうし、幕府側が予期せぬ事態におろおろするばかりであったということでは全くなかったのだろうが(ご存知の通りペリー来航はオランダ風説書によって幕府は事前にその情報を掴んでいた)、未読なのにケチをつけるようで申し訳ないが『サムライと英語』などというタイトルには身構えてしまうし、過剰にロマンティサイズしてしまうことには慎重であるべきだろう。著者は達之助の玄孫であるが、本書には達之助を過度に美化するところはない。ちなみに通詞は身分としては武士ではなく町人であった。


通詞をめぐる事件といえば、日米和親条約の誤訳問題がある。通詞の語学力の問題とされることがある一方で、アメリカ側の責任であったという見方もある。この作業は英語、蘭語、漢文、和文が入り混じる複雑な工程を経ているので、その中で混乱が起こったことのだろうが、著者はアメリカ側の誤訳が幕府にとって有利に解釈できるものであったために、渡りに船とばかりにこの誤訳を進んで受け入れたのかもしれない、としている。

こうして下田で通訳、翻訳を行いながら、達之助は辞書類を含むたくさんの洋書を入手し、またアメリカ人とも交遊をしている。ここにはアメリカ人を装って入国したドイツ人リュードルフも含まれていた。リュードルフは日記に、達之助が「日本人がひどく遅れていることを非常によく認識して」いて、「ヨーロッパ人に好意をもっている」としている。

達之助はこのリュードルフとの接触によって4年もの間獄中で過ごすことになるが(達之助の養父堀儀左衛門もシーボルト事件に連座して失職しているように、通詞はこのような危険と背中合わせだった)、これは事件の発覚過程や(森山による密告説もある)、軽罪のはずが長期に入獄したこと、また釈放要求とその拒絶など不可解な点が多い。
そして達之助はこの時に獄中で吉田松陰と知り合っている。松陰の義弟である久坂玄瑞が後に達之助から英語を習うようになるなど、松陰の弟子たちの反応を見ても両者の関係は良好であったようだ。松陰が処刑されるのと入れ替わるように、達之助はようやく釈放される。

1858年の日英通商条約で、文書はこの5年後にはオランダ語を通さずに直接英語で書くようにとの合意がなされたために、幕府はその準備が急務となり、英和辞書の編纂も急がれた。すでに蕃書調所が設けられていたが、高い英語力を持つ達之助は欠くことのできない存在だった。あるいはこの釈放は辞書編纂に加わらせるためであったのかもしれない。
達之助は単語や会話を集めた英語学習書、『ファミリアル・メソッド』を刊行するなど、英語教育にも尽力し、また日本最初の「新聞」である、「バタヒヤ新聞」(英字紙の翻訳)で翻訳を担当するなど、日本のジャーナリズムの歴史に先鞭をつけた人物の一人でもあった。

達之助が中心に編纂された日本最初の英和辞書である『英和対訳袖珍辞書』は、従来はピカールの英蘭辞書の英語見出しをほぼそのまま使ったものとされてきた。辞書を編纂する際に既成の辞書を参考にするのは現在でも行われているのでなんら恥じ入ることではないが、しかし2007年に発見された原稿を見ると、ピカールの英蘭辞書を単に引き写したものではなく、入手したウェブスターなど他の辞書の知見を活かしつつ作成したものであることが明らかとなったようである。当然ながら英和辞書の編纂は現在とは比べ物にならない苦労を強いられるもので、そもそもその概念すら日本語にない見出し語をどう説明するかなど、凄まじい労力を要したことだろう。


こうして幕末から明治にかけて、高い語学力を持つ達之助の八面六臂の活躍が始まるのである……となっても良さそうなものなのに、実際には達之助の存在感は薄れていくのである。
達之助は函館で教鞭を取ることになるが、これを左遷であったとする見方もあり、また当人にとっても満足のいくものとはならなかったようだ。通訳の現場から長く離れていたが通訳として借り出され、ブランクからか思うように仕事ができずに周囲の失望を買ったという一幕もあった。

なお日本にやって来た青年修道士ニコライが、日本語を勉強するためか函館の北門社に通いつめ、そのせいでキリスト教を教えているとの風説が出て、ついには「ロシアの坊主、此より内に入るべからず」との札が立てられたが、ニコライはこれを無視して来塾し続けた。ここで教鞭をとっていたのが達之助であった。二人の間に何か接触があったのかどうかはわからないが、何とも興味深い歴史の一コマであろう。ニコライはこの函館で、新島襄と知り合うことになる。

達之助の函館在住時に函館戦争が起こり、ビットル、ペリー来航時にともに働いた中島親子はここで戦死している。一つの時代の終わりを告げるような出来事だと感じたのかもしれない。
達之助のみならず、森山栄之助など当時としては高い語学力を誇ったはずの通詞たちは維新後に活躍の場を見いだせない人が多かった。達之助と仕事を共にした西周とは6歳、面識があった福沢諭吉とは12歳しか年齢が離れていないことを思うと、晩年の約20年を達之助がほとんど忘れられたように過ごしたというのは不可解なことのようにも思えてしまう。通詞はあくまで町人という身分でもあり、達之助は中島のように幕臣としての強いこだわりがあったわけではなく、明治政府にも出仕していることを思うとなおさらである。もちろん当時としては比較的高い語学力を持っていたといっても後進に追い越されていったであろうし、また必要とされた社会思想的なものは通詞にとっては無縁、もっといえば禁忌に近いものでもあっただろう。通詞であったがゆえに限界があったのだろう。

では達之助が何もしていなかったのかというとそうではなく、明治13(1880)年には『歴史問答作文』という著作を出している。しかし著者はこれを当時のありきたりの尊皇思想的歴史書の寄せ集めの、ただの「愚痴」にすぎないと厳しく評価している。リュードルフの目には「日本人がひどく遅れていることを非常によく認識して」いて、「ヨーロッパ人に好意をもっている」と写っていたあの達之助と同一人物とは思えないほど、幼稚なナショナリズムに陥った著作であったようだ。今でも外国文学・文化・政治などを研究していた人が、右翼化して再登場するという醜悪なことがまま起こるが、達之助もそういった状況だったのだろうか。あるいは、吉田松陰と馬が合ったように、もともと達之助の中に尊皇攘夷的な思想があり、それが表に出てしまったのだろうか。
現在でもそうだが、外交官などはある種の「愛国心」がなければ務まらない仕事であろうが、しかしそれが非常に歪んだものに転化してしまうのも容易に起こることで、達之助はそういった面でも先駆的存在となってしまったのだろうか。


本書でも何度か言及されている吉村昭の『黒船』は達之助を主人公にした小説。それから手塚治虫の『陽だまりの樹』は、手塚の曽祖父である手塚良仙を登場させた幕末を舞台にした作品だが、本書によると森山栄之助が否定的な人物として言及されているとのこと。これはアニメ版も結構評価高いみたい。





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